人事部主導の「成果主義」は暴走する
経済アナリスト
森永 卓郎さん
年功序列制を廃止し、短期の数字で示す業績によって賃金を決める――そんな「成果主義」を導入する企業が増えています。働こうが働くまいが同じ給料の年功制に比べると、業績のいい社員には高給で報いる成果主義は正当だと言うのですが、しかし一方では、その運用の難しさから「これはどこかヘンだ」との声も出てきました。成果主義を導入して「失敗した」という企業の舞台裏を描いた本がベストセラーになったり、これまで成果主義を肯定的に報道してきたのに反対する方向へ変わったメディアもあったり……ともかく、この新しい雇用システムに対する見方はいまだ定まっていません。社員の動機づけや価格づけに成果主義は本当に効果的か。「副作用」はないのか? 経済アナリストの森永卓郎さんにご寄稿いただきました。
もりなが・たくろう●1957年東京都生まれ。東京大学経済学部卒。日本専売公社、経済企画庁などを経て、現在、UFJ総合研究所の経済・社会政策部部長兼主席研究員、獨協大学特任教授。テレビ朝日系「ニュースステーション」コメンテーターなど様々なメディアで活躍。2004年3月からニッポン放送のラジオ番組「森永卓郎の朝はモリタク! もりだくSUN」(毎週月~金曜日の午前6時から8時半まで)のパーソナリティーも務める。著書に『リストラと能力主義』(講談社現代新書)『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)『ミニカーからすべてを学んだ』(エイ出版)『就職お悩み相談室』(講談社、清水建宇氏との共著)など。
「裏方」の仕事には成果主義を適用してはいけない 年功序列・終身雇用のシステムのほうが合っている
成果主義がうまく機能しないのはなぜか?
成果主義という言葉が急速に企業経営に浸透してきている。労働政策研究・研修機構が2004年に行った「労働者の働く意欲と雇用管理のあり方に関する調査」によると、「評価の基準として年齢や勤続年数より成果を重視する」企業は約6割に及んでいる。しかし、成果主義を導入した企業で、当初の目的通りに成果主義の報酬システムが順調に機能しているというケースは少ないようだ。むしろ、成果主義が賃金カットの口実に使われているとしか考えられないケースのほうが多いくらいだ。
なぜ、成果主義がうまく機能しないのか。それは、成果主義に関して二つの大きな誤解があるからだ。一つは、成果主義の適用対象を間違えていること、もう一つは成果主義の運用方法を間違えていることだ。
成果主義型賃金の導入目的は価格づけと動機づけの二つだと言われている。公正に成果の分配を行い、そのことによって、従業員の勤労意欲を高めることが成果主義の目的だ。つまり、成果主義とは、毎年業績に見合った報酬を支払うことで、公平感と従業員のやる気を引き出す仕組みなのだ。
そう定義すると、成果主義は、至極当然の仕組みで、どんな仕事でも成果主義の処遇をするべきだと思われるかもしれない。しかし、そうではない。
世の中には、極端に分けると2種類の仕事がある。私はそれを表方(おもてかた)の仕事と裏方(うらかた)の仕事と呼んでいる。表方の仕事というのは、(1)その瞬間のひらめきが勝負で、(2)組織よりも個人の力が重要で、(3)予期せぬことを起こすことが期待される仕事だ。一方、裏方の仕事というのは、(1)長い努力の積み重ねが必要で、(2)チームワークが重要で、(3)何事も起こさず無事に完遂することが求められる仕事だ。
表方の仕事は、デザイナーやクリエーター、音楽家、スポーツ選手などが典型だろう。一方、裏方は、オフィスなら総務や経理などだが、最も典型的な裏方は製造現場だろう。そして、成果主義を適用してよいのは表方だけで、裏方に成果主義を適用してはならないのだ。裏方には、従来型の年功序列・終身雇用の処遇システムのほうが合っているのだ。そう言うと、それでは、裏方には動機づけの必要がないのかと思われるかもしれない。しかし、年功序列型賃金は、決して動機づけを放棄する賃金体系ではないのだ。確かに、年功序列制では若いうちは大きな賃金格差がつかない。だが、年齢を重ねるうちに、同期でも大きな格差がつくシステムになっている。
年功序列制では賃金の格差がつかないのか?
中高年になってから格差がつくのなら、若いうちは一生懸命働く動機づけがないと思われるだろう。しかし、年功序列制の下でも、若いうちから格差はついているのだ。
一つは、仕事だ。どんな会社にも「花形職場」というのがある。私が新卒で就職した専売公社では、人事部と企画部が花形職場だった。同期で一番優秀な人間は、必ずその職場に配属された。人事や企画が偉いという話ではない。そこに配属されることが、能力を評価されたことの証なのだ。
もう一つは、少額の査定だ。給与明細に、通常の給与の以外に「査定」として100円とか500円とかが加算されているサラリーマンも多いだろう。コーヒー一杯で消えてしまう金額だが、将来の出世のシグナルとして重要な意味があるのだ。高い査定を取り続けていけば、将来の出世が保証される。だから、小さな格差しかつかなくても、その小さな格差をめぐって、企業内の激しい競争が確保されるのだ。
もちろん、年功序列制の下でも最終的には格差がつくと言っても、完全な成果主義と比べたら、格差は小さい。だから、年功序列だと社内の競争は確保できても、社外からの競争に対応できない。高い報酬を提示されてヘッドハンティングを受けたら、ひとたまりもないのだ。
ただ、裏方の仕事は、一般にヘッドハンティングを受けるというような事態は起こらない。だから、動機づけのための小さな格差は必要だが、価格づけのために成果主義を導入する必要など最初からないのだ。
業界横断的な市場価値を持つ人には成果主義を適用、しかしその運用に気をつけないと副作用が出てくる
中村教授への褒賞金「200億円」は妥当か?
裏方の仕事に成果主義を入れることで、果たして動機づけの効果があるのかを考えさせる大きな事件が2004年1月に起きた。
青色発光ダイオードを開発したカリフォルニア大学の中村修二教授が、開発当時勤務していた日亜化学工業に特許権譲渡の対価の一部として200億円の支払いを要求していた裁判で、東京地裁が1月30日に、請求通り200億円の支払いを命じる判決を下したのだ。判決を報じたメディアは、「ノーベル賞級の発明をしながら、特許の対価として2万円しか受け取っていないというのは、あまりにかわいそうだ」と中村教授を擁護する論調が多かった。
私は、ある程度の褒賞金は必要だと思うが、200億円というのは行きすぎだと思う。中村教授が日亜化学を退職したときの年収は1600万円に達しており、年功序列制のなかでは、会社は十分に処遇していたからだ。しかし、重要なことは、中村教授が、年功序列制のなかでも必死に研究を行い、逆に、完全成果主義になった今では、目立った発明をしていないということだ。
研究開発というのは、裏方の要素が非常に強い。実際、研究活動は複数の研究者の分担で行われるケースがほとんどで、長い期間の努力の積み重ねとチームワークが重要になる。さらに、研究者のなかで誰が成果を出せるかは「運にかかっている」と言っても過言ではないだろう。そのなかで、たまたま成果に結びついた人だけが高額の報酬をもらうという仕組みよりも、研究者に安定した雇用と報酬が保証され、成功した場合にだけ、ある程度の上乗せがあるという報酬の仕組みをとったほうが、研究者は研究に没頭できるだろう。
女性キャスターの「本気度」はギャラ次第か?
そうした事情は、他の裏方の仕事でもほぼ同じだ。だから、裏方の仕事に成果主義を持ち込んではいけない。しかし、一方で、デザイナーやディーラー、コンサルタントなど、業界横断的な市場価値を持っている人たちには成果主義を適用せざるを得ない。成果主義は、そうした仕事では動機づけになるのか。実は、大いになるのである。
以前、ある女性キャスターから、「安い仕事だと本気にならない」という話を聞いたことがある。また、友人の医者は「付け届けを持ってくる患者は真剣に診察する」と言っていた。それらの話に私は違和感を覚えた。お金によって仕事への取り組み姿勢を変えるようなことが、本当にあり得るのか不思議だったからだ。しかし、正直言って、今はよく理解できるようになった。知的創造型の仕事は、しばしば特定の人に仕事が集中する。睡眠時間を削って、健康を犠牲にして引き受けても、単価が安いとやる気にならないのだ。
問題は、動機づけという面から見ると、成果主義は一種麻薬的なところがあることだ。いちど成果主義を入れると、容易に戻れなくなってしまうのだ。
心理学に「知恵の輪をするチンパンジー」という有名な実験があるそうだ。知恵の輪好きなチンパンジーがいて、チンパンジーはいつも楽しみとして知恵の輪をやっていた。ところが、ある日、飼育員が知恵の輪が解けたところで褒美のエサを与えたところ、それ以降、チンパンジーはエサを与えない限り、知恵の輪をやらなくなってしまったというのだ。
もちろん、エサを与えればチンパンジーは知恵の輪をするのだから、エサは有効な動機づけになっている。しかし、それまではエサなしでもやっていたことが、ご褒美の味を覚えてしまうと、エサなしでは行われなくなる。それは、二度と元へ戻れない変化なのだ。
成果主義も同じだ。成果主義の効果は確かに高い。しかし、その運用にはよほど気をつけておかないと、副作用が出てくる。成果主義を入れないで、会社が運営できるのなら、そのほうがよいと思う。手術のときに麻薬を使わなくても済むなら、使わないほうがよいに決まっているのと同じことだ。
「表方」の仕事の評価を人事部ができるはずがない 本当の成果主義とは「自由と自己責任」の仕組みだ
どうしたら公正で納得性の高い評価ができるか?
そうした成果主義の危険性を承知したうえで、成果主義の報酬制度を本来の機能を発揮できるように運用するためには、二つの条件が必要となるだろう。一つは、報酬の総額を付加価値にリンクさせること。もう一つは、その報酬のパイを公正に分配する仕組みをつくることだ。
広く行われている目標管理制度は、正しい成果主義とは言えない。成果主義のポイントは、評価の短期化と絶対化だと言われる。短期化とは、成果を上げたその年に報酬を与えることであり、絶対化とは2倍働いたら2倍の報酬を支払うということだ。目標管理ではそれが実現できない。仮に全員が、設定した目標の2倍働いたとしても、企業の付加価値が増えなければ、支払いの原資がないからだ。
報酬の総額を付加価値にリンクさせること自体はそう難しくはない。問題は、その配分をどうするかだ。最大の失敗は、配分の権限を人事部が握ることだ。そんなことをすれば、必ず現場から不満が出る。表方の仕事は、例外なく専門性の高い仕事だから、素人の人事部が評価できるはずがないのだ。
それでは、どうしたら公正で納得性の高い評価ができるのか。それは、可能な限り採算管理の単位を小さくして、そのチームごとに報酬の原資を与え、チームのなかで配分することだと思う。同じ仕事をしているチームのリーダーであれば、メンバーの貢献度の大きさはおのずとわかる。だから評価はチームリーダーが行えばよいのだ。
もちろん、チームリーダーが公正な評価を行う保証はどこにもない。だから、私はそれを保証するために、メンバーに自分自身の人事権を与えるべきだと思う。もしリーダーが不公正な評価をしたら、メンバーが他部署に出て行けるようにするのだ。そうすれば、リーダーは本来の貢献度から離れた評価をすることができなくなる。不公正な評価をすれば、チームメンバーを失ってしまうからだ。 そんな馬鹿な人事制度があるかと思われるかもしれないが、私の勤務するUFJ総合研究所では、実際にそうしている。
正しい成果主義制度の会社は日本にあるか?
私は、現場から離れている人が評価権を握っている限り、本当の成果主義は実施できないと思う。それは、成果主義の先進国であるアメリカでも同じだ。多くのアメリカ企業で行われている「部門長による評価」は、必ずしも正しい成果主義をもたらしていない。上司に媚を売り、同僚の足を引っ張ることのうまい社員が、しばしば高い評価を得ているのだ。
しかし、それでもアメリカの成果主義が暴走することが少ないのは、転職の自由、すなわち社員がみずから仕事を選ぶ自由があるからだ。不公正な評価をする職場からは、人が流出していくのだ。日本の場合、転職の自由は限られている。だから、成果主義の公正さを確保するためには、会社のなかでの異動の自由を意識的に確保しなければならない。誰がやっても成果の出ない部署に人事部が配属しておいて、そこで利益を上げられないからと言って、報酬を削るのはあまりに理不尽だ。
だから、私は人事権を人事部が握ったままで行われる日本のほとんどの会社での成果主義は、本物ではないと思う。今のかたちの成果主義なら、本当の実力を発揮するよりも、人事部や部門長に気に入られるように行動するほうが結果的に高い評価を得られるからだ。仕事を選ぶことのできる「自由」とそのうえでの結果を受け入れる「自己責任」の2つの組み合わせ、すなわち「自由と自己責任」の仕組みが本当の成果主義だと思う。
ただ、そこまで制度をきちんとつくっている会社は、残念ながら、日本ではまだほとんどないのではないだろうか。
(写真=菊地健)
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。