Jリーグ 村井チェアマンに聞く!ビジネスで発揮してきた人事・経営の手腕を、
Jリーグでどう生かしていくのか?(前編)
~組織を変革するリーダーは、夢を共有し、ビジョンを描かなくてはならない
公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)チェアマン
村井満さん
村井満さんは、長年リクルートで人事や経営に携わった後、Jリーグチェアマンに就任。ビジネス界で発揮してきたその手腕を、Jリーグの活性化や日本代表チームの強化にどのように生かされるのか、その動向が注目を集めています。グローバル化、IT 化がスピードを増す現在、企業には激しい変化にも柔軟に対応できる力が求められています。果たしてこれからの時代、リーダーは組織をどのようにとらえ、どういった行動を取るべきなのでしょうか。村井さんに詳しいお話を伺いました。
むらい・みつる●1959年埼玉県出身。浦和高校から早稲田大学法学部を卒業し、83年に日本リクルートセンター(現在のリクルート)に入社する。神田営業所に配属され、近辺の中小電気ショップを中心に求人広告の営業活動を行う。88年に発生したリクルート事件後、人事部門に異動となり、人事畑の業務が中心となる。2000年に人事担当の執行役員に就任、04年にはリクルートエイブリック(後のリクルートエージェント)代表取締役に就任し、11年まで社長を務めた。同年RGF Hong Kong Limited(香港法人)社長に就任し、13年まで務めた後に同社会長に昇格する。リクルート執行役員時代の08年に日本プロサッカーリーグ理事に選任され、2013年まで務める。14年に第5代日本プロサッカーリーグ理事長(チェアマン)に就任した。
人と社会を元気にするという意味で、人事とサッカーは同じ
村井チェアマンのこれまでのキャリアについてお聞かせください。
私は社会人になってから30年間、人と組織に一貫して関わり続けてきましたが、リクルートでもそういう人は決して多くないと思います。1983年に新卒で入社し、まずはリクルートブックの営業を担当しました。配属先は神田営業所。テレビの解体部品を店頭に並べているようなお店を一軒一軒訪ねていったように、まさに人事の“勝手口”から入ることから会社人生がスタートしました。とにかく中小企業の経営者、人事部を訪ねることを繰り返す毎日でした。
そして88年に、リクルート事件が起こります。政財界を揺るがす大きな事件となる中、人材を採用できず、組織としての求心力が保てなくなっていた時に、人事部へ異動することになりました。その後、バブル経済の崩壊があって経営が苦しくなり、ダイエー傘下に入りました。インターネットが世の中に広く知れ渡った95年には、これまで稼ぎ頭だったリクルートブックが終了することが予告されるなど、本業が危機的状況に追い込まれていきました。リクルート事件に加えて、財務的な破たんで資金繰りが悪化、そして本業さえもなくなるという「三重苦」の状況だった時期を、私は人事部で過ごしたわけです。
その間には、組織を何とかしようと人事に関する新たな手をいくつか打ちました。例えば、3年で会社を卒業する契約社員制度「CV職」、勤続10年以上か30歳以上で辞めたら1000万円の特別退職金を付与する早期退職制度「オプト制度」。このような組織の新陳代謝を促す仕組みは、当時非常に目新しいものでした。常に社外の人がリクルートに入ってくることができる、一方でリクルートで活躍した人が外に出て活躍できるようにする、といった「垣根の低い会社」を標榜した時期でもあります。
その後、従業員の頑張りでリクルートは新しいインターネットビジネスへの移行に成功しました。私はリクルートエイブリック(現在のリクルートエージェント)の社長に就任し、人材紹介業という世の中の人材配置を行う事業に携わることになります。この事業を2011年まで都合7年間やっていく中で、日本最大の人材紹介会社にすることができました。
2008年はリーマンショックがあり、2011年には東日本大震災が起きるなど、日本社会や経済が疲弊していく間、「求人の属性」は随分と変わりました。また、海外での生産から海外での販売へ軸足が移っていく日本企業が増えました。すると、リクルートエージェントでも「グローバル人材」の案件が多くなっていきました。企業の現地採用やグローバル人材採用が進んでいく中、これは片手間ではできない状況だと考え、2011年に自分の居を香港に移し、企業のグローバル化を支援するRGFという会社の社長になりました。その後2013年までに、アジア26都市にオフィスを広げていきましたが、まさにグローバル化に向けて舵を大きく切っていった3年間でした。
Jリーグチェアマンに就任するまでに、どのような経緯があったのでしょうか。
リクルートエージェントの社長をしていた頃に、CSRの一環としてJリーグなどプロスポーツ選手のセカンドキャリア支援を行っていました。そして2008年から6年間、Jリーグの社外理事を務めていました。直近の3年間は香港にいたわけですが、帰国する度に理事会に出ていろいろと意見を言わせてもらいました。そういった縁があって昨年末にチェアマンへの就任依頼があり、受けることにしました。それまでの人事・経営に関するキャリアから、大きく方向転換することになったわけです。
Jリーグという全く畑違いの世界に入ってきて、何か不安に思うことはありませんでしたか。
自信があった訳ではありませんが、不思議と不安はありませんでした。私自身、高校時代はサッカー部に所属していて、三度の飯よりサッカーが好きでしたから。何より、サッカーが日本社会を元気にすると思っていました。人事部の役割は人を評価することではなく、人や組織を元気にしていくことです。対象は多少変わりましたが、元気にするという意味では人事とサッカーは同じだと思っています。世間の人から見ると大きな変化かもしれませんが、私の中では手段が変わっただけで、目的そのものは変わっていないのです。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。