邂逅がキャリアを拓く【第13回】
負けるキャリアの価値:成功至上主義を超えて
一般社団法人日本CHRO協会 理事
西田 政之氏

時代の変化とともに人事に関する課題が増えるなか、自身の学びやキャリアについて想いを巡らせる人事パーソンも多いのではないでしょうか。長年にわたり人事の要職を務めてきた西田政之氏は、これまでにさまざまな「邂逅」があり、それらが今の自分をつくってきたと言います。偶然のめぐり逢いや思いがけない出逢いから何を学び、どう行動すべきなのか……。西田氏が人事パーソンに必要な学びについて語ります。
キャリアは、勝ち負けでありません。それでも私たちは、成功と失敗の枠組みの中で生きています。「負け」はネガティブなものと捉えられがちですが、本当にそうでしょうか? むしろ、失敗や挫折を経験し、それを糧に新たな道を切り開いた人こそが、強くしなやかなキャリアを築いています。本コラムでは、私自身の経験をもとに、「負けるキャリア」の価値について考えます。
敗北感からの転職:圧倒的な差を知った日
1993年、私は証券系運用会社で海外株式・債券担当のファンドマネージャーになりました。当時の日本の金融業界は市場開放・規制緩和の波を受け、外資系運用会社が次々と参入していました。そのグローバルなリサーチ体制と最新の投資手法は、日本勢を大きく凌駕していました。
「これはもう、勝負にならない……」
そう考えていた矢先に、外資系運用会社へトレーニー派遣される機会を得ました。その経験を通じて、彼らの圧倒的な優位性を改めて実感し、「勝負にならない」という想いがさらに強まりました。努力していた“つもり”でしたが、世界のトップレベルと比較すると、まるで高校野球の地方大会で強豪校に完敗した弱小校のようなもの。根本的に戦略や実力が違っていて、勝負にすらならない現実を突きつけられました。
帰国後、私は自分の立ち位置を冷静に見直しました。このまま国内の運用会社に留まって戦い続けるのか、それともより高度な環境に身を置くのか。その答えは明確でした。私は外資系企業への転職を決意したのです。単なる「逃げ」ではなく、より成長できる環境への移動でした。
哲学者シモーヌ・ヴェイユは、「苦しみは魂を鍛える浄化の過程であり、自己と世界の本質を理解する機会である」と語っています。敗北を経験したからこそ、自分の限界を知り、次の道へ踏み出す決断ができたのです。
戦略的アライアンス成功の末の燃え尽き症候群
外資系の年金資産運用コンサルティング会社に転職後、日本の大手金融機関との戦略的提携を推進するプロジェクトに参画。幾度となく訪れた交渉決裂の危機を乗り越え、双方の強みを活かした新たな商品を市場に送り出すことができました。これは私のキャリアの中でもトロフィー案件となりましたが、ある種の限界点でもありました。
プロジェクトが終わった瞬間、私は「燃え尽き症候群」に陥りました。まるでフッサールが語る『現象学的還元の極限状態』に陥ったかのように、それまで確かだったキャリアの意味が突然、空無となったのです。目標を達成したはずなのに、達成感よりもむしろ虚無感が広がる。次のゴールが見えず、初めて「何をすればいいのか分からない」という不安に襲われました。
転職の理由を問われると、人は「新しい挑戦を求めて」「キャリアアップのため」と説明することが多いでしょう。しかしながら、本当の決定打になるのは、もっとシンプルで感覚的なものではないでしょうか。
ある日、ふと気付きます。「この人の下で学ぶことは、もうないかもしれない」、あるいは、「この人の下で働くことはしんどい」と。そして、ふと感じます。「このチームと仕事をする熱量が、前とは違ってきたかもしれない」と。キャリアの分岐点とは、実はこんな些細な違和感の積み重ねでできているように思います。
そうなると、理由を探す必要もありません。むしろ「そっと離れる準備をする」ことが、すでに答えそのものなのです。
デカルトの言う「明晰判明な観念」のように、説明のつかない直感こそが、最も本質的な判断であるとも言えます。キャリアチェンジの本質とは、理論的な分析だけではなく、こうした感覚の蓄積がもたらす必然なのかもしれません。
そんな時、かつて知り合った米系人事コンサルティング会社の社長から、意外な誘いを受けました。それは、「人事」という全く未知の領域への挑戦でした。人事には、明確な正解がありません。また今後、あらゆる業務がAIによって効率化されるのは間違いありません。そんな中、むしろ「正解のないもの」こそが、人間の仕事として残り続けるだろう——そう確信させる予見がありました。人事の課題は奥深く、複雑で解のない問いの連続です。セカンドチャレンジとしてこれほど挑みがいのあるものはない。私は直感的にそう確信しました。
哲学者セネカは『生の短さについて』で、「人生の価値はその長さではなく、いかに充実して生きるかによって測られる」と述べています。特定の分野での成功に固執しすぎると、いつの間にかその目的を見失いかねません。私はこの言葉に触れ、もう少し広い視野で、しかも、本質的な意志に正直に、自らのキャリアを再考する契機を得たのでした。
キャリアに「勝ち負け」はあるのか?
「勝ち組・負け組」という言葉はキャリアの世界でもよく使われます。高収入や安定した職業が「成功」とされ、転職回数の多さや一時的な挫折が「負け」と見なされがちです。しかし、本当にキャリアに勝ち負けはあるのでしょうか?
カントの思想をキャリア論に応用するならば、「『負けた』という出来事は現象界に属するが、キャリアの本質は物自体として捉えるべきだ」と言えるかもしれません。つまり、短期的な敗北に一喜一憂するのではなく、自分がどのように成長し、どんな価値を生み出したのかに目を向けることが重要なのです。
キャリアは山あり谷ありの連続であり、その変化こそが本質です。他人の評価に左右されず、自分自身が「成功」の基準を定めることが鍵となります。年収や役職の上昇だけが成功ではなく、一見「負け」に見える選択が新たな可能性を開くこともあります。
私たちは生まれながらにして特定の役割やキャリアが決まっているわけではなく、選択と行動によって自らを形作っていきます。どのような状況でも、自分の意志で舵を切ることができるのです。「実存は本質に先立つ」という言葉が示すように、この姿勢こそが、しなやかなキャリアの礎となるのではないでしょうか。

自分の「庭」をつくる
キャリアは個人の意志だけでなく、社会との関係性にも影響されます。私たちは、職場や業界の常識、SNSでの評価、企業文化といった「外部の期待」に囲まれながら働いています。しかし、他者の目を気にしすぎると、キャリアの選択が自分の意志ではなく、外部からの評価基準に左右されてしまうことがあります。
この点については、宇野常寛の『庭の話』がひとつの示唆を与えてくれます。彼は、「庭」とは人間が外部とつながりながら、自らの世界を築く場だと述べています。現代社会では、SNSなどのプラットフォームが相互評価の場となっています。つまり、個人の選択やキャリアが「いいね」やフォロワー数といった外部の評価軸に影響されやすくなっています。
しかし、本来のキャリアは他者の評価ではなく、自分で耕し、育てるものです。他者の目を気にしすぎることで、あたかも「自分の庭」が他人によって決まるかのように錯覚してしまいます。キャリアの持続的な成長には、外部の期待から距離を置き、自分自身が納得できる選択をすることが不可欠です。
では、どうすれば「自分の庭」を育てられるのでしょうか? それは、自分なりの価値基準を持ち、長期的な視点でキャリアを耕すことです。短期的な評価に振り回されず、自らの成長や充足感を重視することで、環境の変化に左右されない軸を持つことができます。
しなやかに、負けることを恐れずに
キャリアに絶対的な成功はありません。「負けた」と感じる瞬間こそが、次の成長の扉を開くきっかけになります。
キャリアの充足感は、お金・ポジション・やりがいのバランスで成り立っているとしましょう。理想はすべてを満たすことですが、現実はそう単純ではありません。その時々で「自分にとって最適な比重」をみつけることになります。
また、キャリアは結果論として語られがちですが、能動的に「面白いストーリー」として描くこともできます。「次の転機をどのようにしてワクワクするシナリオにするか?」という視点を持つことで、選択が変わってきます。
キャリアの成功とは、一つの企業や職種を極めることだけでなく、自らの可能性を広げ、新たな価値を生み出し続けることです。時に「負けた」と感じる経験こそが、次の成長の扉を開く鍵になります。
失敗や挫折は後退ではなく、新たな道を切り開く機会です。アルベール・カミュは『シシュポスの神話』で、人生に明確な意味がなくとも、自ら意味を見いだして生きることができると述べています。「負け」を「変化への適応力を高める機会」と捉えてみる。キャリアもまた、意図的、あるいは、偶然の積み重ねの中で価値を創り出していくものではないでしょうか。
現代のキャリアでは、長期的な安定よりも、環境に応じて柔軟に選択を変えていく能力が求められます。過去の失敗や挫折を振り返ると、それが新たな道を切り開くきっかけになったことも多いはずです。
読者の皆さんも、ご自身のキャリアを振り返り、「負けた」と感じた経験がどのように自己成長につながったかを考えてみてください。そして、社会的評価にとらわれず、自分自身が納得できる成長の機会を重視してみてはいかがでしょうか。変化の激しい時代において、しなやかに適応し続けることが、持続可能なキャリアの鍵となるのです。

- 西田 政之氏
- 一般社団法人日本CHRO協会 理事
にしだ・まさゆき/1987年に金融分野からキャリアをスタート。1993年米国社費留学を経て、内外の投資会社でファンドマネージャー、金融法人営業、事業開発担当ディレクターなどを経験。2004年に人事コンサルティング会社マーサーへ転じたのを機に、人事・経営分野へキャリアを転換。2006年に同社取締役クライアントサービス代表を経て、2013年同社取締役COOに就任。その後、2015年にライフネット生命保険株式会社へ移籍し、同社取締役副社長兼CHROに就任。2021年6月に株式会社カインズ執行役員CHRO(最高人事責任者)兼 CAINZアカデミア学長に就任。2023年7月に株式会社ブレインパッド 常務執行役員CHROに就任。日本証券アナリスト協会検定会員、MBTI認定ユーザー、幕別町森林組合員、日本アンガーマネジメント協会 顧問も務める。