組織のわかりあえない対立を読み解く
ナラティヴ・アプローチで人事が果たしうる支援とは
埼玉大学経済経営系大学院 准教授
宇田川元一さん
人事は事業部のナラティヴを相対化させる存在
ナラティヴの溝に橋を架けるところで、人事にサポートの余地はあるのでしょうか。
大いにあると思います。まず社内における人事の立場は、ある種のよそ者です。人事の皆さんは、事業部のことはよくわからないと、負い目を感じているかもしれませんが、実はそれは強みです。よそ者だからこそ、事業部が見えていないものを見て、相対化させることができるのです。
子どもは、私たちが当たり前に受け止めていることに対して「どうして?」と問いかけることがありますよね。その質問に、大人は時折ハッとさせられるでしょう。人事と事業部との間でも、同様のやり取りをすることは可能なはずです。もちろん事業部に対して無理解でいい、人事の枠組みで見ればいい、という意味ではありません。人事も事業部の業務やビジョン、困りごとを、理解していることが望ましい。そのうえで、あえて事業部の理解を脇に置ける人事が、一番の理想だと思います。
相対化の役割は、経営層に対しても人事が担うべきところかもしれません。
経営者が権力の作用を自覚しないと、社員との対話は成立しません。つい先日、私自身が権力の作用を自覚することがありました。以前、私はゼミに来る学生に、「(やりたいことは)好きにやればいいじゃん」「どうしてやらないの?」と言い続けてきてしまっていました。私は20代後半で教員になって、気分は学生の延長線上にありました。ずっと同じ感覚でいる“つもり”でしたが、段々と歳をとっていくに従って、学生にとってはそうではない存在に変わってきていたのです。
自分は変わっていないつもりでも、周りが自身を見る目は確実に違うと。
私ももう40代ですから、学生とは年齢が倍くらい違います。おまけに役職がついたりメディアにも出たりして、学生から見ればそれなりの権力がついていたわけです。その立場になってから「どうしてやらないの?」という言葉は学生には重くのしかかるようで、知らないうちにプレッシャーをかけていたのです。
おそらく経営者にもまったく同じことが起こっていて、自分の権力、ナラティヴを自覚したうえで現場と接しないと、対話は成立しません。その意味で経営と現場をフォローする役割として、人事が担える部分はあると思います。
私の「やればいいじゃん」という発言は、ゼミ生に豊かな人生を送ってほしい、ゼミを通じて何かを収穫してほしい、成長してほしいという思いからでした。でもその思いを語ったことは、ほとんどなかったんですよね。「人生を語るとかちょっとウザい、オッサンくさい」って思われるのではないかと思って。そう思われたら嫌だから、ということそのものをもっとちゃんと話せることが大切なのだなと思います。もしメンター的役割の人がいて、学生とはちょっと感覚がずれていますよ、今の発言だけでは伝わっていないですよと指摘してくれたら、また違ったのかなと。経営者の思いを汲んだうえで、ひと言伝えるのは有効かもしれません。
あるいは現場に対し、どのような背景からの発言なのか、内容を噛み砕くだけでなく、文脈も含めて、その発言に至った過程を共有するというのもひとつの方法でしょう。
ところで宇田川先生は、どのようにしてご自身の権力の作用に気づかれたのですか。
歳を重ねてメディアに出るようになってから、だんだんと若者とのコミュニケーションに隔たりを感じるようになったんです。どうもうまくいかないな、という違和感がありました。
実は対話を成り立たせるうえで、違和感はとても重要です。他者とのやり取りの中で起こるいら立ちや違和感、居心地の悪さは、その人のナラティヴに何かしらの限界がある証拠なのです。自分のナラティヴの外側に、視点を移す必要があります。
課題を意識しているうちは解決に至らない
人事は対話の良き相手になるとのことでしたが、介入する立場に回ると、現場としっくりこないという違和感が出てくるように思います。これは、人事のナラティヴに凝り固まっている状態といえるのでしょうか。
大いにあり得ます。人事の皆さんは、とかく勉強好きです。新しい研修プログラムやワークショップを学んでは、「これはいい」と現場に取り入れようとします。けれどもナラティヴの溝のケアなしにやろうとしても、うまくいくはずはありません。
なぜなら現場は、事業としての成果を常に求められているからです。会社が成果を上げることは、人が社会の中に居場所を確保すうるうえで非常に重要なこと。事業部のナラティヴを通して世界を眺めたら、研修やワークショップを持ち込んでくる人事は現実をわかっていないように映るかもしれません。ギリギリのところで業務を回している人たちに、世間でいい成果を出しているという理由でワークショップを「やりましょう」と言っても、嫌がられるのは当たり前でしょう。まず相手の役に立つことを第一に考えて、その中で必要なことをする必要があります。人事は、自分たちは事業部が何に困っているかをわかっていないんだということを認めて、相手を知ろうとすることで、もっといい介入や支援ができると思います。
しかし、現場に学びの場を提供するのも人事の重要な役割ではないでしょうか。
学ぶこと自体を否定するつもりは全くありません。学びに走ることで課題から目を逸らしてはいないか、と申し上げたいのです。
依存症研究の第一人者である松本俊彦先生は、「コントロールできない苦痛をコントロールできる苦痛に変えるのが依存症だ」と説明します。例えば薬物依存に走ったあるタレントは、売れっ子になった一方で、面白いことをやらなければならないというプレッシャーに苛まれていたといいます。そのコントロールできない苦痛を解決する手っ取り早い方法が、薬物でした。
理由があって薬物依存になるのであり、自分の苦痛の源泉に目を向けられるようになることで、依存症から回復をしていくのが我々人間です。だから、課題に目を向けられないならば、目を向けられないということ自体にまず向き合ってみること、そこから始めても良いと思います。
確かに組織の課題を手法で解決するのは、限界がありますね。多くは適応課題なのですから。
そうです。目先に現れた課題を課題として捉えているうちは、解決につながらないのです。それは「薬を止めたいと思っているうちは止められない」のと似ています。特に、組織における適応課題は慢性的なものが多いですよね。人が定着しないとか、あの部署とこの部署の仲が悪いとか。大抵はいろんな要素が複雑に絡み合っていて、課題は表面上に浮上したものに過ぎません。
そして適応課題に挑むには、「準備―観察-解釈-介入」のプロセスが重要でした。
まずは自分のナラティヴの存在を自覚すること。実はこれが意外と難しい。先ほどの権力の作用の話からも、おわかりいただけるでしょう。そして相手は何に困っているのだろう、どうして困っているのだろう、どうして困るとわかっていてこのやり方を採用するのだろうと、相手のナラティヴに基づいて眺めてみることです。それができたなら、人事はもっと事業部の困りごとに有用な関わり方ができるはずです。
会社のナラティヴにも目を向ける必要がありそうですね。
その通りです。よく外部の手法をそのまま取り入れて失敗するケースがありますが、ナラティヴの違いを理解していないのですから当たり前のことです。ある大手メーカーのイノベーション推進室にアドバイザーとして関わっているのですが、そこでは過去の開発の事例をひもとくことで、ヒット商品の開発でリソースの配分を得るには、その会社固有のパターンがあるようだということが見えてきました。対話の構築もまさにそうで、外側に答えを求めるだけでなく、現状に至るまでのプロセスを丁寧にひもとくことで糸口が見つかる場合もあるのです。ヒントは意外と社内に潜んでいます。
ナラティヴの観点で見たときに「準備」と「観察」が足りないのは、日本の社会全体にいえることです。しかし、私は日本人だから苦手だ、とは思いません。日々生活する中で、自分と他者の違いを自然と認識できているからです。例えば隣町に住む人と話をして、わずかな価値観や考えの違いを感じた経験は、誰でも一度はあるでしょう。
私たちは、一人ひとり異なるナラティヴを持っています。そのことを自覚して、わかり合えない溝に橋を架けてみてください。
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