タナケン教授の「プロティアン・キャリア」ゼミ【第26回】
2022年に必須のキャリア・バランスシートとは?
資産と資本の関係
法政大学 キャリアデザイン学部 教授
田中 研之輔さん
令和という新時代。かつてないほどに変化が求められる時代に、私たちはどこに向かって、いかに歩んでいけばいいのでしょうか。これからの<私>のキャリア形成と、人事という仕事で関わる<同僚たち>へのキャリア開発支援。このゼミでは、プロティアン・キャリア論をベースに、人生100年時代の「生き方と働き方」をインタラクティブなダイアローグを通じて、戦略的にデザインしていきます。
タナケン教授があなたの悩みに答えます!
今回は次の質問にお答えしていきます。
タナケン先生が提唱されている「キャリア資本」とは、『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』で言及されている有形資産と無形資産を合わせたものという理解で間違ってないでしょうか。なぜ、「キャリア資産」ではなく「キャリア資本」と呼ばれているのか理由はあるのでしょうか。
キャリア自律の最新知見である『プロティアン』(日経BP)を読んで、理解の進んだ方からの質問ですね。とても重要な指摘です。
この質問に答えるには、やや専門的になります。最後まで読み進めてください。『プロティアン』は、経営層、人事、キャリアコンサルタント、一般ビジネスパーソン向けに広く読まれるように、やわらかい表現でまとめました。しかし、骨格となっている理論は、最新のキャリア知見です。前提として、研究と翻訳とは違います。『プロティアン』は研究の書です。
研究者としての仕事となりますと、学問的課題に加えて、先人研究者への「挑戦」もあります。私が挑戦状を叩きつけているのは、初期プロティアン・キャリア論を提唱したダグラス・ホール教授と、『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』のリンダ・グラットン教授とアンドリュー・スコット教授です。そのあたりのところを、この連載ではじめて吐露させていただきます。
まず、研究の書としては、ダグラス・ホール教授の「初期プロティアン・キャリア論」をそのまま翻訳するわけにはいきません。ここで考えることは、「初期プロティアン・キャリア」を現代版にアップデートするときに、「何が足りないのか」を徹底的に考え抜くことです。
世界的研究者の不足点を探し、指摘することは、並大抵のことではありません。先の見えない孤独な戦いです。取り組んだのが、ダグラス・ホール教授の著作群をすべて読み込むことです。代表作は、次の3冊です。
タイトルをみるだけでもダグラス・ホール教授の研究知見のアップデートをうかがい知ることができるでしょう。プロティアンを提唱した『組織の中における(複数性)のキャリア』(Carrers in Organizations)から20年、1996年には『キャリアは死んだ』(The Career is Dead)というチャレンジングなタイトルの本を上梓されています。
この20年間でダグラス・ホール教授は、「伝統的な組織内キャリア」から「自律型キャリア=プロティアン・キャリア」への歴史的変遷を分析しています。
ポイントは『The Career ins Dead』の副題に、「A Relational Approach to Careers」と記載されている点です。キャリアを関係性の中で捉えていくことの重要性を述べているのです。同僚や上司との関係、家族やプライベートとの関係、仕事との関係、組織との関係、市場との関係、社会との関係、グローバルとの関係など。
私たちのキャリアは、「個人の問題」なのではなく、ありとあらゆる「関係性」の中で紡ぎ、形成されるものなのです。
プロティアン・キャリア論では、関係論的アプローチをもとに、統合モデルへと発展してきています。(この辺りは、別途、触れています)
2001年になると、ダグラス・ホール教授は、『組織を行き来するキャリア(Careers In And Out of Organizations)』を出版しています。これまでの研究蓄積の集大成本です。(*素晴らしい本なので、どなたかに翻訳してほしい。私は20代のときに2冊の研究書を翻訳しましたが、今はその時間がとれません)
キャリア論に詳しい方であれば、ダグラス・ホール教授が、伝統的組織の中だけでキャリアを形成するのではなく、組織を行ったり来たりする多様な働き方に関心を寄せていたことに気づくでしょう。研究書は必ずその時々の時代的背景をもとに書かれるので、この時期に、マイケル・アーサー教授が「バウンダリーレス・キャリア」論を提唱していることも興味深いです。
バウンダリーレス・キャリアとは、組織の「バウンダリー(境界)」を越えて、行き来しながら働くキャリアです。ちなみに、プロティアン・キャリアとバウンダリーレス・キャリアは、「ニューキャリア論(The New Career Studies)」の代表的理論として位置づけられています。
これまでの流れから、組織内キャリアから自律的なキャリアへ、関係性の中で捉えるキャリア、このあたりがプロティアン・キャリア論の理論的前提であることが理解いただけたと思います。これらをどう乗り越えていくのか。継承しつつ、新たな知見をどう加えるのかを考えたのです。
組織の中の昇進や昇格よりも心理的成功を大切にする働き方になるとき、個人は何を支えにするのか、もっと突っ込んでいうと、何を自らのキャリアを守るセーフティーネットにするのかを示す必要があると私は考えました。
その頃、同時に読み進めていた『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』にも、興味深い知見が記されていました。それが「資産」という考え方です。注目すべきは、第4章の『見えない「資産」』の内容です。
お金に換算できないものをあえて、「資産」として認識し、意味づけし、管理しようという視座を示してくれています。具体的には、「生産性資産(スキル・知識・仲間・評判)」「活力資産(健康・友人関係・バランスの取れた生活)」「変身資産(自己認識・ネットワーク)」からなる三つの「資産」です。
ここでの資産は、原著をみると「Asset(資産)」という言葉が使用されていて、中でも「Intangible Asset(無形資産)」の重要性に触れています。この点は、非常に示唆的です。不動産、車、金融資産といった有形資産を所有しなくても、無形資産に価値がある。無形資産にこそ、人生100年時代を豊かに過ごす鍵があるのだと指摘しているのです。
しかし、詳しく読み込んでいくと、「生産性資産」「活力資産」「変身資産」の分類に「曖昧さ」が残っていることに気がつきました。簡単なところでいえば、「生産性資産」にも「活力資産」にも、「変身資産」の中にも「友人」が入っているのです。
ここには二つの問題があります。一つは、先ほど述べた、カテゴリー間の分類の「曖昧さ」、そしてもう一つは、「時間軸の欠如」です。
資産として捉えるならば、時間軸は欠かせません。副題にある「100年時代の人生戦略」を語るのであれば、いかに「無形資産」を形成していくのかという戦略的フレームが欠かせないと考えたのです。
裏話を付け加えるなら、『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』を翻訳した段階で、日本の読者向けにこの副題が付けられたのです。原著のタイトルは『The 100-Year Life:Living and Working in an Age of Longevity』です。そのまま原著に即してタイトルをつけるなら、「100年時代:長寿時代の生き方と働き方」になります。
これを『LIFE SHIFT(ライフ・シフト):100年時代の人生戦略』 というタイトルをつけた翻訳家の池村さんや編集者の先見性は素晴らしいです。このタイトルでなければ、50万部という異例のベストセラーにはならなかったでしょう。
さて、話を戻すと、『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』で提唱されている「無形資産」の考え方には興味を持ったものの、分析フレームとしては曖昧さが残ると私は判断しました。そこで『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』の「無形資産」をヒントにしながら時間軸を埋め込み、ダグラス・ホールを批判的に継承するモデル構築に取り組んだのです。
3ヵ月ぐらいでしょうか。悩ましい日々が続きました。するとあるときに、バランスシート(貸借対照表)を活用することを思いつきました。そこでモデル化したのが、こちらのキャリア・バランスシートです。
これを見るとわかるように、資産カテゴリーに『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』の知見を加え、資本のところにこれまでみてきた、キャリア資本論を接続させています。キャリア資本論については、連載の第18回ですでに触れてあるので、そちらを読んでみてください
よりわかりやすくまとめると、次のようになります。
つまり、ご質問にお答えすると、キャリア資産はライフ・シフトのフレームに準拠していますが、ダグラス・ホール教授のプロティアン・キャリア論を批判的継承するために、これからのキャリア形成をバランスシートに埋め込んだのです。
もちろん、厳密にはバランスシートの援用です。このように考えることで、組織内キャリアから自律型キャリアへとキャリアトランスフォームしていくときのセーフティーネットと、これからの戦略的なキャリアデザインの手助けとなるのではないかと考え、現代版プロティアン・キャリア論の分析枠組みを構築したのです。
それでは、また次回に!
- 田中 研之輔
法政大学 キャリアデザイン学部 教授
たなか・けんのすけ/博士:社会学。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門はキャリア論、組織論。一般社団法人 プロティアン・キャリア協会代表理事。UC. Berkeley元客員研究員、University of Melbourne元客員研究員、日本学術振興会特別研究員SPD 東京大学。社外取締役・社外顧問を23社歴任。著書25冊。『辞める研修 辞めない研修 新人育成の組織エスノグラフィー』『先生は教えてくれない就活のトリセツ』『ルポ不法移民』『丼家の経営』『都市に刻む軌跡』『走らないトヨタ』、訳書に『ボディ&ソウル』『ストリートのコード』など。ソフトバンクアカデミア外部一期生。専門社会調査士。新刊『プロティアン 70歳まで第一線で働き続ける最強のキャリア資本論』。最新刊に『ビジトレ 今日から始めるミドルシニアのキャリア開発』。日経ビジネス、日経STYLEほかメディア多数連載。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。