日本に根づくか消え去るか いま「成果主義」を問う
「成果主義」を終焉させる時が来た
東京大学大学院経済学研究科教授
高橋 伸夫さん
「年功序列」型の賃金制度への批判を追い風にして、日本の企業へ一気に広がった「成果主義」。ところが、その導入からしばらくして「これはどこか変だぞ」という違和感が多くの職場に漂い始めます。そして、それまで誰もが称賛していた新しいシステムを初めて真正面から批判した本――2004年1月刊の『虚妄の成果主義』(日経BP社)がベストセラーとなるに至って、「成果主義」のイメージは逆転しました。今、日本の企業は「成果主義」に振り回されたあげく、その見直しを余儀なくされている状況です。これから「成果主義」はどうなるのか。企業はどうしたらいいのか? 同書の著者で東京大学教授の高橋伸夫さんに聞きます。
(取材・構成=岩崎義人、写真=中岡秀人)
- たかはし・のぶお●1957年生まれ。小樽商科大学卒業。筑波大学大学院社会工学研究科単位取得。学術博士(筑波大学)。東京大学教養学部助手、東北大学経済学部助教授、東京大学大学院経済学研究科助教授などを経て、現在は同大学大学院経済学研究科教授。専門は経営学・経営組織論。研究課題は日本企業の意思決定原理、組織活性化。特定非営利活動法人グローバルビジネスリサーチセンター理事長も務める。主な著書に『虚妄の成果主義――日本型年功制復活のススメ』(日経BP社)『できる社員は「やり過ごす」』(日本経済新聞社)など。近著に『〈育てる経営〉の戦略――ポスト成果主義への道』(講談社選書メチエ)。
いつまで「成果主義」の議論を続けるのか?
差のつかない「年功序列」の日本企業を見たことがない
年功序列制度を廃止し、短期の数字で示す業績によって社員の賃金を決める。「成果主義」が組織を活性化してくれると固く信じていたのに、それを導入した多くの企業で社員が何かもやもやした違和感を覚え始めた頃、高橋さんのご著書『虚妄の成果主義』(2004年1月)が出版されたように思います。日本企業でブームになっていた「成果主義」に対して、この本が初めての本格的な批判を展開した。それから「成果主義」に反対する方向へ、流れが大きく変わりました。
「成果主義」を推進するコンサルタント会社や評論家、学者たちは、まず年功序列制を批判しますよね。働こうが働くまいが同じ給料だし、社員に差がつかない。それじゃあダメだ、と言う。でも私は、そういう「真に年功序列だ」と言えるような日本の企業を、これまで1社も見たことがありません。東京大学教養学部で助手をしていた20代の頃から、私は、あるグループ研究をつうじて15年以上、さまざまな企業の社員からいろいろな話を聞いてきました。ざっと計算して数千時間も、ただひたすら、おじさんたちの話を聞き続けてきたわけです。ところが、そんな深いお付き合いをしてきた中で、差のつかない年功序列の大手企業なんて1社もなかったのです。
年功制だと差がつかない、というわけではないと。
そうです。もう20年も昔の話になりますが、「あなたの会社は年功序列ですか? それとも実力主義・能力主義ですか?」という質問を何社かの企業の従業員数百人を対象に行ったこともありました。そのとき、20代の駆け出し社員では「年功序列です」という回答が目立ったけれど、その一方で、40代以上の社員のほとんどは「実力主義です」「能力主義だ」と回答したんですね。入社して最初の昇進がほぼ横一列のことが多いので、20代前半の社員は年功序列だと感じたのでしょうが、そもそもこの段階ですら、たとえば同じ係長ポストでも、明らかに軽重がある。そして40代にもなると、同期入社組の間ですら、上は取締役から、下はヒラ社員までいた。20年前の大卒ホワイトカラーの職場でさえそうだったのです。社員に明らかな差がついていて、これではとても年功序列には見えない、というわけです。
それなのに、この数年、企業が相次いで「成果主義」を導入していた頃は、私が「日本型年功制」と呼んでいる日本企業のそのような現実が全く無視されていたでしょう。「成果主義」を推進する人たちが、日本企業の何を批判しているのか、私にはさっぱりわからなかった。彼らが批判する年功序列の会社なんて、そもそも存在しなかったんですよ。そうしたことが『虚妄の成果主義』を書くきっかけの一つになったんです。
年功制でも差がつくということに気づいていないのかもしれません。
もともと「日本型年功制」の年功制たるゆえんは年齢別生活費補償給というだけであって、30代くらいまでの賃金の最低ラインを押さえているだけの話ですから、もちろん賃金の差は歴然とついていくわけですよ。しかし、ここがもう一つの重要なポイントなのですが、日本の企業は、その差をいきなりお金じゃなくて、まずは仕事の内容でつけてきたのです。一つの仕事を達成したら、さらに大きな仕事が、その仕事を達成したら、次にはもっと大きな仕事が……という具合に、仕事の内容にどんどん差がついてくるのです。
ここで大きな仕事というのには二つの意味がある。一つは予算的に大きな仕事という意味で、予算的に大きな仕事になればなるほど、より大きな数字、成果を残せるようになる。これは当然ですよね。成果の大きさなんて、もともと任せられる仕事によって決まってくるものなんですよ。もう一つは人員規模的に大きな仕事という意味で、人員規模的に大きな仕事を任されるということは、それすなわち、その人が昇進しているという意味なんです。偉くならないと大きな組織は扱えないわけですからね。こんなの当たり前でしょう。仕事の大きさに合わせるかたちで処遇や昇進にも差がついていたんですね。
今でも、「ウチの会社は年功序列だから、全然差がつかないんですよ」と言う人がいますけど、その会社の社長さんが「生え抜き」だったりするんですね。定年前の年齢で、生え抜きの社長がいるということは、その社長は少なくとも何人かの先輩を追い抜いてきたわけで、それはもう年功序列じゃありませんよね。正真正銘の年功序列でやったら、必ず最年長の人が社長に就任することになる。そのように指摘をすると、「そう言われてみればそうですね」なんて初めて気づくわけです。「成果主義」導入の前提として、年功序列はダメだからと言うけど、年功序列制の会社なんて、そもそも存在しないのです。
だとすれば、「年功制」という言葉は、どういう意味で捉えたらいいのでしょう。
「年功制」とは、賃金的に言えば、賃金が年齢とともに上昇していく、ということを意味しているわけではありません。正確に言えば、さっきも言ったように、年齢別生活費保障給というだけなんですよ。つまり、社員の賃金に最低ラインを設けたり、社員に生活ができるだけの金額を保障したりするものなのです。だから50代にもなると賃金カーブが上昇し続けるとは限らない。しかも、「年功制」は差がつかないシステムというわけではない。
もともと日本企業では、社員のモチベーションを高めるために賃金カーブが設計されてきたわけではないんです。これは労働経済学者がみんな指摘していることです。それではモチベーションはどうやって? ということになりますが、そこで登場するのが「仕事」だったわけです。仕事の内容がそのままモチベーションにつながっていたんですね。
それに、企業の現場の感覚は「給料に見合った働きをしろ」に近いですよね。だから、年齢とともに賃金が上がれば、社員はそれに見合った業績を会社から求められる。そこで業績に善し悪しが出ると昇進に差がつき、処遇にもそれが反映されていく。実はとても厳しいシステムなんですね。『虚妄の成果主義』でそういったことを言いたかったのです。それが、ちょうど「成果主義」に関して現場でネガティブな実感が出始めたタイミングと重なったので、雰囲気に乗ったのかもしれません。私としては、本の中で新しいことは何も言っていないと思うし、企業のまともな人が聞いたら「当たり前だ」ということしか書いていないと思うんです。それがこんなに反響を呼んだのは、きっと今の日本企業が当たり前じゃないからでしょう。
社員の働きには「お金」ではなく「仕事」で報いるべきだ
かつての日本企業の「年功制」では、年齢に応じて上昇する賃金が社員の生活を保障し、しかし賃金が上がったときには、そのぶん業績を上げなければという圧力が社員にかかることになる。確かに厳しいシステムだと言えますね。
だけど、賃金が上がるときには、社員は自分の仕事が大きくなったり高度になったり、面白くなっている。だから、やる気が出る。賃金が上がったぶんは働こうと、がんばれるんですね。そういうふうに「年功制」というのは、社員の働きに対して仕事の内容と面白さで報いてきました。今の「成果主義」では、社員が成果を出したら高い賃金を払う。お金で差をつけたら人は働くようになる、という発想ですが、誰しもお金のためだけに仕事をするのではありません。「成果を出したら金を払うと言っているんだから、嫌な仕事でも文句を言わずに働け!」では、働く気にはなりません。嫌な仕事を長く続けるのは無理です。お金のことよりも、その仕事が面白いから働くと私は思うんです。
しかも長期雇用の場合には、今の仕事に満足する必要は必ずしもないんですよ。私が「次の仕事」で報いると言っている意味は、今の仕事がたとえ裏方の雑用でつまらない仕事であろうとも、それをきちんとやれば、次にはもっとやりがいのある面白い仕事をやらせてくれると期待できることが重要だと言っているのです。つまらない今の仕事でも、将来、きっとその経験が生きることがあることを上司はちゃんと説明する必要がありますね。「金は払っているんだから、文句言わずに働くはずだ」では、単なる手抜きですし、そもそもそう考えられる根拠がわからない。
成果の「配分」も、お金だけではありませんか。
ええ。私が、日本企業の人事システムの本質が、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムですよという際には、もう一つの重要なメッセージを込めています。それは、株主への配当を除けば、実は成果の配分には二通りのやり方があるのだ、という当たり前の事実の指摘なんですよ。一つは賃金のかたちでの成果配分、そしてもう一つは、投資のかたちでの成果配分なんです。「成果主義」を声高に主張している人は賃金のことしか頭にないようですが、経営学者の立場から言わせてもらえば、投資のかたちでの成果配分のほうが、はるかに重要です。そして、それには必ず「仕事」の配分が伴うのです。
企業の業績が向上してお金がある状況になったとしたら、もっと新規事業に進出したり、既存事業を拡大したりするための投資を考えるべきです。投資をすれば、それをきっかけに新しい人が入ってきたり、新しい部署もできたり、やりがいのある仕事だって今よりも増える可能性が大きいでしょう。企業の投資というのは社員の仕事に直結する。こんなことは当たり前だと思うのですが、「成果主義」を導入した企業では誰もやりません。成果配分というと「賃金」しか想像できないように思考が退化してしまっているからです。
投資なんて言われてもお金がない、という企業もあるのでは?
少し前までなら、確かに「お金がない」という企業が多かったかもしれません。でも今は景気回復局面にあるわけだし、それに、ライブドアとフジテレビの一件があって以来、多くの企業が「買収防衛策が必要だ」と躍起になっていますよね。そういう声が企業から出てくるのはなぜかというと、単純な理由で、どの企業にも「内部留保」があるからです。投資ファンドから狙われる、すぐ防衛策を立てなくちゃ、と危機感を抱くほどの「内部留保」があるということですから、そんな企業が「お金がない」なんて言えないでしょう(笑)。それを投資ファンドに増配してしまうくらいなら、自分たちで投資に使いましょうよ、と私は言いたいですね。成果配分と称して社員の賃金に差をつけても、投資なしには会社のパイは大きくなりません。内向き志向で社内の雰囲気をどんどん悪くしてしまうよりも、投資で事業拡大を図るほうがよっぽどいいと思うんです。
成果配分をどうするか。社員にどれだけの差をつけるか。そういう議論をしている場合ではないということですか。
そう。企業の経営者は今、人事制度をああだこうだといじっている場合ではないし、これ以上「成果主義」の議論を続けている時間もないでしょう。そもそも、そんな仕事が企業経営者の本来の仕事とは思えません。経営者とは特別な人です。経営者の仕事とは、自らリスクをとって事業と組織を発展させること。それができない人は経営者を辞めるべきです。
「成果主義」を導入して給料に1万円とか10万円の差をつけたら、今いる社員がもっと働くのではないか、などと短絡的に考えること自体、頭が退化してしまっているように思います。発想自体が萎縮していますよ。今の若い世代がホリエモンに好感を持っているのは、あれだけの大きな金額を動かして仕事をしているのが、おもしろそうに見えるからでしょう。それに引き換え既存企業の経営者は「成果主義」で社員をいじめているだけに見えるでしょうね(笑)。
そんな企業に若い人は集まってこないでしょうね。
企業の経営者が成果配分を投資に使って、成功するか失敗するかはともかく、たとえば何百億円かけて新しい工場を建てたりしたら、「ウチの会社って凄いんだな」と思う社員が少なくないはずです。そこで新しい部署ができて、新しい社員が入社してきて、「君のところに部下としてつけるから、よろしくね」と新しい組織を任された社員は、これは大変だと思いつつもやりがいを感じるはずです。今の日本企業では、そういう状況がなかなか起きない。何と言うか、完全にツボが外れています。仕事の成果をお金ではなく、仕事で報いる――かつて日本の企業でやっていたことが、なぜ忘れられてしまったのだろうと私は思うのです。
このまま「成果主義」を続けたらどうなるか?
経営者たちは萎縮した「内向き」の発想に囚われている
日本の企業がこのまま「成果主義」を続けていったら、どうなるでしょうか。
どんどん余裕がなくなるでしょうね。なにしろパイがどんどん小さくなっていくわけですから。ある大手企業の労務担当の役員さんは「この4、5年、ウチの社長は私の顔を見ると『もっとリストラできないか』とか『人件費を削れ』とか、そんなことばっかりなんですよ」と嘆いていました。役員さんは、リストラも人件費削減もすでに限界に来ていると言う。「もともと私の会社の特徴は余裕があることだったのに」と。歴史のある会社、たとえば旧財閥系の企業などはとくにそうですが、かつては余剰人員対策のために新規の事業を始めることもしていました。今はそんなケースは見当たりません。余裕がないので、新規事業を始めようと思ったらどこか別の部署を潰してやるしかない。悪い意味のスクラップ・アンド・ビルドです。
企業の経営者は、やっぱり投資を考えなくてはいけない。
ええ。これ以上、内向きに「成果主義」でネチネチと社員ばかりをいじめることはやめて、経営者の決断と責任で、新しい事業や既存事業の拡大をやってみる。失敗もあるかもしれないけれど、生き残る事業もあるかもしれない。それを、10年後、20年後の企業の柱となるように育てていく。その大事な事業を担う人材を今から育てないといけません。とにかく人材も事業も育てるのには時間がかかるのですよ。
投資は、経営者が責任を持ってやる以外にありません。ただ、多くの経営者は投資のリスクを負いたがらないような気がします。
今の日本企業の経営者が、経営者になって最初にやろうとするのは何かというと、人事です。組織図を書き換えて、社員を動かそうとする。「成果主義」が流行り出してからは、さらに人事制度もいじる。人を動かしたり、人事制度をいじったり、そんな経営者に共通するのは、「内向き」だということですね。社内に閉じている仕事ばかりに手をつけているのですから、実行不可能なわけでも、失敗するわけでもない。人を動かすだけでなく、人を削れば、目先の利益だって確保できる。だけど、それって萎縮する経営なんですよ。経営者が内向きの発想で、自分の失敗につながることから逃げてしまっている。そこが、そもそもおかしい。
投資は逆に、外へ向かっていく発想ですね。
そうです。外へ向かって経営の舵取りをすれば、当然、リスクも伴います。私に言わせれば、それができないような経営者は交代すべきです。冗談みたいな話ですが、高収益で有名なある会社が、バブルの負債をようやく返し終えて、いよいよ、相当な金額の当期利益を計上できるような目途が立ったらしい。ところが、そこで大変な事実に気がついた。これまで10年以上、借金を返すことが大義名分で、営業利益を上げてはせっせと返していれば済んでいたのに、これからは余剰資金を投資しなくてはならない。にもかかわらず、経営者にはアイデアがない(笑)。社員も、現経営陣では無理ではないかとうすうす感じている。そこで何の脈絡があるのか私には全く理解できないけど、とりあえず「成果主義」を強化してみた。社員も馬鹿ではないので「それは(選択肢として)ない」とあきれる。こんな馬鹿馬鹿しい話ってないですよね。投資できないのであれば、わが社のリストラ期の経営は私が担当しました、だけどこれからの拡張期の経営には私は向いていない、だから次の人に社長の椅子を譲ります、と言えば済んでしまう。ただそれだけの話なのですから。
「社員の生活は会社が守る」と社長に言わせるT社人事部
社員だって、もっとおもしろい仕事にチャレンジしたいとか、お金のことはいいから仕事にのめり込みたいと望んでいるかもしれません。
私もそう思います。ただ、お金よりも仕事を優先して、生活が破綻してしまっては困るから、普通に暮らしていけるだけの賃金は欲しいとみんな思っているでしょう。それさえ保障されていれば、高い給料じゃなくてもチャレンジしますよね。本来、日本の企業の活力の原点はそこにあったはずなんです。たとえば「生活費には困らないようにする」とか「社員の生活は会社が守ります」とかいうことを経営者が社員に向かって宣言したら、社員の側の安心感とかやる気が全然変わってくると思うんですね。今は経営が苦しいから一律に賃金カットをやるけれども、誰にも辞めろなんて言わないから、何とかみんなで凌いでいこうとか、そんな言葉のある経営者が求められていると私は思う。
実際にそんな経営者がいるでしょうか。
年配のコンサルタントに言わせると、10年前までは日本中にたくさんいたそうです。「そういえば、いつの間にか聞かなくなったなあ」と嘆いていました。もっとも、今でもT社の人事部では、「年1回、社長に『社員の生活は会社が守る』と言わせる」ことが重要な仕事の一つになっているそうです。凄いなと思ったのは「これは人事の仕事だ」と人事部員たちがきちんと認識していることですね。
しかも社長にその一言を言わせるだけの力を人事部が持っている。これは、昔は当たり前だったのかもしれませんが、やはり凄いことです。優れた企業というのは社員のことを、仕事から生活までトータルに、長い目で見ている。そして企業をそのようにしていく力を、人事部は持っているものなんです。
どこまで「成果主義」ブームは広がっていくのか?
「看板」を残したまま中身だけ変えようとする失敗企業
「成果主義」でうまくいく企業はないのでしょうか。
事業に成功したら売り抜けて、すべて清算する、そんなベンチャー企業だったら「成果主義」は合うかもしれません。でも、一度成功したベンチャー企業が、清算しないでさらに大きくなろうというとき、「成果主義」をやると失敗します。「成果主義」で実績を挙げた社員を中心に据えた事業プランに投資してはいけないんですよ。投資とか新規事業に、本来、過去の実績など関係ありません。実績があれば安心材料にはなるかもしれませんが、本質的には関係ありません。これまで目立った実績をあげていなくても、今、面白そうなプランや有望な企画を持っている社員を中心にしなければいけない。
かつて華々しく「成果主義」を導入した企業も、次々と見直しを余儀なくされています。
「成果主義」導入で業績が向上したと言われ、一見、うまくいっているような企業も、「成果主義」の看板は残したまま中身を変えようとしています。「もうやめようと思っています」という話を何社も聞きましたから。すでに中身を変えてしまった会社も知っていますよ。「一種のセレモニーですから」なんて言っていましたが、でも、どうして「成果主義をやめる」とはっきり言えないのか。看板だけを残すのは姑息だと私は思うのですが。
そういう状況の中で、これから導入しようという企業はありますか。
ありますよ。今、地方の中小企業は、東京で流行っているからという理由で、「成果主義」の導入を始めています。言い方は悪いですが、カモになっているわけです。大半が百数十人の規模ですから、わざわざ一人ひとりの社員に点数をつけなくても、どの社員が優秀で、どの社員がダメなのかということぐらい、まともな社長が見れば、すぐわかるはずなのに、目標管理制度などを入れているんですね。「成果主義」を推進するコンサルタント会社が、東京では企業への導入が進んだうえに、最近評判が悪いので、地方の中小企業へと矛先を向けた、ということでしょうね。地方巡業風のキャンペーンまでやっているところがありますが、あきれます。良識を疑いますね。
日本経団連が毎年発行する「経営労働政策委員会報告」の2005年版では、その本文中から「成果主義」という言葉が消えています。加盟の日本企業の経営者は「成果主義」の看板を降ろした、と言うことができるかもしれません。
私はその冊子を草稿段階で目にする機会がありましたが、そのときは「成果主義」という言葉が溢れていて、まだこんなことを言っているのかと思っていました。ところが、完成した冊子では「成果主義」と言う言葉がきれいさっぱりなくなっていたんですね。あれ? と思ったけど、経団連が「成果主義」を削除した気持ちはわかります。大手の企業は「成果主義」に失敗しても回復する余力があるからまだいい。だけど、余裕のない中小企業が失敗したら、どうなるのか。社員が離れていって、もうおしまいですよ。経団連には、そんな懸念もあったのではないでしょうか。
経営者も社員も人事部も本来の仕事に戻るときだ
「成果主義」を導入してから、評価作業に膨大な時間を費やす人事担当者が増えたと言います。
人事担当者よりも現場の管理職のほうが被害者ですよ。成果主義評価に疲れた、ある部長がこう言ったそうですよ。「もう評価はいいや。人事部にはずいぶんと付き合ってやっただろう? そろそろ仕事をさせてくれないかな。私は自分の仕事がしたいんだよ」とね。だいたい点数なんかつけなくても、人事はできていたわけですから。現場にとっては、いい迷惑なんです。こんなことをさせている人事部は、存在価値がなくなるかもしれません。
単純な評価作業などは何も人事部員が担当しなくても、派遣社員にお願いしたりコンサルタント会社に外注したりできます。人事部の仕事というのはもっと大きいものであるはずです。たとえば、新規事業を始めたとき「いい人材を回してくれ」と求められて、即座に期待以上の人材を配置する、というようなことです。かつての人事部はそれができましたね。社内に埋もれていた優秀な人材や異能の人材もそれなりにマネジメントして、拡張期・成長期には業績向上に大きな役割を果たしていた。「やっぱり人事部は凄いな」と社内の尊敬を集めたものです。今の人事部に「新規事業の人材を」と求めても、誰も適任者を見つけられず、外部のヘッドハンティング会社に頼ったり、「成果主義」でつけた点数の高い社員を無意味に配置したりするのが関の山かもしれません。
結局、経営者も社員も、そして人事部も「成果主義」に振り回されているような気がします。
「振り回された」と被害者面をしていられるのも、そろそろ限界だと思いますよ。気づいてやらないなら、同罪です。これ以上、「成果主義」にこだわるのであれば、「会社をおかしくしたのはあなたたちだ」と部下や後輩から指弾される覚悟をすべきですね。従業員のアンケートをとって、成果主義や賃金制度に対する不満や問題点を総括するなり、期間を区切って目標数字を出して、それが達成できない場合には成果主義自体を放棄すると宣言するなり、とにかく何か行動を起こすべきです。
私は経営学者ですけど、企業経営の観点から見ると、賃金とか人事制度などは、企業が取り組むべき課題のごく一部にすぎません。人事部にとっても、本来の仕事の一部にすぎないはずです。今は、こんな一部の課題のために企業全体までがおかしくなっている。経営者は新事業や事業拡大を、社員はお金じゃなくて面白い仕事を、人事部は社員に点数をつけることなどやめて次の世代の人材育成を、今すぐ始めなくてはいけません。経営者も社員も人事部も、自分の本来の仕事に戻りましょう。そう私は言いたいだけなのです。
(取材は2005年6月9日、東京・本郷の東京大学にて)