「労働安全衛生法」と「個人情報保護法」とは矛盾?
従業員の健康情報管理と企業の責任をどのように考えるか
はじめに~個人情報保護法施行後の「過剰反応」
1.法改正(罰則強化)に向けての動き
平成17年4月1日、個人情報の保護に関する法律(以下「個人情報保護法」という)が施行されました。その後のマスメディアによる同法の紹介報道や同法違反の事件報道等により、同法の趣旨・内容は国民各層に周知されたと言えましょう。
しかしながら、同法の違反事案は後を絶たず、本年2月中旬の新聞報道によると、早くも、 与党の情報漏洩罪検討プロジェクトチームが個人情報保護法の罰則規定の改正案の概要をまとめたとのことです。現行法では、個人情報の漏洩があってもその是 正を求める主務大臣の命令に従えば罰せられず、その命令に背いた場合に限り6カ月以上の懲役または30万円以上の罰金と定められていますが(56条)、改 正案は個人情報漏洩の事実だけで処罰できることとし、罰則は1年以下の懲役または50万円以下の罰金と重罰化するとのことです。
2.「過剰反応」の問題点と従業員の健康情報管理
ところで、個人情報保護法は、前記の通り罰則規定のある強行法規であるがゆえに、また、折しも企業におけるコンプライ アンスや企業の社会的責任(CSR)が叫ばれ始めた頃であったことも手伝ってか、これを厳重に遵守しようとする傾向が強くなり、次第に個人情報保護に対す るいわゆる「過剰反応」が懸念されるところとなりました。すなわち、個人情報の管理責任があることを理由に個人情報の開示を抑制する行動様式が生まれ、そ のために必要な個人情報の取得が困難となる事態がしばしば起こることとなったのです。そして、そのことは、国民の社会生活に不便と支障とをもたらす結果を 招いています。
本年3月初旬の新聞報道によると、政府は15省庁で構成する個人情報保護関係省庁連絡会 議において、個人情報保護法を理由に情報提供を不必要に抑制する「過剰反応」が広がっていることについて対策を話し合ったとされ、改善のため内閣府が法の 解釈や運用基準を明確化し、各省庁がガイドラインや解説等を必要に応じて見直していくことを申し合わせたとのことです。
筆者は、個人情報保護法施行前から、同法が過剰反応をもたらすことを懸念していました が、かような懸念が現実のものとなったことは誠に遺憾であり、早急に同法の正しい解釈の周知を徹底すべきであると考えます。かかる「過剰反応」は企業社会 にも暗い影を落とし始めており、その1つが「従業員の健康情報管理」であると言わざるを得ません。
そこで、本稿では、個人情報保護法が企業における従業員の健康情報管理にどのような影響をもたらしているか、労働安全衛生法の趣旨と矛盾するところはないか等について、関係省庁から発表された各種ガイドラインの要点にも触れながら論ずることとします。
I 従業員の健康に関する使用者の責任
1.使用者の安全配慮義務
使用者が安全配慮義務を負うことについては判例法理において確立しました。すなわち「安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に 入った当事者間において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方または双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるものである」 とされました(自衛隊車両整備工場事件・最判昭50.2.25)。
その後も、雇用契約上の安全配慮義務につき「労働者が労務提供のため設置する場所、設備 もしくは器具等を使用しまたは使用者の指示のもとに労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体を危険から保護するよう配慮すべき義務」とされてい ます(川義事件・最判昭59.4.10)。
2.労働安全衛生法の要請
労働安全衛生法(以下「安衛法」という)は、「快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保するようにしなければ ならない」(3条1項)と定めています。したがって、同法の趣旨からも、使用者が労働者に対して安全配慮義務を負っていることが確認できることとなりま す。
安衛法における労働者の健康の保持増進のための措置としては、同法第7章に一連の規定が 置かれているところであり、そのうち健康診断に関する規定である66条ないし66条の8については、使用者が労働者から業務との何らかの関連性において発 生した健康被害の回復のための賠償を求められる場面で、ことに重要となると言えましょう。
そして、今般、平成18年4月1日施行の改正安衛法により、使用者の労働者に対する健康 診断結果の通知義務が強化され(66条の6)、これが罰則規定(120条1号)にかからしめられていることから、より一層かかる通知は徹底されなければな らないことは言うまでもありません。
また、同改正により使用者に対し面接指導等が新たに義務付けられることとなり(66条の 8)、その面接指導結果の記録義務(同条3項)および面接指導結果に基づく医師の意見聴取義務(同条4項)等も生ずることとなりましたので、使用者の労働 者に対する安全配慮義務の内容はさらに厚みを増したと理解すべきでしょう。
II 従業員の健康情報の管理の在り方
1.「労働者の個人情報に関する行動指針」
労働省(当時)は、平成12年12月20日、「労働者の個人情報に関する行動指針」を発表しています。この指針は、個 人情報保護法制定前のものであり、個人情報保護法の解釈・運用に関するガイドラインではありませんが、労働安全衛生に関する措置を講ずるための個人情報の 収集や管理等に関し、使用者の行動指針を示したものとして把握しておく必要があります。
まず、収集については以下の通りです。
使用者は、法令に定めがある場合及び就業規則等において、使用者を含め医療上の個人情報の処理に従事する者についてこの指針の原則を明らかにした上で、次に掲げる目的の達成に必要な範囲内で収集する場合を除き、医療上の個人情報を収集してはならない。
(イ)特別な職業上の必要性
(ロ)労働安全衛生及び母性保護に関する措置
(ハ)(イ)及び(ロ)に掲げるほか労働者の利益になることが明らかであって、医療上の個人情報を収集することに相当の理由があると認められるもの
次に、保管については以下の通りです。
医療上の個人情報は、原則として就業規則等においてこの指針の原則によることを義務づけられている者が他の個人情報とは別途に保管するものとする。
なお、上記の「原則」とはいずれも「使用者を含め、個人情報の処理に従事する者は、業務上知り得た個人情報の内容をみだりに第三者に知らせ、または不当な目的に使用してはならない。その業務に係る職を退いた後も同様とする」との内容です。
さらに、「特定の収集方法」と題し、次のように指導しています。
(1)使用者は、原則として、労働者に対し次に掲げる検査を行ってはならない。
(イ)うそ発見器その他類似の真偽判定機器を用いた検査
(ロ)HIV検査
(ハ)遺伝子診断
(2)使用者は、労働者に対し、性格検査その他類似の検査を行う場合には、事前にその目的、内容等を説明した上で、本人の明確な同意を得るものとする。
(3)使用者は、労働者に対するアルコール検査及び薬物検査については、原則として、特別な職業上の必要があって、本人の明確な同意を得て行う場合を除き、行ってはならない。
(4)使用者は、職場において、労働者に関しビデオカメラ、コンピュータ等によりモニタリング(以下「ビデオ等によるモニタリング」という。)を行う場合には、労働者に対し、実施理由、実施時間帯、収集される情報内容等を事前に通知するとともに、個人情報の保護に関する権利を侵害しないよう配慮するものとする。ただし、次に掲げる場合にはこの限りでない。
(イ)法令に定めがある場合
(ロ)犯罪その他の重要な不正行為があるとするに足りる相当の理由があると認められる場合
(5)職場において、労働者に対して常時ビデオ等によるモニタリングを行うことは、労働者の健康及び安全の確保又は業務上の財産の保全に必要な場合に限り認められるものとする。
(6)使用者は、原則として、個人情報のコンピュータ等による自動処理又はビデオ等によるモニタリングの結果のみに基づいて労働者に対する評価又は雇用上の決定を行ってはならない。
2.「雇用管理に関する個人情報のうち健康情報を取り扱うに当たっての留意事項について」
厚生労働省は、平成16年10月29日、「雇用管理に関する個人情報のうち健康情報を取り扱うに当たっての留意事項について」(基発第1029009号)を示達していますが、その中で特記すべき要点は以下の通りです。
●健康情報の取扱いについて事業者が留意すべき事項
法(個人情報保護法を指す。以下同じ)第16条及び法第23条第1項に規定する本人の同意に関する事項
(1)事業者が、労働者から提出された診断書の内容以外の情報について医療機関から健康情報を収集する必要がある場合、事業者から求められた情報を医療機関が提供することは、法第23条の第三者提供に該当するため、医療機関は労働者から同意を得る必要がある。この場合においても、事業者は、あらかじめこれらの情報を取得する目的を労働者に明らかにして承諾を得るとともに、必要に応じ、これらの情報は労働者本人から提出を受けることが望ましい。
(2)また、事業者が、健康保険組合等に対して労働者の健康情報の提供を求める場合、事業者と健康保険組合等とは、異なる主体であることから、法第23条の第三者提供に該当するため、健康保険組合等は労働者(被保険者)の同意を得る必要がある。この場合においても、事業者は、あらかじめこれらの情報を取得する目的を労働者に明らかにして承諾を得るとともに、必要に応じ、これらの情報は労働者本人から提出を受けることが望ましい。
ただし、事業者が健康保険組合等と共同で健康診断を実施する場合等において、法第23条第4項第3号の要件を満たしている場合は、当該共同利用者は第三者提供に該当しないため、当該労働者の同意を得る必要はない。
また、事業者が雇用管理に関する個人情報の適切な取扱いを確保するための措置を行うにあたり配慮すべき事項として、以下に掲げる事項につき事業場内の規程等として定め、これを労働者に周知させるとともに、関係者に当該規程に従って取り扱わせることが望ましいとしています。
(1)健康情報の利用目的に関すること
(2)健康情報に係る安全管理体制に関すること
(3)健康情報を取り扱う者及びその権限並びに取り扱う健康情報の範囲に関すること
(4)健康情報の開示、訂正、追加又は削除の方法(廃棄に関するものを含む。)に関すること
(5)健康情報の取扱に関する苦情の処理に関すること
ここでの「健康情報」とは何であるのか、次の例示がなされています。
(1)産業医が労働者の健康管理等を通じて得た情報
(2)労働安全衛生法(以下「安衛法」という)第65条の2第1項の規定に基づき事業者が作業環境測定の結果の評価に基づいて、労働者の健康を保持するため必要があると認めたときに実施した健康診断の結果
(3)安衛法第66条第1項から第4項までの規定に基づき事業者が実施した健康診断の結果並びに安衛法第66条第5項及び第66条の2の規定に基づき労働者から提出された健康診断の結果
(4)安衛法第66条の4及び第66条の5第1項の規定に基づき事業者が医師等から聴取した意見及び事業者が講じた健康診断実施後の措置の内容
(5)安衛法第66条の7の規定に基づき、事業者が実施した保健指導の内容
(6)安衛法第69条第1項の規定に基づく健康保持増進措置(THP:トータル・ヘルスプロモーション・プラン)を通じて事業者が取得した健康測定の結果、健康指導の内容
(7)労働者災害補償保険法第27条の規定に基づき、労働者から提出された二次健康診断の結果
(8)健康保険組合等が実施した健康診断等の事業を通じて事業者が取得した情報
(9)受診記録、診断名等の療養の給付に関する情報
(10)事業者が医療機関から取得した診断書等の診療に関する情報
(11)労働者から欠勤の際に提出された疾病に関する情報
(12)(1)から(11)までに掲げるもののほか、任意に労働者等から提供された本人の病歴、健康診断の結果、その他の健康に関する情報
なお、HIV感染症やB型肝炎等の、職場において感染したり、蔓延したりする可能性が低い感染症に関する情報や、色覚検査等の遺伝情報については、職業上の特別な必要がある場合を除き、事業者は、労働者等から取得すべきではないとされています。
ところで、個人情報取扱事業者以外の事業者による健康情報の取扱いについても言及されて います。すなわち、「個人情報取扱事業者以外の事業者であって健康情報を取り扱う者は、健康情報が特に適正な取扱いの厳格な実施を確保すべきものであるこ とに十分留意し、『健康情報の取扱いについて事業者が留意すべき事項』に準じてその適正な取扱いの確保に努めること。」とされています。
3.健康保険組合等における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン
厚生労働省は、平成16年12月27日、「健康保険組合等における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」を発表しています。以下、本問題に関する要点を紹介します。
■本人の同意
当該健保組合等において通常必要と考えられる個人情報の利用範囲を明らかにしておき、このうち、被保険者等の利益になるもの又は必ずしも利益になるものではないが医療費通知など事業者側(健保組合等)の負担が膨大である上必ずしも被保険者等本人にとって合理的であるとは言えないものについては、被保険者等から特段明確な反対・留保の意思表示がない場合には、これらの範囲での個人情報の利用について同意が得られているものと考えられる。
なお、これらの場合において被保険者等の理解力、判断力などに応じて、可能な限り被保険者等本人に通知し、同意を得るよう努めることが重要である。
■個人データの第三者提供
(1)第三者提供の取扱い
健康保険組合等は、あらかじめ本人の同意を得ないで、個人データを第三者に提供してはならないとされており、次のような場合には、本人の同意を得る必要がある。
(例)職場からの照会
職場の上司等から、社員の傷病名等に関する問い合わせがあった場合など、本人の同意を得ずに傷病名等を回答してはならない。
(2)第三者提供の例外
ただし、次に掲げる場合については、本人の同意を得る必要はない。
(1)法令に基づく場合
(2)人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき
(以下略)
III 安衛法の遵守・安全配慮義務の履行と個人情報の適正な保護との関係
1.安衛法の遵守と同法改正の影響
使用者が安衛法上の義務を履行する目的で労働者の健康情報を収集することは、前記の「労働者の個人情報に関する行動指針」等に沿ったものであれば特段問題 はないものと考えます。ただ、安衛法上の義務強化により、使用者はなお一層労働者の「健康情報」を収集し、これを人事措置や労務管理に活用しなければなら ないこととなりましたので、個人情報保護に関するいわゆる「過剰反応」に鑑みれば、労働者の健康情報の取扱いについて今後さらに困惑する場面が増えはしな いかと懸念するところです。
2.就業規則等の整備の必要性
ところで、そもそも安衛法も個人情報保護法も国が制定した法律ですから、立法趣旨や法制度の内容が矛盾することはあり ません。もし万一、「矛盾しているのではないか」との疑念が生ずるのであれば、それはどちらかの法の趣旨を正しく理解していないことにほかならず、個人情 報保護法について言えば、冒頭で言及したいわゆる「過剰反応」にほかなりません。
結局、使用者は、安衛法上の義務を含む安全配慮義務を全うするため、労働者の「健康情 報」を収集・管理等するにあたり、個人情報保護法の定めはもとより、前記の「労働者の個人情報に関する行動指針」等を手引きとしてその手続次第を就業規則 等で定め、健康情報の収集・管理等に対する労働者各位の信頼を得ておくべきでしょう。そうであれば、労働者から個別に同意を得るべき場合においてもその同 意は得やすく、また、一定の収集・管理等については、その同意をあらかじめ包括的に得ているとの解釈を是認することができましょう。
3.就業規則の規定例
会社が従業員の健康情報の取扱いについて就業規則にその定めを置くこととする場合、健康診断の結果記録も含め、労使間 の権利義務を明らかにしておくことが相当でしょう。その規定例は以下のようなものが考えられます。なお、最近、健康診断の結果は、医療機関や健康保険組合 等から直接受診者たる従業員に通知することが多くなってきたのが実情のようですから、これを踏まえて構成してみました。
まず、出退勤・欠勤・休暇取得等勤怠に関する各種届出の項目に加条すべきものとして、次の条項があるでしょう。
(健康診断結果の通知)
第○条従業員は、会社が医療機関ないし健康保険組合に委託して行った健康診断の結果につき、それを入手した後何ら加工を加えずに直ちに会社に対し書面で報告する。
2
従業員が会社の行う健康診断を受診せず、それに代わる健康診断を受診した場合も前項と同様とする。
(健康診断結果記録の管理)
第○条会社は、前条に基づいて収集した従業員の健康診断結果記録につき法の定めに基づいて適正に管理する。
次に、規定を遵守すべきことをうたう服務規律を補正しなければなりません。
(服務規律)
第○条
従業員は、やむを得ない事由がある場合を除き、第○章において定める勤怠に関する各種届出(健康診断結果の報告を含む)を誠実に履行しなければならない。
そして、かかる服務規律違反については、懲戒処分の制裁を予定しておくべきです。
なお、このような就業規則の変更につき、「労働条件の不利益変更である」との主張もあり 得るかもしれませんが、使用者が安衛法上の労働者の健康の保持増進のための措置を確実に行えるようにするため、同法は労働者に対し、これへの協力義務とし て健康診断受診義務(66条5項)を課しているものと理解すべきですから、使用者がかかる義務を全うするために労働者に対し健康診断結果の報告を義務付け ることは、その必要性および手段の合理性の観点から、当然是認されるものと考えます。
したがって、健康診断結果の報告をしない従業員に対し、懲戒処分を行うことがあってもやむを得ないこととなります。
4.直接報告の回避について
ところで、従業員の健康診断を受託した医療機関ないし健康保険組合がその委託者である会社に健康診断の結果を直接報告しないことについて、何らかの法違反や契約違反の疑いがあるかどうかですが、筆者はいずれもないと考えます。
まず法違反の観点ですが、安衛法上の「事業者」とは、「事業を行う者で、労働者を使用す るものをいう。」(2条3号)と定義されていますから、会社から委託を受けて従業員の健康診断を行う医療機関や健康保険組合は「事業者」には当たりませ ん。したがって、安衛法が定める様々な義務違反を問われる可能性はありません。
次に、契約違反の疑いですが、確かに、従業員の健康診断たる役務提供の請負契約ないしこ れに準ずる混合契約においては、受託者の委託者に対する報告義務を定めることが通常です。ところが、契約内容自由決定の原則といえども、強行法規に反する 約定はできませんから、結局、強行法規たる個人情報保護法による修正を余儀なくされ、受託者は委託者に直接、従業員の健康診断結果を報告しなくとも契約違 反を問われないこととなるでしょう。
ただ、第三者提供に対する従業員各位の同意を得ることまで受託者の債務とする契約内容と するのであれば、これらの作業を経て直接報告を行わないことの全体が債務不履行となるでしょう。しかしながら、通常は健康診断を受診する従業員から同意を 得る作業を行うことは煩雑であり、エラーやトラブルの発生をおそれるでしょうから、第三者提供に対する従業員各位の同意を得て直接報告することまで受託者 の債務とするのであれば、医療機関や健康保険組合は健康診断を受託することを躊躇し、よって会社が円滑に健康診断を行えない事態となりかねません。
5.従業員が健康診断結果の報告を拒否した場合の対処
まず、従業員に対し就業規則において健康診断結果の報告義務を課す場合には、報告を拒否する従業員に対し懲戒処分を予 定することにより拒否行動を抑止することができるでしょう。また、報告拒否は会社業務に対する非協力的態度の1つとして、勤務成績の査定に悪影響を及ぼす こととなるでしょうから、これが十分な抑止力となるでしょう。
しかしながら、勤務成績の査定が悪くなろうが懲戒処分を受けようが、自分の健康に関する プライバシーを守る観点から報告を拒否し続ける従業員が出現した場合、使用者にとってその従業員の健康情報が得られないことがもたらす危機の管理を考えて おかなければなりません。すなわち、使用者の安全配慮義務の問題です。
場合分けして考えるに、健康診断結果の報告を拒否している従業員についての従前の健康情 報を活用すれば何がしかの安全配慮ができるのであれば、それさえ不十分だった場合に使用者の安全配慮義務違反は免れないと考えます。ところが、従前の健康 情報を活用しての安全配慮義務は尽くしているが、直近の健康診断の結果が重要な健康情報であってその報告がなかったがゆえに当該従業員の健康被害の結果を 予見できず、したがって結果の回避措置を事前に講ずることができなかったという場合には使用者は安全配慮義務違反を問われないと考えます。
ただ、上記のように単純に割り切れる事例ばかりであれば問題はありませんが、現実にはこ れらの中間的なもの、すなわちグレーゾーンの事例が起こることを想定しなければなりません。裁判例では、グレーゾーンに位置付けられる場合には、いったん 安全配慮義務違反を認めたうえ、損害の公平な分担の見地から過失相殺(民法418条または同法722条2項)を行うものがあります。これは、自己責任の原 則に基づいて一般的に労働者は自己健康保持義務を負うとした上、それを労働者が怠った場合に使用者の安全配慮義務違反を否定するということではなく、労働 者が自己の健康を十分顧みなかったという態度を過失相殺において考慮するというものです(システムコンサルタント事件・東京地判平10.3.19、東京高 判平11.7.28)。
この裁判例の考え方によれば、労働者の自己健康保持義務違反が極大化することにより反射 的に使用者の安全配慮義務が全面的に否定される事例はあまり考えられませんが、安衛法の改正等により使用者の安全配慮義務の守備範囲が拡大し、義務違反が より重く捉えられることとなるのであれば、労働者が自分の健康情報を合理的な理由なく使用者に提供しないことにつき、その信義則違反を重く扱うことが労使 間の公平の見地から相当であると考えます。そして、そのように考えることができれば、労働者が自分の健康情報の提供を拒んだがゆえに使用者が労働環境を十 分に整備できず、よって当該労働者に健康被害が発生したとしても使用者は安全配慮義務を負わないとの結論を導くことができましょう。
おわりに~労使双方が法の趣旨を理解することが必要
従業員の健康情報は、いわゆるセンシティブ情報ですから、使用者がその取扱いに特段の配慮を行うべきことは言うまでもありません。従業員の高度のプライバシーとして、漏洩事故等が起こらないよう細心の注意を払うべきでしょう。
また、従業員の健康情報をもとに偏見を抱いて勤務成績の査定や配置転換、昇格・昇進などの人事措置の決定に不相当に利用するなどしてはなりませんし、退職勧奨や解雇を行うことを目的として従業員の健康情報を収集するようなことがあってはなりません。
さらに、従業員の健康情報はその従業員が引き続き在職する限り連続し相互に関連した情報として毎年収集し、従業員の健康保持増進のため適宜利用できるよう管理しなければなりません。
そして、その管理が適正に行われるよう管理の方法を就業規則細則等で明確に定めておくべきでしょう。管理責任者を置いた上で管理を担当する従業員は特定の者に限定し、特定の従業員以外は従業員の健康情報にアクセスできないようにすべきでしょう。
反面、従業員は、会社が従業員の健康情報を収集し管理するのは、安衛法上の義務および安全配慮義務を全うする目的からであることを信頼できる場合は、使用者がその義務を履行する上で支障のないよう協力態勢をとるべきでしょう。
そのためにも、労使双方が個人情報保護法の趣旨および同法施行のための指針やガイドライン等を正確に理解すべく意見や情報交換の労を惜しむべきではありません。
【執筆者略歴】
●山崎 隆(やまざき・たかし)
慶応義塾大学卒業。昭和63年4月弁護士登録、第一東京弁護士会所属。経営法曹会議会員。高井伸夫法律事務所勤務を経て、平成8年4月に「東京ひまわり法律事務所」開設、現在に至る。著書に「事例でわかる!人事・労務管理」(かんき出版)、「Q&A労働法務実務シリーズ<2>賃金─給料・賞与・退職金」(中央経済社)などがある。
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