「明日から頑張ろう」を「今すぐやる」に変える
社員の背中を押して行動につなげる「ナッジ」とは
青森大学 客員教授
青森県立保健大学 非常勤講師・客員研究員
竹林 正樹さん
より良い選択を自発的にできるように人を後押しするアプローチ「ナッジ」。行動経済学の知見で、2017年に提唱者のリチャード・セイラー教授(シカゴ大学)がノーベル経済学賞を受賞したこともあり、注目されています。政府も戦略の中でナッジの活用を推奨しています。組織では、社員一人ひとりが自律的に学び、行動するためのさまざまな取り組みが行われていますが、実際には社員が行動しないことが少なくありません。認知バイアス(認知の歪み)を理解することで、望ましい方向へと社員の背中を押すのがナッジです。ナッジを研究する青森大学 客員教授の竹林正樹さんに、ナッジの原理や効果についてうかがいました。
- 竹林 正樹さん
- 青森大学 客員教授
青森県立保健大学 非常勤講師・客員研究員
たけばやし・まさき/青森県出身。大学教員の他、(株)キャンサースキャン顧問、横浜市行動デザインチームアドバイザー、政府の日本版ナッジ・ユニットの有識者委員などを通じ、行政や企業のナッジ戦略を支援。ナッジの魅力を穏やかな津軽弁で語りかけるスタイルの講演を年間200回以上行っている。ナッジで受診促進を紹介したTEDトークは、YouTubeで70万回以上再生。代表作は「ナッジ×ヘルスリテラシー」(大修館書店:分担執筆)、「DVD 実践者のナッジ」(東京法規出版)。
ナッジは、自発的に行動したくなるように背中を押す仕組み
竹林先生の研究テーマである「ナッジ」について教えてください。
ナッジ(nudge)とは、直訳すると「そっと後押しする」「ひじでつつく」という意味で、学術的には「強制や金銭的インセンティブを使わずに行動を促す手法」と定義されます。危険な場所に近づこうとする子ゾウに対し、母ゾウが鼻先でそっと正しい道へと促すイラストで解説されることもあります。
ナッジを具体的にイメージするために、「スーパーのレジ前で、来客が間隔を2メートルあけて並んでもらうようにする方法」をテーマに考えます。店側が何も対策をしなければ、私たちはつい、これまでの習慣どおりに間隔をつめて並びたくなります。
人を動かすアプローチには、大別して(1)情報提供、(2)ナッジ、(3)インセンティブ、(4)強制の4段階があります。
第一段階のアプローチは、「情報提供」です。「2メートルあけなければ、感染リスクが高まります」とアナウンスすることで、自発的に2メートル確保する人が出てきます。
それでも間隔をあけない人はどうしても出てきます。その場合は、第二段階として、ナッジを行います。たとえば、床に足跡シールを貼ることで、その足跡に自身の足を合わせたくなります。
第三段階は「インセンティブ」です。会計の際に、2メートル間隔をあけた人には1割引、あけなかった人には1割増しとすると、多くの人は2メートル確保するようになります。
そして最後は「強制」です。力づくで2メートルの距離を取らせるので、確実に実行できますが、あくまでも最後の手段です。
これまで、主に情報提供とインセンティブが取り入れられていました。「情報提供しても行動しないのなら、インセンティブ」というのも、極端な感じがします。そして、相手に認知バイアスが強いと、正しい情報を提供しても、魅力的なインセンティブを提示しても、行動につながらない場合があります。そのため、認知バイアスに沿ったアプローチである、ナッジが求められるようになりました。
わかっていても行動しないのは、認知バイアスのため
そもそもなぜ人は、理想的な選択をしなかったり、行動を先送りにしたりしてしまうのでしょうか。
健康づくりではナッジの研究が進み、エビデンスが豊富にある分野なので、健康づくりを例にお話しします。
多くの人は健康の大切さをわかっています。運動や食事管理を「いつかやる」よりは、「今、やる」ほうがいいこともわかっています。でも、腰が重いのです。世界の研究が進み、知識と行動のギャップに、認知バイアス(心の働きの歪み)が起因していることがわかってきました。
脳には大きく分けて「直感」と「理性」の二つのシステムがあります。直感は常に発動しており、判断の大半を行います。働き者で力が強く、一方で本能的でコントロールが難しいために「象」によくたとえられます。
これに対して理性は「賢い象使い」のイメージです。じっくりと考えて、直感が暴走しないように自制する役割がありますが、普段は隠れています。理性の発動には多大なエネルギーが必要となるため、いざという場面で出現します。
その意味で、直感が日々の判断を担当するのは、脳にとって効率的なことです。ただし直感は、自分のことが好きで面倒くさがり屋という性格(これを「認知バイアス」と呼びます)を持っています。認知バイアスが強いと、健康知識を得ても、「行動するのは今でなくてもいいか」と歪んだ解釈をすることがよくあります。
認知バイアスには、共通のパターンがあります。その中には行動を促進するものもあります。認知バイアスのパターンを把握した上で、阻害要因の認知バイアスにブレーキをかけ、促進要因となる認知バイアスを味方につけることで、望ましい行動へと促す設計が可能になりました。この設計がナッジです。
認知バイアスとは、どのようなものでしょうか。
代表的なものに、「現状維持バイアス(現状維持を好み、変化を面倒くさがる習性)」があります。
たとえば、お年寄りは頑固だと言われますが、現状維持バイアスの観点から考えると仕方のないことです。年齢を重ねると現状に対する愛着が強くなり、現状を打破するほどのエネルギーが湧いてこないのです。もちろん、高齢者にも現状維持バイアスの弱い人はいます。しかし、集団としてとらえる場合、統計的に高齢者は若者に比べて現状維持バイアスが強い傾向が見られます。
現状維持バイアスが強い人に対して、同じ人が、同じ場所、同じタイミングで、同じことを言うと、直感的にいつもと同じく「別に今でなくてもよい」と答えたくなるものです。現状維持バイアスにブレーキをかけるには、「いつも通りの状態」から何かを変える必要があります。ここでは、時間帯を変えることで、現状維持バイアスを弱めた実験を紹介します。
【問】イスラエルでは裁判官による仮釈放申請の承認率は、昼休み直後は65%でした。では昼休み直前は何%だったでしょうか?
(1)0% (2)40% (3)80%
正解は(1)のほぼ0%でした。昼食前は理性がうまく機能せずに現状維持バイアスに影響され、却下という楽な判断を選びました。一方、昼食後は理性が現状維持バイアスを制御でき、柔軟な判断になりました。これはタイムリーナッジと呼ばれるものです。このように、認知バイアスの特性に沿ったナッジを設計することで、行動へ一歩踏み出しやすくなります。
金曜の夕方に、イノベーティブな意見は出にくい
具体的には、どのようにナッジを実践していけばいいのでしょうか。
青森県の保健所で実施した、消毒液の利用促進事例を紹介します。この保健所の利用者は、感染予防に消毒液を使ったほうがよいことは、わかっていたはずでした。でも、消毒液はあまり使われていませんでした。
そこで、1週目は消毒液に向けて“大きな矢印”を床に描いてみました。利用者の直感は矢印が気になって、「うっかり通り過ぎる」が減ります。その結果、消毒液の消費量は、1.6倍に増えました。
2週目は「消費量を計測しています」という張り紙をしました。人に見られていると感じると、正しい行動をしたくなるものです。結果、消費量は設置前に比べて1.7倍に増えました。
3週目は、その消費量を「グラフ」にして張り出しました。他の人も使っていると知ると、自分も使ってみたくなるものです。結果、1.9倍に増えました。
「感染症予防として、WHOは手指消毒を推奨しています」といった情報提供なら、効果が見られなかったと推測されます。「消毒液を使ったら100円あげますが、使わない人は100円罰金です」というインセンティブでも効果はあったでしょうが、時間やコスト、労力がかかり、さらに混乱も生まれた可能性があります。
ナッジの費用対効果の高さについて、職域ワクチン接種率を用いて検証した研究があります。ワクチンを無償化した際の接種者数を1とします。金銭的インセンティブ給付では1.7、教育キャンペーン実施では8.3に増えました。これに対して、実行意図ナッジを行ったときは12.0でした。
実行意図ナッジとは、ワクチン接種の対象者に「○月○日○時に私はワクチン接種を受けます」と書かれた紙を配り、〇欄に日付と時間を記載するように促すナッジです。記載はあくまでも任意ですが、この紙を渡されると書きたくなり、書いた人は実際に受診するようになりました。このように、実行意図を具体的に書き出すことで行動につながりやすくなります。
先ほどの裁判官による仮釈放申請で紹介したように、人は疲れると現状維持バイアスに影響された判断を下しやすくなります。これは疲れると理性が枯渇して、認知バイアスを自制できないことを示唆しています。特に認知バイアスが強まるのは、昼休み直前、夕方、夜です。
同じ情報を得ても、朝のほうが夕方よりも柔軟に判断できます。1週間のうち、最も疲れのたまっているであろう金曜日の夕方に会議を行っても、現状維持バイアスに基づく意見ばかりが出てくることが推測されます。認知バイアスの特性を知ることで、それに合った打ち手が見えてきます。
情報が多すぎると、相手は何をしてよいかわからなくなる
企業が「ナッジ」を取り入れるうえで、指針となる型はありますか。
ナッジのフレームワークに「EAST」があります。「EAST」とは、以下の頭文字をとったもので、政府も活用を推奨しています。
なかでも、重要なのがEasy(簡単)ナッジです。
具体例を挙げて説明します。次のような検診案内を1500人に配布しました。
新規受診者は、たったの一人でした。直感は、面倒なことが嫌いで、文字数が多いと、見た瞬間に「読むのが面倒だ」と判断し、後回ししたくなります。
シンプルにデザインし直しました。すると、検診者数が130人も増えました。これがナッジのパワーです。
このように文字数が多く、視認性が悪いと、直感的に何をしてよいかわからなくなります。かと言って相手はじっくりと読んでくれることは少ないのです。
直感に訴えて行動につなげるためのポイントは、「明確な矢印を示すこと」です。矢印で大切な要素は最初と最後、そして一貫性の三つです。
最初と最後が大切な理由は、最初の印象が長続きする心理傾向(プライミング効果)と最後の印象が記憶定着する心理傾向(ピークエンドの法則)に訴求するからです。そのため、研修や事業でも最初と最後に参加者がポジティブな気持ちになるような設計すると、その後の行動につながりやすくなります。
また、直感は気になることがあると、本来の目的をよく見失ってしまう性質があります。これを解決するには、最初から最後まで一貫した矢印にすることが求められます。矢印がわかりにくいと、「このまま進んで大丈夫か?」と疑問が生まれ、現状維持バイアスに押し戻されて、「今はやらない」という選択になってしまいます。
ナッジで研修効果を高めることができる
組織は研修を実施したり、自己学習のツールを提供したりと、さまざまな人材育成を実施しています。一方で、これらの成果が十分に見られないといった悩みも聞かれます。この解決にもナッジは有効でしょうか。
はい。青森県職員向け「体重測定促進」の健康教室の効果が向上した事例を通じ、人材育成への活用を考えていきます。
健康教室で数パターン行った中から、最も効果が見られたものを紹介します。まず「参加者が自身の努力が実を結んだ経験を発表し、まわりが褒める」というワークを行った後、体重測定促進の座学を行いました。
たとえば、「自分は中学のときに背が低かったけれど、人一倍練習をしたらバスケ部でレギュラーになれた」といった発表をした後、他の参加者は「おお、すごい!」「がんばったんですね」といったポジティブなフィードバックをします。
褒められると、うれしくなり、気持ちが上向きます。また、努力が実を結んだ経験を思い出すことで、「私もやればできる」という自己効力感が生まれ、マインドセットが「どうせ無理」という状態から「やればできる」へと柔軟化していきます。
情報提供だけを受けたグループでは、半年後に体重測定を継続した人は2%でしたが、このセッションを受けたグループは、60%でした。このようにポジティブなプライミング効果を設計したナッジによって、研修効果が高まると示唆されます。
この健康教室では、行動を体重測定だけに絞っています。シンプルなゴール設定も重要でしょうか。
ゴールをシンプルで達成可能なものに設定することは重要です。もし「食生活をバランスよくして毎日運動して禁煙して節度ある飲酒を心掛ける」というゴールだったら、そもそもやる気が起きないでしょう。
研修を企画すると、あれもこれもと内容を盛り込みたくなりますよね。しかし、参加者の直感は、矢印が増えるとパニックになってしまいます。
矢印が一つであれば、直感は安心してそのまま進むことができますが、矢印が三つになった瞬間に、どの道を進むのかという優先順位をつける作業が出てきます。現状維持バイアスが強い直感にとって、それを行うのは苦痛です。
そもそもたくさんのメッセージを研修で伝えても、参加者は覚えきれません。さらに、大量の情報はノイズとして受け取られる可能性が高くなります。今回のように「決まった時間に決まった場所で体重計に乗る」というくらいシンプルなものだと、さすがに忘れる人はいないと推測されます。
情報の絞り込みに当たっては、「微分積分」の概念が役立ちます。これは、「目標を最大化するように積み上げるため、要素を微調整する」というイメージで、「この微分は積分につながるか?」の観点から、不要なものを削っていきます。「とりあえず入れてみた」という内容は、相手の直感にはノイズとして映る可能性があります。「これは積分につながる微分か?これはノイズか?」を見分けるには、エビデンスが役立ちますが、最終的にはターゲット層に直接聞くことが求められます。
さらなるナッジ 「目標勾配仮説」「IKEA効果」
ナッジで促された行動を持続させるためには、どのようなフォローが必要でしょうか。
多くの研究から「ナッジは、最初の一歩を踏み出すきっかけづくりには向いているが、継続させるほどの力はない」という結論が出ています。ナッジは、そっと後押しする外からの刺激であり、行動の継続には、情報提供によるリテラシー向上といった内的動機が求められます。
ただし、いきなり情報を提供しても受け入れられないこともありますので、「ナッジで心を開き、間髪入れずに情報提供」という組み合わせを推奨します。これまで紹介したように、研修会の開催時間帯を朝にしたり、最初と最後をポジティブな印象を残すようにしたりすることで、その後の研修内容を好意的に受け止め、行動につながる可能性が高まります。
ナッジと情報提供の成果を検証した研究を紹介します。
ホテルの客室清掃員を二つのグループに分け、Aグループには「運動のメリット」を教えた上で、「あなたの日常業務は〇kcalの運動に匹敵します」と伝えました。そしてBグループには「運動のメリット」のみを伝えました。4週間後、Aグループは0.8キロの減量に成功しました。一方、Bグループは、体重に変化がありませんでした。なぜ、Aグループだけ効果が出たのでしょうか?
Aグループでは「あなたの日常業務は〇kcalの運動に匹敵します」と伝えたことがナッジになり、目標勾配仮説(目標に近づき、達成が間近であることがわかると、ラストスパートをかけたくなる心理傾向)が働き、身体活動量が増えたと推測されます。
このように、Aグループはナッジと情報提供の両方を受けたことで、成果が見られました。人事施策においても、身近なゴールを設定し、「あなたはここまで進んでいます」「もう少しで達成できますよ」と進捗状況を伝えることで、行動を継続させやすくなります。
次にお勧めなのは、「かけた労力が大きいほど、出来上がったものを高く評価する心理(IKEA効果)」の活用です。IKEAの家具は自身で組み立てることで、既製品よりも愛着が深まる現象が見られたことから、IKEA効果と名付けられました。
IKEA効果は、社員の健康促進に活かすことができます。健康づくり研修会には参加しない社員でも、「健康啓発ポスターづくりのワークショップ」には参加しそうです。健康啓発ポスターをつくっているうちに、健康へのIKEA効果が発揮されることがよくあります。IKEA効果の力が現状維持バイアスを上回ると、健康行動へと踏み出しやすくなります。
さらなる行動を促す二つのバイアス
- ・目標勾配仮説
- ゴールが見えると、行動したくなる心理
- ・IKEA効果
- 自分が労力をかけたものほど、高く評価する心理
ナッジの悪用を避けるには?
ナッジと逆に、認知バイアスの作用を悪用し、相手の不利益な方向に行動を促す「スラッジ」についても教えてください。人事の施策や行動がスラッジとなり、社員や組織の成長を阻害する可能性もあります。どのようにスラッジを発見すればいいのでしょうか。
明確な矢印を示されると、直感的に従いたくなります。仮にその矢印が、本人や社会にとって望ましくない方向に向いていたとしても、直感はその特性上、ついその矢印の誘惑に避けることが難しくなります。このようなナッジの悪用を「スラッジ」と呼びます。
ナッジを設計するに当たっては倫理的配慮が不可欠です。意図的なナッジの悪用のみならず、本人にその気はなくても、うっかり「スラッジ」になってしまっているということがよくあります。
社員にとって大きなメリットとなる研修制度をつくっても、申し込みページが文字だらけでわかりづらかったり、手続き方法が複雑だったりすると、申請者は少なくなります。シンプルなナッジにすることで申し込みが増えることはわかっていながら、それをしないのであれば、広い意味でのスラッジといえます。
申し込みを増やしたい場合は、プロセスマップ(行動を細分化したフロー図)をつくって「どこで申し込み手続きを断念しているのか」というボトルネック箇所を探っていく必要があります。
私たちは行動しない相手を「反抗している」と見なしたくなります。しかし、相手は直感的にどうしてよいかわからず、行動を止めてしまっているだけのことが実に多いのです。ナッジを使うことで、人事課題も解決に一歩前進できると信じています。
(取材:2023年4月14日)
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。