酒場学習論【第39回】
博多「ネッスンドルマ」と多様性あふれる世界
株式会社Jストリーム 執行役員 管理本部 副本部長 兼 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
「ネッスンドルマ」という酒場の多様な魅力を説明することは簡単ではありません。博多の西中洲エリアで、夜の遅い時間までおいしい燗酒が呑める貴重な酒場であり、会員制ではありませんが、事前に電話をかけ、入口の鍵を開けてもらって入店するという秘密めいた酒場でもあります。
この酒場を教えてくれたのは、千葉蓮池の名店「菜種彩」ですが、やはり酒場のご縁はありがたい。日本中の燗酒酒場がつながっています。
最初はかなり緊張してお邪魔しましたが、すぐに雰囲気に溶け込み、多くの燗酒を堪能しました。大抵は何軒か立ち寄ったあとに、満腹かつ半泥酔でお邪魔するのですが、それでもまた何杯も盃を重ねてしまいます。金曜日以外は夜に営業しない、昼中心の最高な燗酒酒場「捏製作所」のある博多の街で、深夜まで燗酒が呑める酒場があるなんて、何とありがたいことでしょうか。
酒場に入ると、そこは赤と黒の世界です。カウンターを彩るのは鳥獣戯画。赤い灯りに照らされて、動物たちが暗がりの中で舞い踊ります。奏でられるBGMはオペラ。店名の「ネッスンドルマ」はオペラのアリアのことで、日本語題は「誰も寝てはならぬ」。オペラに詳しい人なら、店名を聞いてすぐに、夜遅くまで営業しているのは当然だと思うでしょう。
しかし、これだけですと、単にシックな燗酒バーです。もちろん、それだけでも「ネッスンドルマ」は唯一無二の存在だといえるのですが、実はこの酒場の多様性を際立たせている最大の存在は、カウンターの中のお二人です。長いお付き合いの二人の女性でこの酒場は成り立っていますが、タイプはまったく異なります。一人はこの酒場の女将、そしてもう一人は「ひよこ店長」と名乗ります。
ひよこ店長は、ひよこでないのは言うまでもありませんが、店長でもないようです。しかし、自らひよこ店長と名乗ります。それだけでもう相当に不可思議な存在なのですが、このお二人の掛け合いが絶妙なのです。論理の飛躍が激しく、虚実入り乱れたひよこ店長の語りに、毅然かつしっかりと応対し、時には厳しくたしなめる女将の対応。この唯一無二の組み合わせによる掛け合いが、私にとってはとても良い酒の肴になります。
実に多様な魅力を持ち、ますます説明が難しくなってきたネッスンドルマですが、それらすべてが合わさって、とても落ち着く酒場を形成しています。一見チグハグなものの調和が取れていく不思議さ。旨い燗酒。一つのオリジナルな世界がそこには間違いなく存在します。素晴らしい酒場です。
2023年3月期以降の決算期から、上場企業には「人的資本」に関する情報開示が義務付けられました。人材を「使用すれば減っていく資源」ではなく、その「価値が伸び縮みする資本」としてとらえ、人材への投資や育成を重視し、その状態を有価証券報告書で開示することがルール化されたのです。
具体的に開示が義務付けられたことの一つに、「中長期的な企業価値向上における人材戦略の重要性を踏まえた『人材育成方針』(多様性の確保を含む)や『社内環境整備方針』について、有価証券報告書のサステナビリティ情報の『記載欄』の『戦略』の枠の開示項目とする」ことがあります。
「多様性の確保を含む」とありますが、人的資本経営においては「多様性の確保」は重要性な要素です。加えて「多様性の確保」の状況を確認する指標として、「女性管理職比率」「男性の育児休業取得率」「男女間賃金格差」の3点が、中長期的な企業価値判断に必要な項目として、有価証券報告書の「従業員の状況」内での開示項目になりました。数値目標が独り歩きするのはいかがなものかとは思いますが、世の中を変えていくためには、数値目標も必要悪なのかもしれません。
多様性戦略はダイバーシティ戦略ともいわれますが、先進的な企業は生き残り戦略として取り組んできました。同質的なメンバーで堅牢なピラミッド型組織を作り、一糸乱れぬ統率の下でやるべきことをやっていれば、企業を成長させられた時代は終わっています。今は、何をやるべきなのか自体を、知恵を絞って考え抜くところから始めなければいけません。そうなると、同質的なメンバーの平板な発想力では太刀打ちできなくなり、異質で多様な人材の相互交流的な発想が大切になります。ですから、ダイバーシティ戦略が重要視されるのです。
そして、いつの頃からか、単にダイバーシティではなく、「ダイバーシティ&インクルージョン」が重要だと言われるようになりました。ダイバーシティというのは、あくまでも多様な人々がそこにいる状態を指す言葉です。これはその気になれば力技で実現させることが可能です。それに対して、ダイバーシティ&インクルージョンは、そういった多様な存在の一人ひとりがしっかりと組織の中に溶け込み、おのおのが個性を発揮して大切な役割を担い、その結果として全体が形づくられている状態を意味します。一人ひとりの多様な個が、いきいきとやりがいをもって働いて、それが全体の成果につながっていくことが大切なのです。
多様な魅力に満ちあふれる酒場「ネッスンドルマ」。中でも、多様性な存在そのものともいえる独特極まりないひよこ店長とペアで、この酒場を長年営んでいる女将は、多様性社会における優秀なマネージャーだともいえそうです。訪れる人が、多様な特性のどこに魅力を感じるのかは自由。その人にとっての「ネッスンドルマ」があるのです。私は、そういった多様な魅力に満ち満ちた「ネッスンドルマ」という酒場全体にとても惹かれるのです。
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 執行役員 管理本部 副本部長 兼 人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会副会長。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。