酒場学習論【第44回】
「旬味屋サンタ」とオン・ボーディング
株式会社Jストリーム 管理本部副本部長 兼 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
東京の東の外れに葛西という街があります。大手町から8駅と交通便利な割に不動産価格が比較的抑えられているため、単身世帯、子育て世帯、単身赴任者の借上社宅、独身寮などが多い地域です。1968年の地下鉄東西線開通後に発展した新しい街です。ですから、歴史を持つ酒場があるわけでもなく、チェーン店文化にやや押され気味です。住民構成からすると、もう少し一人吞みに適した個人経営酒場があってもいいと思うのですが。そんな中にあって貴重で大切な酒場が、「旬味屋サンタ」です。
駅からは決して近くありません。提供する酒も日本酒が中心で、万人に迎合してはいません。外から酒場の中が見えず、初訪の人は少し気後れするかもしれません。しかし、何か人を惹きつける魅力のある酒場なのです。日本酒の品ぞろえは、なかなか個性的で魅力的です。大半の客が日本酒を楽しんでいます。といっても、日本酒にマニアックな常連が集まる酒場というわけではありません。普通の人が普通に日本酒を楽しんでいます。
私は、常連と言われるほどの頻度ではお邪魔できていませんが、立ち寄るたびに他のお客さまとの会話を楽しみながら、燗酒をひたすら吞み続けます。アテは魚系をよくいただきます。とても安心して、リラックスして酒が呑める酒場です。とても、ちょうどいい酒場なのです。
私は子供の頃、何度も転校を経験しました。2年に一度のペースで学校が変わりましたが、転校するのはいつも2学期の初日でした。長い夏休み明けの始業式に初めての学校に行くのです。2学期ですから、クラス内のチームビルディングはすっかりとできています。そこに異分子として飛び込むのです。担任の先生に連れられて教室の前まで行きます。先生が引き戸をガラッと開けて教室に入るのについていきます。引き戸を引いた瞬間に教室中の視線が突き刺さります。どんな奴が来たのかと興味津々なわけです。
大人になり、酒場巡りが趣味になりました。常連が多そうで、ややハードルが高く感じる酒場を初めて訪れるとき、引き戸を引く瞬間にはそれなりの緊張感があります。そして、引き戸をガラッと開けて酒場に入る瞬間に、コの字カウンターに座る酒場中の常連の皆さんの視線が突き刺さります。2学期の始業式の転校生のような気持ちになり、一言挨拶をした上で視線をかいくぐってカウンターの席に座ります。アルコールと酒場の雰囲気の力で、この緊張感が徐々に緩んでいきます。これが酒場の醍醐味の一つです。もちろん、なかなか緩まない酒場もあるのですが……。
旬味屋サンタも、外からは店内が見えず、初訪の人は少しひるむかもしれません。でも、扉を開けた瞬間に視線が突き刺さるようなことは多分ないでしょう。常連の多い酒場ではありますが、厳しい雰囲気は一つもありません。女将は、常連も初訪のお客さまも分け隔てることなく声をかけています。とはいえ、過剰に入り込むわけではありません。
一人客が圧倒的に多い酒場ですが、お客同士の会話がそこかしこで花が咲きます。さりとて、うるさいくらい盛り上がる人もいません。息苦しい同調圧力も感じません。人を避けるように一人で吞み続けることにこだわる人もあまり見ません。誰もが自然に酒場の会話に入り、何となく知らない同士が対話をします。そんなちょうどいい酒場なのです。この「ちょうどいい」感はなかなか意図的に出せるものではありません。
人事の世界で、ここのところ重要視されている概念の一つに「オン・ボーディング」があります。『日本の人事部』には、「オン・ボーディング(On-Boarding)とは、中途入社者を含めた新入社員を早期に戦力化するための施策のこと。業務プロセスを理解するのに必要な情報をポータルサイトにまとめたり、同僚や上司などと定期的に面談して相談や悩みごとを話す機会を設けたりするなど、人事と配属先の部署などが一体かつ継続的にサポートする点が特長です」とあります。
従来はあまり中途採用を行っていなかった新卒採用中心の企業が本格的に中途採用を始めるのであれば、「オン・ボーディング」は、非常に重要な取り組みになります。そんな企業に入る中途入社者は、2学期の始業式の転校生と同じような立場です。常連ばかりの酒場の引き戸を一人であける酒場好きと同じような立場です。
常連ばかりの酒場は、メニューがほとんどなかったり、注文をいつ、どのようにしていいのかがわからなかったりと、いろいろな不文律があり、新参者を悩み、苦しめます。カウンターの端の席に座ったら、「そこは〇〇さんが来る席だから座っちゃだめだよ」とたしなめられることすらあります。慣れてくると、このサバイバルも楽しいのですが、最初の頃はそうはいきません。
中途入社者の受け入れに慣れていない企業は、中途入社者にこのような酒場と同じような気持ちに陥らせている可能性があります。新しい企業にどんな人がいるのか、社内の常識、仕事のやり方、社内用語、ファシリティ、必要な書類のありか、独自のシステムの扱い方、各種申請のやり方など、わからないことだらけです。これでは早期から力を発揮することができません。そのため、オン・ボーディングはとても大切な施策なのです。
酒場の場合は少し違います。過度に「オン・ボーディング」を意識した新規顧客獲得に力を入れている酒場にはあまり魅力を感じません。何か規格的で平板な印象を与えてしまうからです。企業であれば、業務の標準化は一つの重要な戦略です。しかし、酒場が私たちを惹きつけるのは、合理的に標準化された世界ではなく、個性的で店主の想いが伝わる世界だからです。そのため個人店が魅力を発揮できるのです。とはいっても、入りにくい酒場巡り熟達者向けの酒場ばかりでは、酒場文化は広がりません。「旬味屋サンタ」のような、ちょうどいい塩梅の小規模な個人経営酒場が増えることが、酒場文化のためには大切なのです。
「旬味屋サンタ」では、いつも同じ音楽数曲がリフレインしています。これがまた、この酒場の雰囲気にちょうどいいのです。秋田でもらってきたCDが音源だと聞きましたが、何とも言葉では表現のできない「ゆるさ」を感じる曲が静かに流れています。ゆるくかつ元気な感じ、それもまたちょうどいいのです。
- 田中 潤
- 株式会社Jストリーム 管理本部副本部長 兼 人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、キャリアカウンセリング協会gcdfトレーナー、キャリアデザイン学会副会長。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。