“九×九”の小宇宙に魅せられて
壁を突破し、自己を変革し続けるトップ棋士の勝負哲学とは(後編)[前編を読む]
将棋棋士
森内俊之さん
森内俊之さんの歩んできた将棋道の前方には、小学生以来の知己である稀代の天才棋士、羽生善治さんの背中が常にありました。オールマイティーの強さを誇る羽生さんを始め、トップ棋士らとの切磋琢磨(せっさたくま)を通じて、たえず自らの将棋を進化させてきた森内さん。次々と現れる壁を乗り越え、果てしない自己変革の先にたどりついたのは、「勝ちは運、負けは実力」「タイトルはたまたま預かっているだけ」という透徹した勝負観でした。
もりうち・としゆき●1970年、東京都調布市生まれ。小学六年生で勝浦修九段に師事し、82年奨励会入り。同期に羽生善治、佐藤康光、郷田真隆などがいる。87年、四段に昇段を果たしプロ棋士に。02年に初タイトルとなる名人位を獲得、07年には名人位の通算獲得数が5期となり、十八世永世名人の資格を得る。現在、竜王のタイトルを保持(2014年10月現在)。著書に『覆す力』(小学館新書)などがある。
強い相手と勝負して初めて自分の将棋が見えてきた
企業も個人も激しい競争を生き抜き、成長し続けるためには、過去の自分を覆す自己変革が欠かせません。ご著書『覆す力』では、「自分の特性に気づき、適切な努力をすることこそが、これまでの自分を変えるための最良の方法」とおっしゃっています。
私の場合、自分の棋士としての特徴や長所・短所を本当の意味で理解し始めたのは二十代半ば、トップ10と呼ばれるA級に昇格した頃だったと思います。A級リーグは、名人位への挑戦権をかけた戦いの場。当然、自分よりも棋力の勝る棋士との対局が増えてきます。それまでの対局では経験したことのない厳しい局面に次々と遭遇し、その結果、自分でも気づいていなかった弱点があらわになってきました。強い人の本当の強さは、練習ではなかなか分からないんです。実際の対局でないと出てこない強さが、本当の強さなのかもしれません。特にA級棋士の先輩ともなると経験豊富で、将棋の懐も段違いに広く、深い。簡単な勝負など一つもありませんでしたが、そういう厳しい思いをするたびに、自分なりの将棋が少しずつ見えてくる感覚がありました。
ご自分を、どういうタイプの棋士だと自己分析されていますか。
昔からそうなのですが、瞬発力はあまりないタイプなんです。羽生さんの「羽生マジック」や谷川浩司さんの「光速の寄せ」のような、華麗な決め技も持ちあわせていません。難解な局面を鮮やかに打開したり、終盤で一気に勝負を決めたりする芸当ができないものですから、そういう展開になると他のトップ棋士よりも劣る、という傾向は意識しながらやってきました。一方で、長く考え続けることはまったく苦にならないんです。考え続ける根気だけは、人よりもあるのではないでしょうか。見ている方は面白くないのかもしれませんが、じっくり指すのが私の最も得意な将棋ですね。
森内さんの将棋はよく「受けが強い」と評されます。
裏を返すと、攻めるのが下手、先制攻撃が苦手ということでしょう。日常生活にも言えるのですが、自分のほうから働きかけて、物事を動かしていくのがそれほど得意ではないんです。将棋では、自分から攻めようと思ったら、必ず駒を損します。相手に自分の駒をとらせて、手を作っていかなければいけません。それがあまり得意ではないので、まず受けに回って、相手に少し攻めさせる。攻めてもらうと、相手の駒が減り、こちらは増える。戦力を増やした上で有利な攻め合いを目指すというのが、私の得意パターンの一つです。
そうした得手、不得手を自覚した上で、どんなふうに自分の将棋を変えていったのでしょうか。
若い頃はどうしても完璧主義になりがちで、強いところはそのまま出したいし、弱いところも完全に克服して、あらゆる局面に強くなりたい、あらゆる将棋に勝ちたいという欲がありました。もちろん、それで伸びてきた部分もあるのですが、やはり苦手なものを得意にまで高めることは至難ですし、かといってトップ棋士と戦うときに、苦手を避けてばかりいては到底勝負になりません。状況に応じて、得手も不得手も使わなければ勝てないのが将棋ですから、弱い部分についてはある程度通用するレベルまで引き上げ、得意な部分はさらに伸ばして他の棋士との差を広げていけばいい。A級の強者たちと切磋琢磨(せっさたくま)するうちに、そうしたメリハリのつけ方が意識的にできるようになりました。普段の勉強や対局前の準備では、どういう割合で力を注げば結果につながるのかということも加味しながら取り組んでいます。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。