酒場学習論【第45回】
酒場での学びと断食道場での学び
株式会社Jストリーム 管理本部副本部長 兼 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
この原稿の執筆時点ですが、1週間の断食道場に来ています。
私は勝手に断食道場と呼んでいますが、まったくハードなことはなく、身体と心を休ませながら断食ができます。道場というのは少しあわないかもしれません。1週間の断食といっても、完全断食は最初の3日だけで、あとは少しずつ回復食をいただきます。日中はヨガや瞑想などのアクティビティも用意されています。
この原稿は、前半は屋上にある瞑想室で、後半は近くの漁港の防波堤で、スマートフォンを使って書きました。なぜいきなり断食のことを書き始めるのかと疑念を抱く方も少なくないでしょう。断食道場の説明を続ける前に、その理由をご説明します。
断食道場と酒場にはあまりにも共通項が多く、そのことを多くの方に知って欲しいと思ったからです。ここでいう酒場は、一人飲みに適した酒場です。酒場を楽しむかのように、断食道場を楽しむことができます。酒場での学びと同じような学びが、断食道場にはあるのです。このことを理解していただくために、断食道場についてもう少し詳しく説明していきましょう。
私がいつもお邪魔しているのは、伊豆高原にある「やすらぎの里養生館」です。初めてここを訪れたのは、2019年の2月でした。その後のキャリアを真面目に考える時間を取りたいというのが直接の動機でしたが、もとから興味があったのと、体重を落としたいという健康的な理由もありました。
勝手がわからない場所に一人で来たわけです。最初はおずおずと行動します。でも、スタッフの方が温かく説明してくれたり、常連の方がいろいろと教えてくれたりしたことで、徐々に慣れていったのを思い出します。ここはリピーターがとても多く、いつも常連と新規客が良いあんばいで滞在します。今回もそうでした。私は今回が8回目の訪問で、まずまず常連のように振る舞えるようになりました。今回の同宿者には、3ヵ月に1度来ているというツワモノもいらっしゃいました。
このあたりの感覚が、まさに一人飲みで訪れる酒場と同じなのです。初めて訪れる酒場で、勇気を出して引き戸を開けます。どこに座ればいいのか、オーダーはどうすればいいのか、さまざまな不安が脳裏をよぎります。でも30分後には、お店の方やお隣の常連さんと会話が弾んでいることも少なくありません。しっかりと酒場に組織社会化しているわけです。そして何度か訪問するごとに、酒場へさらになじんでいきます。しかし、どこの酒場にも、どれだけ通っても勝てないツワモノの常連がいます。
断食道場も酒場も、一定期間だけ構成される小さな社会なのです。毎回、その組み合わせは異なり、酒を呑む、断食をするという共通の目的を持った一期一会の組み合わせのメンバーがそこにいます。
断食道場には、ほとんどの人が一人で来ます。最初の晩に簡単な自己紹介をするので、どこに住んでいて、何を主目的に来たのかはわかるのですが、仕事や家族構成などの詳しいことを知らずに一緒に1週間を過ごします。相手も私のことを知りません。この匿名性がまた心地よいのです。
これは酒場でも同じです。しばしば同じ酒場で出会う人であっても、日中は何をしている人なのかわかりません。誰もが社会的な鎧なしで過ごせます。もちろん仲良くなって素性を語たりあったり、連絡先を交換したりするのは自由です。一人でしっぽりと呑むことも、隣のお客さまと語り合うことも、酒場ではどちらの楽しみ方もできます。断食道場も同じです。誰もが過度な干渉はせず、しかし、したければ同宿者と打ち解けて語り合う。そんな自由があるのです。その時の気持ちで行動できるのです。
そして、何といっても最大の共通点は、心と脳を癒せることでしょう。私たちの日々はマルチタスクにまみれ、脳は疲弊し切っています。酒場で過ごす時間はこれを癒してくれます。美味い酒を自分のペースで呑み、気に入った肴をただ食べていればよいのです。まさに「酒場浴」です。酒場の空気に浸ることにより、マインドフルネスの「いまここ」の境地が味わえます。マインドフルネスは人事の世界でも注目が続いている概念です。そして、これとまったく同じことが断食道場でもおきるのです。
私は断食に来ても、数日はテレワークをしています。今回もそうでした。それでも自宅でテレワークをしている時や、通勤して働いている時と比較すると、あふれる時間とやすらげる空間があります。テレワークは恨むべき対象ではなく、テレワークの拡大が1週間の断食のハードルを大きく下げてくれています。今回も半数くらいの方は、ワーケーションだったのではないでしょうか。施設側もそんなニーズに対応し、テレワークに適した客室をいくつも用意しています。設置された大型モニターにつなげば、快適に仕事ができます。
断食をして、脳を休め、心を休め、身体を浄化して、都会に帰ります。そして、少し軽くなった身体で、また好きな酒場に足を運ぶのです。私たちビジネスパーソンは、そんな自分たちなりのやすらぎの場を持つ必要があるのではないでしょうか。
- 田中 潤
- 株式会社Jストリーム 管理本部副本部長 兼 人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、キャリアカウンセリング協会gcdfトレーナー、キャリアデザイン学会副会長。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。