傾聴と問いかけで合意形成を図る
人事が知っておきたい、従業員と組織を動かす「交渉学」
慶應義塾大学 法学部 教授
田村 次朗さん
人事は経営陣に労働組合、従業員、さらには株主など、非常に多くのステークホルダーと関わりを持つ部門です。それだけに苦労するのが交渉の場面。それぞれの立場の主張を理解しつつ、組織としての最適解を見いだす必要があります。どのような姿勢で交渉に臨めばよいのでしょうか。そこで注目したいのが「交渉学」という学問です。慶應義塾大学法学部の田村次朗教授はハーバード大学留学中に交渉学に出会い、日本にも考えを広めようと活動を続けています。「交渉学は交渉術とはまったく別物」と話す田村教授に、人事担当者に問われる交渉の姿勢や事前準備など、交渉学のエッセンスをうかがいました。
- 田村 次朗さん
- 慶應義塾大学 法学部 教授
たむら・じろう/専門は経済法、交渉学。ダボス会議(世界経済フォーラム)の「交渉と紛争解決」委員会の委員を務める等、最前線での国際交渉経験も有する。弁護士、ハーバード大学国際交渉学プログラム・インターナショナル・アカデミック・アドバイザー、交渉学協会理事長、日本説得交渉学会会長。リーダーシップ基礎力の普及に向け、教育機関や企業における人材育成等、幅広く取り組んでいる
Win-LoseではなくWin-Winへ。交渉学が目指す、三方よしの「賢明な合意」
「交渉学」という言葉を、初めて耳にする人も多いと思います。どのような学問なのでしょうか。
交渉学はロジャー・フィッシャー教授が提唱した学問です。私自身が交渉学を知ったのも、ハーバード・ロー・スクールへ留学した際、フィッシャー教授による“Negotiation”の講座を受講したのがきっかけでした。
フィッシャー教授の授業は、原則として講義はなく、ロールプレイイング主体で衝撃を受けました。当時の日本にはまだアクティブラーニングが浸透していなくて、法学の授業は法令知識と判例の詰め込み型だったからです。フィッシャー教授の「知識ではなく、あなたのコミュニケーション能力で和解の道を探り、問題解決を図るべき」という考えに、深く共感しました。この「コミュニケーション能力」を具体化したものが、交渉学のメソッドです。
交渉学には「賢明な合意」という考え方があります。交渉には「勝ち負け」があるように思われがちですが、交渉学では、双方にとってWin-Winであり、かつ社会の利益になる着地点を目指します。近江商人の精神である「三方よし」と同じ思想で、日本人にも親和性が高いのではないでしょうか。
評価・断定・否定はNG。交渉に必要な傾聴と開示の姿勢
日本人の交渉力をどのように捉えていますか。
「交渉」と聞くだけで、ぐっと身構えてしまう人が多い印象を受けます。そうした姿勢で起こるのは、交渉相手に開示する情報を最小限にする、抱え込みの動きです。しかし交渉学の考えはまったく逆で、オープンネス(自己開示)の姿勢こそが大切なのです。
「三方よし」な交渉結果を導くには、良好な関係構築が必須です。適切な情報開示がなければ、双方の主張は平行線をたどり、対立の構図から脱却できません。
そこで大事になってくるのが、傾聴力です。私は大学で「リーダーシップ基礎」という講座も開講していて、傾聴力の重要性を説いています。人と対話するとき、つい自分の意見を最初に話していないでしょうか。相手の意見を傾聴するところから対話を始められるかどうかは、関係性を築くうえで重要なポイントです。
人事の方々は、最も傾聴力を発揮すべき立場にあると思います。人事は同じ組織で働く人たちの人生設計を通じて、企業の経営を支える役割にあるからです。まず行うべきなのは、従業員の話を聞くことでしょう。
従業員の話を全く聞いていない企業はないと思いますが、企業としての決定を伝える前の手続きとして、傾聴が形式的なものになっていないでしょうか。そうした気持ちは従業員に見透かされます。
人は「自分の思いを聞いてくれた」と感じたとき、初めて相手の言い分に聞く耳を持ちます。従業員の配属先や待遇などを検討する際は、「あなたは何を考えていて、どうしたいのかを聞かせてください」「あなたが今までの人生で、思い描いてきたことを教えてください」といったように、相手のことを本当に知りたいという思いが伝わるコミュニケーションを図るべきです。
交渉で往々にして起こりがちなのは、権力行使によるパワーゲームです。会社の命令だから、上長の命令だからと、互いを理解するプロセスを飛ばして組織側の希望を通そうとしていないでしょうか。これでは仮に要求が通ったとしても、禍根を残してしまいます。
交渉学では「評価・断定・否定をしない」ことが鉄則です。相手の言い分をそのまま受け入れることは難しくても、最初から突っぱねてはいけません。ただし、傾聴だけでは前に進まないので、問いかけも重要な要素です。
相手の話にしっかりと耳を傾け、問いかけを重ねながら、最終的には相手が納得したうえで別の道を模索する。これこそが交渉学の王道です。
リーダーシップ基礎講座では、よく“リーダーという職位”と“リーダーシップ”の違いを話します。前者は、権力で従わせます。後者は、心理的安全性を高く保ち、率直に語り合う中で「この人に付いていこう」と思ってもらえるように努めます。忍耐力が問われますが、企業はステークホルダーとの中長期的な関係性の下、ビジョンを実現していかなければなりません。Win-Loseが生じる“交渉術”ではなく、Win-Winに導く“交渉学”を意識したコミュニケーションを実現してほしいですね。
条件を主張し合っても、相手は動かない。交渉を進めるSMARTの準備
著書の中で「交渉の成果は事前準備で決まる」と述べていますが、具体的にどのような準備が必要なのでしょうか。
交渉は「経験がものをいう」「出たとこ勝負」「勝ち負けが生じるもの」と思われがちですが、これらは大きな誤解です。確かに、臨機応変さが問われる場面もあるでしょう。しかし、“準備の必要がない”ということではありません。
事前に何の情報もなく交渉に臨んでいたら、合意の糸口を探るのに時間がかかります。その場で初めて耳にした情報に対して感情的になるなど、判断や反応を誤りかねません。また、過去の経験頼みで交渉に臨んでいると、想定外の展開にうまく対応できないことも多い。交渉を通じて双方の利益の最大化を目指すなら、事前準備は不可欠といえます。
準備は30分程度で済みますし、ケースごとに大きく変える必要はありません。交渉学の講座では、各要素の頭文字を取って「SMART」という5ステップを提唱しています。
まずSは、状況と利害関係者(Situation&Stakeholder)の把握です。相手の周辺を知ることは、相手の主張の背景を理解することにつながります。
意外と忘れがちなのは、自分自身のSについても整理し、相手に伝えることです。例えば「事前に上司や関連部署と○○について話した。そこで××が話題にのぼり、ここに至っている」というように、自分の背景をまず伝えるのです。すると、相手もどのような利害関係者が存在し、どのような相関性を持つのかを語ってくれるはずです。
手の内を見せ合うことで、難しい交渉も柔軟に進むようになります。Sを理解せず、いきなり金額などの条件を議論してしまうと、妥協点を見いだせず、三方よしに至れません。
二つ目のMは、ミッション(Mission)です。このビジネスを通じて何を実現したいのかなど、合意の先に目指す共通の目標、利益を話し合います。例えばメーカーと、その商品の部品を製造する関連企業との交渉では、「パートナーシップを築くことで、どのような商品をつくりたいのか」を明らかにします。
SやMの段階では、価格や納期などの条件は話題にしないのですね。
はい。交渉学では最も重要な観点です。しかし私たちは交渉と聞くと、「いくらで取引するか」など、条件面のすり合わせをイメージしがちです。
例えば、東京都内でマンションを購入するとしましょう。予算を8000万円で設定していて、デベロッパーが1億円の部屋を提案してきたら、2000万円の開きがあります。このとき価格だけの交渉では、話し合いが硬直するのは明白です。
一番の問題は、購入者が8000万円で購入することでどのような価値を得ようとしているのか、そしてデベロッパーが1億円で販売することで顧客にどのような価値を届けたいと考えているのかが議論されていないことです。
SとMを語り合えば、価格に隠された互いの望みが明らかになってきます。購入者は利便性以上に、人とのつながりや環境の良さを求めていたことに気づくかもしれません。そうなると都市部で暮らすプレゼンスは大幅に下がるわけで、デベロッパーが郊外の物件を紹介するなど、提案の選択肢は広がるでしょう。つまり交渉は本来、「Aの主張or Bの主張」のように、二項対立で語られる性質のものではないのです。
交渉は、両者の利害を認識し、プライスをバリューに基づいて捉えられるよう相互に理解していく行為です。プライスのみの議論ではバリューが無視されて、高い、安いという話に終始してしまいます。条件のすり合わせの手前で互いの理解や関係が深まっていないうえ、共通のゴールも見いだせていないからです。条件面の交渉をする前には、互いの背景を知り、目指す方向をそろえる作業が不可欠です。
日本人が忘れがちなBATNAの視点
SやMに注意を払いつつ交渉を進めても、話がうまくかみ合わないことはあります。そこで用意しておくべきなのがA(代替案=Alternative)です。交渉学では「最善の代替案」(Best Alternative to a Negotiated Agreement)、略してBATNA(バトナ)の用意を推奨しています。
代替案として用意すべきなのは、合意するラインを下げたり、他の提案をしたりすることだけではありません。SやMを確認する中で、相手の態度があまりにかたくなであったり、誠実さに欠けていたりする場合は、三方よしの関係を築くことができないと判断し、「交渉を打ち切る」ことも必要になってきます。そのような対応ができないと、相手から一方的に搾取され続けることも起こりえます。「あなたがそう出るのなら、私たちはこのように対応します」という意思表示こそ、BATNAなのです。
人事にとっても、BATNAの用意は重要です。従業員のキャリア自律が進むことは、会社と従業員が交渉する場面が増えることを意味します。私の研究会の卒業生も、若手のうちからスカウトサービスなどを利用することが当然のようになっています。今すぐ転職したいわけではないが、より望ましい条件や機会があれば知りたいと、気軽に利用するのが最近の傾向です。
同じ会社で働き続けていると、給料が上がらない、希望の配置につけないなど、組織に対する不満が何かしら出てくるものです。そのタイミングで好待遇のスカウトが来たら、人事に交渉しに来るかもしれません。
極端な例ですが、「年収を1000万円にしてくれなければ辞めます」と、切り出してきたケースを想定してみましょう。従業員の主張を頭ごなしに拒むようでは、退職は時間の問題でしょう。一方で、従業員が提示した条件を丸のみするのも現実的ではありません。従業員が人事の足元を見るような姿勢を取るなら、会社を去ってもらうことも視野に入れなくてはいけないかもしれません。「ここまでなら主張をのむ」といったボーダーを具体的に示すとき、BATNAが大事になってくるのです。
BATNAは、奥の手といったところでしょうか。
そうともいえます。本来は傾聴を通じて、SとMを可能な限りすり合わせ、本人の働くうえでの志や、理想とする生き方、働き方、成長機会、そして会社からの期待について十分に話し合い、今後のキャリアパスや待遇面の調整を図るべきです。しかし相手が報酬の議論に執着するようであれば、毅然(きぜん)とした態度でBATNAを切り出す必要があります。
問いかけによって主張を伝えることで、相手は腹落ちできる
SMARTの4文字目以降も教えてください。
SMARTの四つ目、RはRealistic Optionです。Realisticは「現実的な」という意味ですが、私たちは「創造的選択肢」と呼んでいます。SとMの対話から、かなえたいことの本質を握り合ったうえで、取り得る現実的な方策を導くのです。
ポイントは複数の選択肢を準備すること。例えば、従業員に配属の希望を募ると、いわゆる花形部署に人気が集中しがちです。しかし、すべての希望をかなえることは難しく、希望とは異なる配属になることは珍しくありません。
そこで大事なのが、従業員がその異動を通じてどのようなキャリアや経験を得たいのか、配属先でどのような働き方をしたいのか、また会社としてどのような活躍を期待しているのかといったことから、それを実現できるポジションを提示することです。要は「希望の場所ではなくても、あなたの望みはかなえられる」ことを、従業員本人が腹落ちできるように可能性を探っていく。
SMARTの最後にあるTは、目標、つまりターゲット(Target)です。ここでようやく、金額や時間などの条件をすり合わせていきます。Tを定めるときは、あらかじめ幅を持たせておくことがポイントです。最高目標と最低目標を用意しておき、その間で合意を成立させるイメージです。
人事はさまざまステークホルダーとの交渉を必要とするポジションです。どのようなことに気をつけるとよいでしょうか。
人事は役員も含め、会社に関わるすべての人を相手にしている部門です。特に従業員に対しては、制度策定など集団的なアプローチから、個人的な問題まで、いろいろな交渉が考えられます。
例えば、「上司からハラスメントを受けている」といった相談があったとしましょう。相談者の話を聞く限りはひどい上司だったとしても、第三者の視点に立つと別の事実が見えてくる場合もあります。ただ、まずは相談者の傾聴に徹します。思いの丈を吐き出す場をつくることで、感情にのまれた状態から冷静さを少し取り戻せるはずです。
落ち着いて話を聞くためには、人事側の準備が大事です。まずは相談者と関係者の周辺を事前に把握する、そして人事として全体の判断基準や、対応策のガイドラインを定めておく。すなわちSMARTを用意しておくのです。そのうえで、「会社としてはこういう方針で対応することになるが、どう思いますか?」などと、問いかけを介して人事側の主張を伝えていきます。
この「問いかけを通じた主張」こそ、交渉学ならではのコミュニケーションです。本人の最初の意向と異なる結論へ導くには、納得感が非常に重要だからです。会社の方針ばかりを示すようではいけません。本人が理解したうえで新たなカードを選ぶには、自分自身で状況や考えを消化させるプロセスが必要です。理想は、傾聴で交渉を乗り切ることです。
交渉の道筋を確かめ合う協議事項の重要性
こちらがどのような交渉を望んでいるのか、相手にあらかじめ伝えることも有効なのでしょうか。
リーダーシップについて語るとき、「バルコニーに上がる」という表現があります。最前線で熱中する状態(=ダンスフロア)を、少し高いところから俯瞰(ふかん)しようという例えです。交渉学では「協議事項交渉」が相当します。交渉する内容や順序を事前にすり合わせておくというものです。両者が全体像をつかんだうえで交渉に臨めば、安心感と余裕が生まれます。
例えば上司が「今後の経営戦略について相談したい」と、話しかけてきたとします。それだけでは、具体的に何をすり合わせたいのかよくわかりません。そのため、上司にもう少し踏み込んで話を聞く必要があります。相手が五つの項目を上げてきたら、それぞれについて軽く説明してもらうといいでしょう。
それでも「君が考えて」と言われたときは、自分なりの考えを伝えます。上司はあなたの考えに、何かしらの反応を示すでしょう。リアクションの程度によって、焦点を探るのです。「5項目のうち、4番目と5番目が重要そうだ」など、山場が見えてくればしめたものです。1~3番目は4番目、5番目の対話に備えた流れにするなど、交渉の筋道をつけやすくなるからです。筋道を事前に共有することで、実際の交渉で脱線や横道にそれることも防げます。
協議事項交渉のメリットは、他にもあります。先ほどの例でいえば、協議事項の作成のやり取りを通じて、「○○についても検討しておいたほうがいいですよ」などと、上司は部下から助言を受けられるからです。こうしたオプションの提案は、リーダーにとって大変意味のあるものです。自分の決断が正しいのかを問うのに、貴重な意見になるからです。
このように、相手の考えをあらかじめ明らかにする意味でも、協議事項交渉は有効です。ぜひSMARTと合わせて取り入れてほしいですね。
よりよい関係を築く交渉を進めるうえで、日本の組織にはどのような課題があるのでしょうか。
日本の組織で最も残念に思うのは、硬直的な序列のうえで成り立っていることです。交渉学のタブーとされる「評価、断定、否定」を、上位役職者が違和感を持たずに行っている状況は問題に感じます。繰り返しになりますが、上司が部下を評価することはリーダーシップではありません。
こうした古くからの慣習が、日本企業のカルチャーを悪くしていると思います。上の決定に有無を言わさず現場を従わせるという構図が続く限り、仕事のやらされ感はぬぐえないでしょう。心理的安全性の高い環境で信頼が成立している関係性のもと、傾聴と対話を重ねながら、上司の提案を部下が納得して取り入れるという手順を踏むことが重要です。命令した場合と同じ結論に達したとしても、組織の活気やエンゲージメントはまるで変わって来るはずです。
経営者や管理職がこの問題に気づき、組織を変えていくことが望ましいのですが、そう簡単なことではありません。そこで人事の出番です。人事が傾聴と対話を基本としたコミュニケーションによってリーダーシップを発揮し、組織に新しい風を吹き込むのです。また人事は、研修や人材育成をつかさどる部門でもあります。俗に言われている交渉に対する固定観念を変え、活気ある組織づくりに励んでほしいと思います。
(2023年12月27日取材)
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。