従業員を起点とした施策でキャリア自律を支援
「個を描き、磨き、輝かせる」中外製薬の人財マネジメント方針とは
矢野 嘉行さん(中外製薬株式会社 上席執行役員(人事、EHS推進統括、人事部担当))
髙田 雄介さん(中外製薬株式会社 人事部長)
日本企業の多くが課題としている自律人材の育成。その実践例として参考にしたいのが、がん・バイオに強みを持つ研究開発型製薬企業の中外製薬の取り組みです。従業員数は約7700名、売上収益は1兆1680億円(2022年期Coreベース実績)と、日本トップクラスの医療用医薬品メーカーとして存在感を発揮し、安定成長を続ける同社。さらに現在は2030年に向けた新たな成長戦略としてTOPI2030(2030年トップイノベーター像)を策定し、世界最高水準の創薬の実現や先進的事業モデルの構築を目指して、成長戦略を達成するための新たな人財マネジメント方針を定めています。中外製薬ではいかにして個人のキャリア自律を促し、組織風土の変革につなげているのでしょうか。上席執行役員の矢野嘉行さん、人事部長の髙田雄介さんに聞きました。
- 矢野 嘉行さん
- 中外製薬株式会社 上席執行役員(人事、EHS推進統括、人事部担当)
やの・よしゆき/1986年入社。営業本部、国際本部、5年の海外駐在を経験した後、経営企画部マネジャー、調査部長を歴任。2016年から人事部長、2019年に執行役員、翌年に人事統轄部門長、2022年3月から上席執行役員 人事・EHS推進統括、サステイナビリティ推進部担当 兼 人事部長を務め、2023年1月から現職。
- 髙田 雄介さん
- 中外製薬株式会社 人事部長
たかだ・ゆうすけ/1996年入社。営業本部MR、国際本部にて4年の欧州駐在の後、関節リウマチ治療薬・アクテムラのビジネスリーダーとしてマーケティング活動に従事。2016年から早期臨床開発ステージの製品評価でマネジャーを経験し、2022年より人事部企画グループマネジャーを経て、2023年から現職。
目指すのはトップ製薬企業ではなく「トップイノベーター」
中外製薬が新たに掲げた成長戦略TOP I2030の概要をお聞かせください。
矢野:当社は2002年にスイス・ロシュ社との戦略的提携を開始し、以降は世界的製薬企業グループの一角として事業を展開しています。一方で自主独立経営を行い、高い緊張感のもと、日本から世界へ通用する創薬の実現に取り組んできました。現状では治せない病気を治せるよう、あるいはより治療効果の高い薬を提供できるよう、創薬技術の進化とともに私たちも成長を続けています。
そうした中、2021年には新たな成長戦略としてTOP I2030を策定し、その中で「2030年トップイノベーター像」を発表。世界最高水準の創薬の実現と先進的事業モデルの構築に向けて、患者さん中心の高度で持続的な医療を実現するイノベーターとなることを宣言しました。
TOP I 2030で示している具体的なトップイノベーター像は三つあります。「中外製薬なら世界の患者さんが期待する」「世界の人財とプレーヤーを惹きつける」「世界のロールモデル」を目指していく。これらは、私たちが到達すべき姿を具現化したものだと言えます。
売上・収益においてもグローバル展開においても順調に推移している中外製薬が、さらなる変革を目指している理由とは何でしょうか。
髙田:従来の中外製薬が目指していたのは、国内トップクラスの製薬企業でした。患者さんが医療サービスを通じて経験する接点を表した「ペイシェント・ジャーニー」に基づいて考えるなら、予防・診断・治療・予後にまたがるジャーニーの中で、私たちはずっと治療の領域に貢献してきたのです。
しかし今後は、ペイシェント・ジャーニー全体、つまりヘルスケア領域全体に価値を提供していかなければ、さらなる成長を実現できません。これが「トップ製薬企業像」から「トップイノベーター像」へとフォーカスを変えた理由です。まずは日本からイノベーティブな医薬品を送り出し、デジタルテクノロジーや豊富なデータの活用も進めながら、ヘルスケア領域のイノベーションをリードしていきたいと考えています。
矢野:TOP I 2030ではデジタルトランスフォーメーションに加えて、オープンイノベーションも重要なテーマと置いています。ヘルスケア領域全体のイノベーションをリードするためには、自前主義から脱却し、これまでに連携してきた製薬企業やアカデミアだけでなくIT・デジタルなど、まったく違う業種とのコラボレーションも進めていかなければなりません。
髙田:新しい領域へのチャレンジという意味では、中外製薬は技術ドリブンの創薬への投資も加速させています。当社は低分子医薬品(化学合成によって生産される医薬品)からバイオ医薬品(生物由来の物質で生産され、低分子よりも製造難易度が高い医薬品)への技術シフトを実現して、現在の成長につなげてきました。さらに次の技術領域として中分子医薬品(低分子薬よりも多くの分子量を持ち、抗体医薬など高分子薬との中間にあたる医薬品)の創薬技術の確立に取り組んでいます。実現すれば従来の医薬品では届かなかった細胞内のターゲットへもアプローチできるようになります。
真面目で優しい風土だけでは次の成長を実現できない
TOP I 2030を実現するために、従業員にはどのような変革を期待していますか。
矢野:中外製薬の従業員はこれまでも「イノベーティブな創薬を実現して世界の患者さんに貢献したい」という志を持って仕事に臨んできました。これは開発部門だけでなく、営業部門やバックオフィス部門も同様です。また、ロシュグループのメンバーとグローバル環境で協働しながら、グローバルレベルのビジネスを取り入れつつ、チームワークを重視する伝統的な日本企業の風土も維持しています。これらは当社の強みだと捉えています。
一方で、チームワークを重視するがゆえに「人に優しすぎる」側面があるかもしれません。キャリア入社した従業員からはよく「周囲のメンバーが優しく、とても気を遣ってもらえる」という声を聞くのですが、裏を返せば厳しさが足りていない現れなのかもしれない。人の観点で考えれば、互いに優しいだけでは成長できません。製薬企業としてサイエンスやエビデンスに厳しく向き合っているように、人との関わりにおいても厳しい議論や物言いがもっとあってもいいと感じています。
髙田:私たちはずっと「誠実」という価値観を重視し、患者さんのために真面目に品質を追求してきました。その結果、社内の意思決定や業務推進におけるプロセスが徐々に重くなっていった面も否めません。環境変化に対応し、新たな挑戦を進めていく際は、複雑なプロセスが壁になってしまうことも大いにあります。
矢野:「真面目で優しい」。中外製薬の従業員の特徴を一言で表すなら、そう言えるでしょう。しかしこれからは、真面目に優しく連携するだけでなく、それぞれがさらに主体的に物事を動かしていくことが求められます。人事の面では、従来のキャリアは「会社から与えられるもの」「上司から指示されるもの」という観点で考えていた人が多いのも事実。しかし今後は、自分のキャリアを自分で考える「キャリア自律」が必要不可欠です。
従業員にとっては、これまでにない強いメッセージが会社から発信されている状況なのかもしれませんね。TOP I 2030に対する社内の反応はいかがでしょうか。
矢野:今までの延長線上にある成長戦略ではないことを、多くの従業員が感じていると思います。とはいえ、今まで培ってきた強みをすべて捨て去ってしまうわけではありません。中外製薬が取り組んでいるのは、いわゆる「両利きの経営」。従来の強みを伸ばしながら新たな強みを作るという葛藤を乗り越えていかなければいけません。当社は2020年にジョブ型人事制度へ変更し、チャンスと同時に厳しさも増していると思いますが、この背景には両利きの経営を目指す会社の覚悟があるのです。
髙田:私たち人事部門も覚悟を持って進化していかなければいけません。さらなる高みを目指すために一人ひとりが変わり、自らどんなキャリアを目指し、どう学んでいくのかを選択する。これがキャリア自律の入り口だと考えています。
「描く、磨く、輝く」の3要素、六つの人財マネジメント方針
TOP I 2030の実現に向けて、新たな人財マネジメント方針を策定したと伺いました。
髙田:大前提となるのは、個を強化していくために必要な「描く、磨く、輝く」の三つの要素です。
「描く」とは、個々がキャリアを描けるようにするということ。個人が自らの人生におけるパーパスを見出し、その先に会社のパーパスを一致させていきます。言葉にするのは簡単ですが、これは最も難しいポイントです。従来もキャリアシートなどを活用して個々のキャリア設計に取り組んできましたが、それを語り合ったり、あるいは称え合ったりすることはなかなかできていませんでした。
そこで現在は、対話を促進するための施策として「Check in」と名づけた1on1に取り組んでいます。上司や周囲の人は、本人が本当にやりたいことを引き出せるように質の高い質問を投げかけていかなければいけません。一朝一夕でできることではなく、コーチングのスキル向上や、職場の心理的安全性向上などを粘り強く進めているところです。
そうして個々のやりたいことが見えてくると、会社や部門が目指していることと照らし合わせ、現状では足りていない部分を明確にすることができます。これが自律的な学びの入り口となる「個を磨く」のフェーズです。
人事部門としてはIラーニングシステムなどを導入するとともに、社内サイトでは目指すキャリアゴールから逆算して必要な学びを探せるコンテンツを掲載しています。さらにグルーバル規模では、ロシュグループの企業と連携して海外へ人財を派遣する取り組みもあります。これまでの累積では、約250名の従業員が海外でキャリアを積み、戻ってきています。
こうした自律的なキャリア開発とともに、中外製薬では「個が輝ける」ようにするための体制作りや環境整備を進めています。働き方改革からさらに一段階進んだ「働きがい改革」として、ダイバーシティ&インクルージョンや健康経営などに取り組んでいます。
いずれの施策も、個を起点とすることが徹底されているのですね。
矢野:はい。重要なのは個人にフォーカスして施策を動かしていくことだと考えています。そして私たちが実行する施策の根底には「六つの人財マネジメント方針」があります。
- 新成長戦略に基づいてポジションをデザインし適財をアサイン
- 年齢・属性に捉われず挑戦し、役割・成果に応じたメリハリのある評価・処遇の実現
- 上司-部下のCheck-Inによるフィードバック文化の構築
- I-Learningの導入・拡充による自律的な学び/成長の支援
- 働きがい改革/D&I/健康経営の推進による活躍社員の増加
- 部門の枠を超えてイノベーションを生み出す風土の醸成
手がける施策は企業によって異なるかもしれませんが、その根底にある課題や、私たちが大切にする人財マネジメント方針に共感してくれる人事パーソンの方も多いのではないでしょうか。
自律支援型マネジメントへの転換。場合によっては「他社への転職」も応援
人財マネジメント方針に基づいて実際に施策を展開していく中で、特に難しいと感じる部分は何でしょうか。
矢野:先ほどもありましたが、まず「個を描く」ところで立ち止まってしまう従業員も珍しくありません。自律的にキャリアを描くためには、自分が何をしたいのかをあらためて考える必要があります。人によっては与えられた仕事をやっているほうが楽だと感じるかもしれませんが、自律に向けて壁を乗り越えてほしいと思っています。自分の軸があれば何事も主体的に考えられるようになり、上司から言われなくても会社や部門の理想に向かって動けるようになります。これは本当に大きな一歩なんです。
髙田:従業員はみんな、「やりたいこと」を必ず持っているはずです。しかし、これまではそれを問いかけてもらえなかったり、自分から話す場がなかったりして、表現することに慣れていません。だからこそ、個を描くプロセスを継続していく必要があるのだと考えています。
個を描くプロセスにおいては、上司の関わりが非常に重要だと思います。人事からマネジメント層へはどのようにアプローチしていますか。
矢野:従来は直接指示型のマネジメントが中心だったこともあり、現在は自律支援型マネジメントへ切り替えてもらうためのメッセージをさまざまな形で発信しています。自律支援型マネジメントとは、部下自身に考えさせるマネジメント。その際に重要となるのがCheck inでの対話と問いかけです。「なぜこの仕事をしているんだろう?」「なぜ自分がここにいるんだろう?」といった問いかけをしながら、対話をベースに自律支援を進めてもらっているところです。
髙田:個人が描くキャリアやパーパスは、かっこいい言葉で表現されるものではなくてもいいんです。自分は日常的に、どんなことに面白さを感じているのか。対話をくり返す中で自分の本当の関心が見えてきたら、それを等身大の言葉にできるよう働きかけています。上司と部下との対話でも、いきなりキャリアのゴールを聞くのではなく、身近なところから質問してもらうようにしています。
近年では若い世代を中心として、1社だけでキャリアを終えることを考えていない人がほとんどだと思います。本当の関心事やキャリアのゴールを突き詰めていった結果、若手が中外製薬を離れていってしまう懸念はありませんか。
髙田:マネジメント層からは「部下のキャリア自律を支援して、結果的に会社を飛び出していってしまったらどうするのか」という不安の声があるのも事実です。しかし、本質的な対話を避けてお茶を濁したままの状態では、その組織は新陳代謝もなく固定化してしまい、イノベーションを起こせないでしょう。何より個を描くプロセスが遮断されてしまいます。組織にとっても個人にとっても、キャリアに関する対話をオープンに重ねていくことが大切です。
矢野:確かに今は、一つの会社でキャリアのゴールを迎える時代ではなくなっています。私たちとしては、中外製薬の従業員がここでのキャリアをベースに他社でも活躍できるのなら、それは良いことだと考えています。場合によっては他社へ転職していくことも、個を磨く過程として応援するべきではないでしょうか。
会社としては、一旦外の世界に飛び出して勉強した従業員に再び中外製薬に戻ってきてもらうことも有効だと考えています。最近では現役社員とアルムナイの交流イベントも開催しているんです。私がアルムナイのオンライン会合に出て、中外製薬の現在の方向性やTOP I 2030について話すこともあります。こうした場を通じて、アカデミアやコンサルティングファームなどから中外製薬に戻ってきてくれるアルムナイ従業員も増えています。
また、留職や派遣など、会社を辞めずに別の業種で経験を積む機会も設けています。最近の事例では留職プログラムとして、社会課題解決を経験するためにインド・カンボジアへ1名ずつ、3ヵ月行ってもらったケースもありました。いずれの従業員もこれまでにない価値観を身につけて帰ってきてくれましたね。今後、それぞれが所属する職場での変化にも大きな期待を寄せています。
人事は、変革を進めていく上で「ど真ん中」の存在
人財マネジメント方針を軸とした施策によって、社内にはどのような効果や変化が見られますか。
髙田:まだまだ途中段階ではあるものの、従業員は徐々に自律的になってきていると感じます。
中外製薬が3年前に導入した新人事制度の中に、自ら手を挙げて重要ポジションに挑む「チャレンジアサイン制度」があります。従来は一定の職務等級の従業員しかアサインされなかったポジションでも、一定期間のチャレンジ期間を設けることで、規定の等級に満たない人がチャレンジできるようにしたのです。若い年齢でも実力があればマネジャーになることができ、シニアにも役職定年がありません。
この3年間で多くの人が手を挙げ、キャリアを切り開いています。最年少マネジャーが誕生するなど、3年間でマネジメントポジション全体は大きく若返りました。現在では30代のマネジャーも増えています。
矢野:従来の感覚では「マネジメントに挑むのはまだ早いのでは」と思われていた年齢の従業員も、チャレンジアサインを通じてそのまま上がっていく人が多いですね。また、マネジャーの年齢上限の足きりも設けていないので、シニア社員になってから初めてマネジャーに昇格した人もいます。意欲と能力があれば、何歳であっても挑戦できるのです。
そのベースにあるタレントマネジメントにより一層注力し、ポジションごとに誰が本当に適任なのかをしっかりと議論しています。
人財マネジメント方針を推進し、真に自律的な風土を定着させていくために、人事には何が求められるのでしょうか。
髙田:人事はこれまで、研修プログラムなどの施策を通じて陰ながら従業員の成長を支援してきました。しかしこれからの役割は違います。全社戦略を実現するための人財戦略を描き、人事が矢面に立って会社を変えていかなければなりません。そのためには私たち自身も個を描き、磨き、輝かせていけるよう、自らのキャリアと本気で向き合っていく必要があります。
矢野:人事は、こうした変革を進めていく上で「ど真ん中」の存在であり、最重要ポジションであるとも言えます。そして私たちは人事を「ビジネス部門に対して中外製薬の価値を最大化するためのソリューションを提供する存在」と定義しています。経営戦略と人財戦略をつなげ、変革を実現させるべく、これからも人事が矢面に立ち続けたいと考えています。