田中潤の「酒場学習論」
【第9回】釜石「岬」と、会社は誰のもの?
株式会社Jストリーム 管理本部 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
ラグビーワールドカップの会場にもなった、釜石市の「鵜住居復興スタジアム」近くの海辺に一軒の旅館があります。名前は「宝来館」。ここの女将から、津波に襲われた際のお話を都内のセミナーでうかがう機会がありました。「宝来館」に行き、現地でもう一度お話を直接うかがいたい。そう思い、昨年の転職間際の一週間の有給休暇は、東北・三陸への旅に決めました。
「宝来館」に一泊して女将のリアルな話を再度うかがい、数十年ぶりに見た海から昇る朝日のありさまを胸に刻んだ上で、せっかくなので釜石市内にもう一泊します。夕暮れ時から良き酒場を探すための街歩き。そこでたまたま目についた一軒が「岬」でした。
酒呑みをひきつけずにいられない、魅力ある外観です。その日のはしご酒の二軒目でお邪魔し、浜千鳥の燗酒にいろいろと肴をいただきました。ウニが美味かった。「さて、次に行くか」と勘定をしているところで、常連らしき方が「カレーちょうだい!」と発する声が耳に入ります。
燗酒とカレーをあわせるのが何よりも好きな私。つい「えっ、カレーがあったんですか」と声が出ます。オーダーをした常連さんがこの店のカレーについて語ってくださいました。「ここでカレー食べないようじゃ、もぐりだな」。もぐりも何も、こちらは通りすがりの初顔です。どこにもカレーの表示などありません。お話を聞くにつれて「これは食べたい」と心が激しく揺さぶられます。結局、5軒目にまた「岬」に戻ってきて、念願のカレーでその日を締めることにしました。
実に辛い、そして美味い。カレーと一緒に出てくる白い飲み物は牛乳です。牛乳とあわせると口の中で辛さがややマイルドになります。そして、それを燗酒と合わせます。至福の時です。そして、このカレーにまつわるストーリーが何といっても素敵なんです。先ほど常連さんから聞いた話を、あらためて大将からうかがいます。かなり酔っていたので、細かいところが違っていたらごめんなさい。
カレーは何食分かを一度に一鍋仕込みます。その日にいただいたのはちょうど、とあるロットの真ん中くらいのカレーだったようです。いずれ、そのロットの最後のカレーが供される時がきます。そうすると大将は次のロットのカレーを仕込むことになります。そして、次のロットのカレーをどのくらいの辛さで仕込むか、この味の決定権を持っているのは、前のロットの最後のカレーを食べたお客さまなのだそうです。何とも素敵なお話じゃないですか。お店の皆でカレーの味をリレーしているのです。たいていのお客さまが「もう少し辛くね」というので、どんどん味は辛くなり、今のカレーに至っているとのことです。
こういうお話がうかがえるのは、まさに知らない街の知らない酒場にお邪魔する楽しみです。絶対にいつかリピートしてみたいという印象に残るカレーでした。次にお邪魔できる頃には、どんな味のカレーになっているんだろう。もしもロットの最後のカレーにあたったら、自分はどんなカレーを頼むだろうか。よくよく考えると、この役割はすべての他のお客さまに対して重大な責任をもつ役割だな。そのとき、自分はそのプレッシャーに耐えられるだろうか……などと妄想は続きます。
コロナ渦で、多くの酒場が大変な苦労をされています。そんな酒場を支えているのが、常連を中心としたお客さまです。酒呑みたちには、それぞれ自分の好きな酒場があります。他の酒場とは何が違うから好きなのか、きちんと言語化するのは難しいのですが、おそらく、そここそが自分の酒場だという明確な感覚があるのでしょう。
時に「あの酒場で育てられたなあ」と思うこともあります。「酒場が人を育てる」ということは間違いなくありそうです。そして、その反対で「人が酒場を育てる」、さらには「街が酒場を育てる」ということもあります。そう考えると、酒場は誰のものだろうという気持ちになります。もちろん、登記上のオーナーという存在はいるわけです。でも、単にそういうものを超えた、ある種の公共性がよい酒場には感じられます。
釜石の「岬」のカレー。これは一体全体、誰のものなのでしょうか。お店のものでもある、味を決めた前のロットの最後のカレーを食べたお客さまのものともいえるかもしれない、でもやっぱり店全体の、大将も常連客も自分のような一見客も、つまり店に関わるすべての人のものなんだろうな、だから自分には「いい話」だと聞こえたんだろうなと思います。出逢った常連さんが言っていました。「俺は一回も味を決めさせてもらったことがないんだけどね」。
古くて大切な議論である「会社は誰のものか」。株式会社であれば株主のものというのが正解ではあります。それはわかっていても、この古くて大切な議論がしばしばなされるのは、お店とお客さまのような関係が、企業と従業員の間に成り立つからではないかと思います。
人と人がある空間に集うと、そこは「場」になります。単なるSPACEが、集まる人にとって何か大切な感情を伴うPLACEに変ります。酒場と職場。いずれも、「場」がついている単語です。単なる法人ではなく、職場をも指す「会社」という言葉。多くの人が入社して、いずれ退社していく。ある期間、思いっきりの情熱とあふれる喜怒哀楽にまみれながら過ごす場所。自分を確実に成長させてくれた場所。「あそこは自分の酒場」というのと同じような感覚で、「ここは自分の会社」という気持ちが多くの人にはあるでしょう。
コロナ渦で多くのお客さまに酒場が助けられるのと同じように、会社も多くの従業員の助けなくして存続はありません。そこには、単なる雇用関係を超えたものがあります。こんな気持ちは昭和の時代から社会人をしている年代ならではのノスタルジーでしょうか。コロナ禍で急拡大したテレワークという働き方は、きっと新しいかたちで日本にも定着することかと思います。そんな社会でこそ、職場の「場」の機能はさらに大切になってくるように思います。
釜石の「岬」のカレーの味のバトンリレー。私たちが会社という場でやっていることも、それに近いものがあるように感じられました。人事担当者として構築した人事制度。その制度を多くの社員が活用してくれるわけです。「いい制度を入れてくれてありがとう」「なんかわかりにくい制度だよね」など、いろいろな声が上がります。私たちは、そういうさまざまな声を想定しながら、一生懸命に人事制度の味付けを考えます。「岬」のロットの最後のカレーにあたった人が、美味しいカレーを食べながら、次の味をどう指名しようか真剣に考えるように。私たちの会社という組織でも、仕事はバトンリレーされているのです。
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 管理本部 人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会代議員。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。