部下の転職の世話をする上司
転職者の教育に力を入れない企業
ちょっと行きすぎかもしれないですが…
部下の転職相談をお願いします
転職に成功した後、その経験を踏まえて周囲の人にさまざまなアドバイスをする…という人は意外に少ないのではないだろうか。日本ではまだまだ「自分の成功をひけらかさない」という謙虚な姿勢を保つ人が多数派だからだ。しかし、何度か転職を重ねてくると、後輩の役に立つなら…と積極的に活動する人もいるようである。
キャリアアップ転職の成功体験者
「実は転職の相談に乗ってほしい人がいるんですよ。知り合いなんですけど、いいでしょうか…」
電話をかけてきたBさんは、もう10年ほど前から何度かキャリアアップの相談に乗っている方である。実力があり、これまでに3回は転職していて、その都度ポジションも年収もアップさせている。そんなBさんから転職を考えているという知り合いを紹介されるのは、これが初めてではない。
「もちろん大歓迎です。相談に乗らせていただきますよ」
そう答えてから、Bさんの近況もうかがってみた。
「ところで、Bさん。ご無沙汰していましたが、現在はどちらに勤務されているのですか。前回相談をいただいた際は、たしかN社に在職されていたと記憶していますが…」
「それは去年までですね。今年からある上場企業に転職しまして、現在はマーケティング部門の部長として勤務しています」
「そうなんですか、おめでとうございます!」
「ありがとうございます。で、実はその転職したい知り合いというのは、現在の部下なんですよ。かなり忙しい環境でしてね、いろいろ悩んでいるという相談を受けたんです。それで、転職するんだったら良い人材紹介会社を知ってるから…という話をしましてね」
一般的には、自分の部下が転職で悩んでいたら、まずは勤続を基本に話し合うのが先決のような気もするのだが…。
「私もそう思って役員相手にいろいろと掛け合ったんですよ。でも、当面この部署の問題は解決しないだろうということになりましてね。それだったら、外に目を向けるのもいいかもしれないね…という話になったんです。一度、本人から詳しい話を聞いてもらえませんか」
さすがはBさん。非常に手回しが良いのである。
常にうまくいく人はごく一部…
さて、ここからがBさんのすごいところ。ではアポイントを取ります…という私に、「だったら事務所までお越しいただけませんか」とのご提案。
「会議室を予約しておきますよ。なにしろ普段の業務が忙しくて、部下も転職活動をする時間的な余裕がないようなんです。よかったらその後3人でランチでもどうですか」
上司と一緒に転職活動、それも自社内で…というのもさぞかし気骨が折れるような気もするが、最初は名刺交換だけでもいいだろう、ということになった。 指定されたその会社の事務所に出向くと、さすがに新進の上場企業だけあって、非常にきれいなオフィスである。会議室に通されると、さっそくBさんが現れた。
「Bさん、またまたキャリアアップに成功されたようですね」
にっこり笑ったBさん。
「そうですね、年収も今このくらいですよ…」
指で示された金額は前職よりもかなりアップしているようだ。
「でも、待遇がいいだけあって仕事はハードですよ。ほとんど毎日終電です。休日もちょこちょこ出てますしね…。部下も同じような環境なので、心身ともに疲れがたまってしまったようです。なにしろ私よりも前から勤務してますから…。では、ちょっと呼んできますね」
部屋を出て行きかけたBさんは、振り返るとこう言った。
「私にも何かいい案件がありましたらお願いします。部長職には満足してるんですが、もうちょっと余裕をもって働ける環境がいいなと思いましてね。いつもすいませんが…」
「もちろんですよ」と答えながら、私はこういうやりとりも初めてではないな…と思った。他人の世話も焼くが、自分のことも忘れてはいない。常にキャリアアップを考えている人というのは、Bさんのように決して妥協しないものなのかもしれない。 とはいっても、誰もがBさんのように常に転職に成功するとは限らない。Bさんの部下には、そのあたりの実情を十分に説明すべきだろうと私は考えていたのだった。
あまりにも当たり前のことですが…
きちんと教育できないなら、採用する意味はありません
人員が不足しているから増員強化する…というケースは、ごく普通の募集背景の一つだろう。しかし、あまりにも人手が足りない場合、現場の仕事を回していくのに精一杯で、新たに採用した人を十分トレーニングしている余裕がない、という状況に陥ってしまうことがある。実は、これが人材採用の失敗スパイラルを生んでしまう典型的なパターンなのだ。
もう続けられません、あまりにも仕事がなくて…
「その節はお世話になりました。K社をご紹介いただいたTです。入社してから、まだ2ヵ月ほどしかたってないんですけど、ちょっとご相談がありまして…」
こういう時はなんとなく「うまくいってないのだろうか」と心配になるものだが、やはりその予感は的中した。Tさんは、入社したK社を退職したいというのだ。
「どうなさったんですか。入社の時はあんなに張り切っていらっしゃったのに…。条件が違うなど、何か問題がありましたか」
入社して2ヵ月という短期間で退職を考えるというのは普通ではない。私たちが提供した情報に誤りがあったのだろうかと心配になるし、Tさんにも申し訳ない気持ちで一杯になる。
「ええ、実は研修のことなんです。入社前に、未経験なので教育の制度はあるのか、研修はしっかり行われるのか…ということを、くどいくらいに確認したんです。その時は絶対に大丈夫、という話だったのですが、入社してみると教育制度も研修もまったくなかったんです」
うーむ…と思わず唸ってしまうような事態である。Tさんはさらに詳しく話してくれた。
「K社は大手企業だし、私もその点では安心していたんです。でも、配属された部署はかなり忙しくて、周りの人に質問したくてもなかなか話しかけられない状態です。仕方ないので、任された仕事だけはきちんとやっていましたけど、研修なしでできる仕事というのはやはり少ないんですね。午前中で終わってしまう程度の分量しかありません。最初の1ヵ月は、研修がそのうち始まるんだろう…と思ってガマンしていましたが、2ヵ月目も同じ状況で…。もういてもたってもいられなくなって、退職の相談を上司にしてしまったんですよ。申し訳ありません」
最悪のパターンではないだろうか。Tさんにも最悪だし、K社にとっても最悪である。ついでにいうなら、この採用を仲介した私たち人材紹介会社にとっても。
「こちらこそ申し訳ございませんでした。そういう社内状況だと分かっていれば、紹介する時にお伝えできたのですが…」
私もTさんに謝るしかなかった。
自分で吸収できる人材が理想とはいっても…
「Tさんに代わる人材をご紹介いただけないでしょうか」
K社の人事部から連絡があったのは、その翌週の話である。Tさんの退職はすでに受理されていた。私はそれとなく、Tさんから聞いた「研修がまったくない」という話を振ってみた。
「実は、Tさんから未経験者向けの教育が十分なかったために、身の置き所がなくなった…というような話をお聞きしたんですが、実際のところいかがでしょうか。もし、あまり教育体制が整っていないなら経験者に絞って採用していかないと、また同じことの繰り返しになってしまいますよね」
人事のマネジャーは苦渋の声で答えてくれた。
「それは私も聞きました。人事でも、もっとフォローができればよかったのですが…。配属先部門のマネジャーが叩き上げタイプで、仕事を覚えたかったら自分からどんどん来い、という感じなんですよね。今はそういう時代じゃないといっても、やはりちょっと感覚のズレがあったようです」
人事マネジャーによれば、研修・教育に力を入れるというのは会社全体の方針なのだが、現場では部門によって、かなりの温度差があるのだという。
「理想をいえば、特別な研修などなくても、自分で仕事を探して、業務知識を吸収していくような積極的な人材が望ましいということになると思います。しかし、そのレベルの人材は、経験者を採用するのと同じくらい希少なんです。そのあたりの社内コンセンサスを取っていただくまでは、経験者に絞ってご紹介した方がいいように思いますが…」
少々きつい言い方になってしまったかもしれないが、私はそう提案した。
「それで結構です。未経験者は社内体制がもっとしっかりしてからでないとお願いできないですね」
せっかく高い意欲を持って入社してもらっても、受け入れ体制の問題で関係者全員が不幸になってしまうこともある。企業は代わりの人を探せばいいが、一番影響が大きいのは再度転職活動を始めなくてはならない人材だろう。
Tさんはまもなく新しい会社への転職が決まったが、こういうケースは、やはりあってはならない事態なのだ。