多様化の時代だからこそ大事にしたい
職場における「わがまま」の効用
立命館大学 産業社会学部 准教授
富永京子さん
会社組織は、いろいろな人の集まりです。雇用形態の違いに加え、近年は女性の管理職登用やグローバル化、障がい者雇用にLGBTQなどへの配慮もあり、多様化が進んでいます。社員の特性やバックグラウンドが異なると、これまでは当たり前と認識されていた慣習や価値観にはそぐわなかったり、不自由を感じたりすることも出てきます。そうしたときの権利の主張は、はたして「わがまま」なのでしょうか。また立場や価値観の違いに対する理解を深めるには、どうすればいいのでしょうか。立命館大学産業社会学部 富永京子准教授に、企業における「わがまま」との向き合い方について、ご専門である社会運動の観点からお話をうかがいました。
- 富永京子さん
- 立命館大学 産業社会学部 准教授
とみなが・きょうこ/東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2015年より現職。著書に、『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)、『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)、『みんなの「わがまま」入門』(左右社)など。
一つの「わがまま」が価値観や環境を変える可能性がある
富永先生は社会運動を研究されています。なぜ、社会運動に興味をお持ちになったのでしょうか。
大学生のころは経営学を専攻し、経営戦略やマーケティングを学んでいました。一般的に経営と社会運動の相性は良いとは言い難いものですが、逆に社会運動のことが気になるようになりました。どうして社会を変えるにあたり、社会運動を選ぶのだろうと。
社会を変えるなら、政治家になる、官僚になる、あるいは社会的企業のようにマーケットを通じてアプローチする方法もあるはずです。それなのに社会運動においては「わがまま」どころか、ときには迷惑行為とも受け取られることまでして、自分たちの要求を政府や企業などに訴えています。私自身も研究を始めたころは、「社会運動って意識高すぎ!」などと思っていました。
しかし過去の歴史をひもとくと、社会運動が私たちの暮らしや価値観を変えてきた側面があります。女性の社会進出もそうですし、近年ではLGBTQの権利もよく知られていると思います。一見わがままに見えても社会運動の文脈で主張することは、生きづらさを感じている人たちが生きやすくなる社会へと変えていく力を持っているのです。
企業や組織も社会を構成する一部といえます。ということは、組織の中でわがままを言うことは、それまで見えていなかった弱者の存在や、不条理を映し出す機能を持つということですね。
わがままが社会の全てを変えてきたとは言いません。女性の社会進出も、景気の低迷や価値観の多様化などが多分に影響しているはずですから。しかし、わがままを言わないと、その人のニーズはわからないものです。
私が大学に勤めはじめて驚いたことは、非常に積極的に自分の意見を言う教員が多いことです。たとえば学内の保育所をつくるときなども、かなり綿密な要求をする。
最初は、そこまでわがままを言う必要があるのかと思いました。けれども、人によっては介護をしていたり、食品などのアレルギーがひどいお子さんがいたりする。そういう個別の事情を聞くと、「食事の材料一つとっても大変だな」と納得しました。相手が言われなければ、そうしたニーズに気づくことはありません。わがままを言うことは、決して悪いことではないのです。
とはいえ日本の社会では、わがままをネガティブにとらえがちです。特に組織では、わがままで場の空気が悪くなったり、配置や処遇で不当な扱いを受けたりするのではと考える人も少なくありません。
ドイツの経済学者、アルバート・O・ハーシュマンの『Exit, Voice, and Loyalty』という書籍があります。社会学や経営学でよく取り上げられる一冊で、邦題にすると「離脱・発言・忠誠」で、「離脱」と「発言」は、人が組織に不満を抱えたときに起こす行動を指しています。
「離脱」は、会社組織でいうなら、今いる組織が嫌なら違う環境で職能を発揮すればいい、という話です。例えば欧米はジョブ採用が主流ですから、離脱は比較的よく見られます。
「発言」は、不満を組織に訴えることです。ただ離脱に比べ、発言にはコストがかかりますし、個人の影響力や交渉力に依存します。発言しなければ組織も改善されないから、ある程度発言しやすいのが望ましいのですが、コストが高い。
ではどうすれば発言できるかと考えると、「忠誠」、つまり組織に対する愛着という概念が見えてきます。忠誠が低いと離脱します。でも離脱できないと発言に臆してしまうので、忠誠を持った上で離脱の可能性をほどほどに残すと効果的に発言できます。
日本の会社組織は、忠誠を育むという意味ではいろいろな制度や仕組みを用意してきたと思うのですが、まだまだ流動性というか、離脱できるという前提が少ない。自由な発言も、「もしものときには離脱するぞ」という交渉の手段がなければしづらい。先ほど、私の職場はある種わがままを言いやすい環境だと言いました。以前と比べてポストは減ってはいますが、大学教員はまだ流動性が比較的高い職業ではあると思います。また、学会というもう一つの居場所を持っていることも大きいでしょう。
個人化が進み「わがまま」を試す場が減ってきている?
なぜ日本の社会は、わがままに不寛容なのでしょうか。
理由はいろいろと考えられますが、一つ確かなのは、日本人のいわゆる国民性に由来するものではない、ということ。離脱・発言・忠誠のように、社会の慣習、仕組みがそうさせているだけで、わがままを言おうと思えば言えるはず。その一例が社会運動です。
わがままに不寛容な理由はいくつかあると思いますが、『みんなの「わがまま」入門』(左右社)という書籍では、「個人化」から解説しました。個人化というのは、グローバル化や情報化などの社会の影響を受け、個々の価値観や判断が、その人たちの出自や経歴によって規定されづらくなる状況を指します。
個人化が進むと、多様な考え方が顕在化するようになります。現代社会では「大卒だからこう」とか「女性だからこう」と人々の「ふつう」を想定することはきわめて難しい。そういう環境の中では「声を上げたところで、わかってもらえるのかな」と思ってしまう。共感してくれる人が他にもいると感じづらい時代ではありますね。
労働組合は、企業と密接な関係にある社会運動です。しかし昔と比べると、社会や組織への影響力が下がってきています。
労働組合も、個人化の影響を受けているのだと思います。かつては同じ会社や職位であれば、一定の同質性が保たれていました。集まる人も、待遇も、仕事の内容も、ある程度想像し合うことが可能だった。とくに労働運動は、自分のための行いが人や公共のためになり、人のための行いが巡り巡って自分のためになる、という考えが根底にあります。だからこそ働き手がお互いのことを想像し合えるのは、労働組合活動をする上で重要だった。
しかし、今は非正規雇用が労働者の4割近くを占め、働き方も多様になっています。仕事は細分化され、同じオフィスにいても周りが何をしているのかわからない。自分と他人に共通点があると思えない。そうなると、他人のために奉仕するのは難しいですよね。ましてや派遣や有期雇用の人たちが、正規雇用の人たちの待遇改善に力を貸す気になれるはずがない。Giveしたものが、いつTakeできるのかわからないのですから。
私たちの暮らしにおいてわがままを言える場というのは、意外と限られています。例えば生徒会が活発に機能している学校はそう多くはありませんし、地域活動もかなり濃淡があります。その意味でいうと、労働組合はわりと多くの社会人が経験する「わがまま道場」だったわけです。その役割が弱くなってきたことは、日本の企業社会の変遷において、大きな影響を与えていると思います。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。