「嘘も方便」とは考えられない、求職者の心情
ついついナーバスになりがち… 転職成功に欠かせない冷静さ、柔軟さ
転職活動中は誰でも神経質になりがち。一生のうちにそう何度も経験することではないから、不安になったり細かいことが気になったりする。イライラしている状態、さらには普段の判断力を失った状態で転職先を決めてしまい、後で冷静になってから後悔する…というケースも少なくない。ナーバスになりがちな求職者を精神的に支えるのも、人材紹介会社の重要な役割なのだが……。
嘘はつきたくないのです
「時間がないですね。どうしたらいいんでしょうか……」
Nさんはさっきから何度か大きなため息をついている。どうにも落ち着かない様子だ。
「大丈夫ですよ。もう一度状況を整理してみましょう」
私はわざと暢気な調子で声をかけた。こういう場合には、まずリラックスしてもらうのが一番だ。
Nさんの転職活動はすでに大詰めを迎えていた。何社かで受けた面接もそのほとんどが終わり、なかには内定が出ている企業もある。問題はその内定の出ている A社から入社応諾の返事を迫られているのに、Nさんが入社を強く希望しているB社の面接の結果がまだ出てない…ということなのである。
「B社には急いで結果を出してもらえるように、私からプッシュしてみます。問題はA社がいつまで待ってくれるかですが……」
実は、A社は私が紹介した企業ではなかった。すでに前の会社を退職しているNさんは、一日でも早く転職先を決めたくて、複数の人材紹介会社に登録していたのだ。もちろん、それ自体はよくあることだし、特に問題があるわけでもない。しかし、A社を紹介した人材紹介会社としては、「内定したからにはA社への入社を決意してもらいたい」というのが本音だろう。頻繁に催促の連絡があるのだという。
「これ以上返事を引き延ばしたら、A社の心証が悪くなると言うんです」
しかし、NさんとしてはB社の結果を見てから転職先を決めたいのだ。これも納得できる話ではある。そのためには、A社への返事をもう少し待ってもらう「理由」が必要だ。そこで私はこんなアドバイスをした。
「Nさんの場合、すでに前の会社を退職されていますから、急な出張や仕事が多忙という理由は使えないですね。こういう場合は、家族が事故にあった、入院したなどの理由がいちばん無難です。家族のことなら先方の企業も無理は言えませんから…」
実は、こうしたケースではよく使われる「手」だ。ところがNさんは、私の提案を聞くときっぱりとこう言ったのだった。
「嘘はダメでしょう。嘘はつきたくありません」
冷静に判断していればどうなったのか
「もちろん嘘は良くないというのは分かります。でも、これは嘘というよりは『方便』と考えられませんか」
私はこれまで以上に穏やかな口調で話した。真正面から「他に志望している会社があるので、もう少し返事を待って欲しい」と伝えれば、相手は絶対に良い印象は持たない。A社がプライドの高い企業なら、待たされた揚げ句に辞退されるのはゴメンだ…ということで、先手を打って内定を取り消してくる危険性もある。
「家族が倒れたということにすれば、A社も、さらにはA社を紹介した人材会社も、それなら仕方がない…となります。薄々は分かっていても、はっきり言われたくないことは誰にでもありますよね」
そこまで言えばNさんも理解してくれるだろう、と思ったのだが……。
「嘘はいけません。絶対ダメなんです」
Nさんは宙をにらんだまま、同じことを繰り返している。
私は、Nさんが想像以上に精神的に追い込まれているのを知った。人材紹介の仕事をしていると、最終局面でこうした時間とのせめぎあいを経験することはそう珍しくない。しかし、Nさんにとって、これは初めてのケースなのだ。人生の岐路に立ったいまだからこそ、「嘘はよくない」というNさんの人生哲学が必要以上に彼自身を縛っているのだろう。
「もう少し自分で考えてみます。今日はありがとうございました」
妙案も浮かばないまま、Nさんは帰っていった。
それ以降、Nさんと連絡が取れなくなった。携帯電話も留守番メッセージが流れるだけだし、メールを送っても返事は戻ってこなかった。
肝心のB社からも、連絡がくるまでには、思いのほか時間がかかった。結果は「もう一度面接したい」というもの。B社の場合、最終面接では給与などの条件面をすりあわせるだけなので、この段階で「仮内定」という感じなのだが……。
数日後、Nさんから「A社に決めました」という短いメールが届いた。
Nさんが「嘘はつきたくない」という自分の信条にこだわらずに時間を稼いでいたら、どうなったのか……。それは誰にも分からない。私はNさんがB社への未練をきれいに断ち切って、A社で存分に活躍してくれることを願わずにはいられなかった。