企業は「福利厚生」から撤退してはいけない
社団法人 企業福祉・共済総合研究所 理事(調査研究担当)
西久保 浩二さん
これまで日本の企業は従業員に対して、社宅や保養施設、団体保険、社会保険料の一部負担など、種々の「福利厚生」を施してきました。それがバブル崩壊後の経済停滞を境に、質量ともに縮小されていくケースが増えています。企業が福利厚生のためのコストを見直しているからですが、最近では「企業はもう福利厚生から撤退すべきだ」とか「企業福祉の役割は終わった」などという声も聞こえてきます。でも振り返ってみれば、日本企業は業界横並びで、各社同じような福利厚生制度をあれこれと導入してきた面もあるはずです。今また横並びで「撤退」の方向へ傾いているように見えなくもありません。日本の企業福祉研究の第一人者、西久保浩二さんが「企業の人材を活性化させるためにも、福利厚生を有効な投資と見なして戦略的な対応を行うことが大事だ」と提言します。
にしくぼ・こうじ●1958年大阪府生まれ。神戸大学経済学部卒業。筑波大学大学院経営政策科学研究科企業科学専攻博士課程単位取得。明治生命保険相互会社などを経て、財団法人生命保険文化センター(生命保険協会出向)。現在、東京都立短期大学・成城大学非常勤講師、社団法人企業福祉・共済総合研究所理事。企業福祉厚生や社会保障問題に関する専門家で、ライフプランづくりなどを指導する。『戦略的福利厚生』『日本型福利厚生の再構築』(ともに社会経済生産性本部生産性労働者情報センター)『変化する企業福祉システム』(共著、第一書林)など著書多数。
福利厚生を単なる「コスト」と考えるから「終焉論」も出てくる
これまで日本の企業は社員に対し、厚生年金や健康保険に代表される法定の福利厚生のほかに、社宅・保養施設や団体保険などの法定外の福利厚生も与えてきました。しかし今、その法定外福利の役割はもう終わったとか、企業は福利厚生から撤退すべきだという「企業福祉の終焉論」の声が出ています。
1990年代後半から、多くの日本企業はそれまでの経営モデルの変革を迫られました。その中で福利厚生制度も大きな曲がり角を迎えることになったんですね。
かつて日本企業は、社員を手厚く処遇する法定外の福利厚生制度を導入することで、社員の長期の定着を図り、ロイヤリティを高める施策をとっていました。社宅を充実させたり、保養施設を設けたり、いわゆる「ハコモノ」の展開が代表的でしたが、バブル崩壊後の長期の不況や経営環境の悪化にともなって、こうした福利厚生のコストに対してそのパフォーマンス(効果)が低下している、とか、経営側と社員側のニーズがうまくマッチしていなくて有効性が低下しているなどと見なされるようになってきました。多くの企業で法定外福利は整理・縮小の方向へ向かいました。「企業福祉の終焉論」の始まりはそこにあると思いますね。
社会保険料負担など、国が求めている法定福利厚生費も企業の財政を圧迫していると言われます。
そうですね。いま経営者と人事・労務の担当者が、法定負担の分野で大きな悩みを抱えている状況は私も十分に理解しています。でも、だからといって「法定も法定外も福利厚生なんて不要だ」という区別のない不要論、終焉論は少し乱暴かな、というのが私の主張です。むしろ、こんな時代だからこそ企業の中において福利厚生制度だけが果たせる役割、有効性があるのではないかと思います。
「企業にとって、社員にとって、何のための福利厚生制度なのか」という原点に帰ることが大事だと思うんですね。それぞれの立場でいろいろな答えがあるでしょうが、ここでは企業経営からの福利厚生の効用について冷静に考えてみてほしい。今の時代にふさわしい、企業全体の生産性、従業員の創造性の向上とそれらの結果としての市場での競争優位に結びつく新しい福利厚生制度をデザインできないか。企業が自社の戦略目標を達成するためのマネジメントの中に、改めて福利厚生を「投資」として位置づけてみると、おもしろい可能性が見えてくるはずです。福利厚生を「投資」と考えないで、単なる「サンクコスト(埋没費用)」としてみなしてしまうから、軽視することになるんだと思います。
賃金にはない特性が企業のヒューマンリソースにいい影響を与える
「企業福祉の終焉論」に絡んでよく出てくる議論が「福利厚生は賃金で代替すればいいのではないか」ということです。福利厚生にお金を使うぐらいなら、そのぶんを賃金アップや雇用の確保に使うほうがいい、そのほうが従業員のモチベーションは上がるのではないかというのですが。
企業の戦略実現のためのマネジメント施策のひとつと考えたとき、福利厚生というのは賃金に決して代替できない特徴を数多く持っていると私は思います。もちろん賃金は重要な問題です。しかし福利厚生制度をうまく構築して、運用していけば、賃金アップよりもはるかに低いコストで大きなヒューマンリソース(人的資本)に対する刺激効果が生まれます。
福利厚生が賃金と異なる最大の特徴は、その「現物給付性」であり「使途限定性」です。賃金というのは「現金給付」ですから、それを受け取った従業員は消費に回したり貯蓄に充てたり、自由に使うことができる。でも、福利厚生はその使い方が限定されますよね。だから使いづらいものであると言われることがありまずが、逆に、そういった福利厚生の特性を生かして、企業は従業員に対して期待感を表現したり、メッセージを伝えたりすることもできるんですね。従業員は、賃金という現金給付ではなかなか手に入れられない利便性や満足感を、福利厚生制度で得ることができるようになる。
具体的には、どういうケースがあるのでしょうか。
典型的なケースで言うと社内託児所があります。子供を持っている女性従業員にとって、この現物給付の意義は大きいでしょう。賃金に多少の育児手当を上乗せしてもらうよりも、職場に子供を預けられる環境があるほうが働きやすいことは間違いない。一般の民間託児所を利用しようと思ったら、高いお金がかかるし、無駄な移動時間だってかかるでしょう。社内託児所の福利厚生制度というのは、賃金が増えることとは代替できないほどの有効性があるし、それによってもし、女性従業員のパフォーマンスが上がれば、企業全体の生産性の上昇効果も期待できるでしょう。何より「女性を大切にする会社」というメッセージが社内外に伝わることにもなります。
また、ゲームソフト会社のクリエーターたちは締め切り間近には24時間体制で働いているケースが多いですが、彼らにとっても仮眠室とかシャワー室、24時間稼動の社員食堂などの現物給付の福利厚生の意義は大きいと思います。クリエーターの中には高い賃金をもらっている人もいます。でも仮眠室とシャワーと、夜中でも利用できる従業員食堂が職場にないと仕事にならないわけです。あるいは、自社ビル内にフィットネスクラブを設けて、その利用料に対して補助をしている企業のケースでは、そこで従業員どうしの一体感が生まれたり、従業員の生活行動全体が健康志向に変化したりという効果も現れます。そうした福利厚生制度では「誘導性」という賃金にはない特性があって、その特性が企業のヒューマンリソースに対して効率のよい影響力を与える可能性も大きいのです。
「この会社は賃金が高いから」という理由ではなく、「あの会社は自分の望むユニークな福利厚生制度があるから入社・転職したい」という人も出てくるかもしれませんね。
そうですね。福利厚生制度の充実は、いま社内にいる従業員へ満足を与える効果だけでなく、労働市場にいる優秀な人材を自社に誘引する効果も持つと思います。
これからの時代、ハイパフォーマーを獲得して、伸び伸びと実力を発揮してもらう人材マネジメントが企業の競争優位のカギを握ると言われています。とはいえ、賃金だけでそうした人材を引き付け、貢献を最大化するには限界がある。そこでうまく福利厚生をミックスさせ、味付けをすることが、自社に必要な人材の確保、定着、活性化の武器になるわけです。
スタッフの誕生パーティーで職場の士気を上げる外資系企業
外資系企業の福利厚生制度は今、どんな状況でしょうか。
面白いことに、日本企業が福利厚生を切り捨ててきたこの約10年の間に、逆に外資系企業が福利厚生的な機能をうまく制度化してきたんですね。たとえばある外資系のショップでは、スタッフの誕生日にはちょっとしたプレゼントをあげ、みんなで祝福する場をもっています。それだけで職場全体のモチベーションが高まる効果があるからです。しかも、きわめて低いコストでそれができる。こういう福利厚生的な制度は、かつての日本企業がずいぶんとやっていたことですよね。今では放棄しているわけですが、それを外資が積極的に取り入れているのです。
最近の調査で、従業員は「会社が自分のことをしっかり見ていて(認知:リコグニッション)、何かをしてくれた」という経験をすると、その後、仕事で恩返しをしようとする心理的反応があることがわかってきました。結局、従業員が好きになれる会社、愛される会社、つまり感情的コミットメントを得ることができる組織が業績を伸ばしていくのです。
非正規雇用の従業員が実質的に現場を支えている企業などでは、彼ら・彼女たちの意欲をどう高めて、維持していくかが死活問題となっているところもあります。
これまでの福利厚生というと、大企業の正規雇用従業員のものというイメージがありますが、それは改めなければなりません。活躍する非正規雇用の従業員たちにも効果的な福利厚生を提供することで人材の流出を防いで、他社との競争から一歩抜け出た企業もあります。
あるスーパーでは、同じ職場のパートの女性どうしで子育ての悩みをネットで共有する仕組みがつくられています。これなどは福利厚生制度の中でも従業員の相互扶助に近いと思いますが、利用者からの評価がとても高い。企業はちょっとした仕掛けで従業員を効果的に支援し、そのモチベーションやコミットメントを高めることができるわけです。
「他社並み」ではなく「わが社にしかない」福利厚生を
企業はその人材戦略を考えるうえで、福利厚生を用いて効果的なアプローチができる、ということですね。
ええ。「この福利厚生制度はうちの会社にしかありません」「あなた(従業員)を大切にしたい」というメッセージを従業員に送ることの効果は小さいものではありません。冒頭の話に戻りますが、今の時代、福利厚生に「余計な」コストをかけられないのは、どこの企業も同じでしょう。こんな時代になる前の日本企業はどこも、その業界内の「上位他社並み」の福利厚生制度にしようとしきたんですね。その結果、大手企業の福利厚生は似たり寄ったりのものになって しまいました。
しかし今は「他社並み」の福利厚生を追求することに大きな意味はないかもしれません。あれもこれもと欲張った福利厚生制度をつくろうとするのではなく、一点豪華主義ではありませんが、「わが社の福利厚生はこの点に関してだけはどこにも負けない」という差別化をはかることがむしろ大事だと思います。福利厚生にも「選択」と「集中」という視点が必要になってきます。
その基準はどこに置いたらいいでしょうか。
福利厚生の選択と集中の基準としては、自社の従業員特性、ビジネス特性、そしてそれらを統合する戦略の特性を考えるとよいと思います。
一つ例をあげましょう。全米最大手のホームセンター企業は、その個性的で戦略的な福利厚生制度の展開で知られています。その企業では、店頭の従業員が普段から顧客のために重い荷物を運ぶなど、肉体的負荷のかかる労働をしています。とはいえ彼らを誰とでも取り替えのきく従業員と見なせるかというとそんなことはなく、お客さんに対する細かなアドバイスなど、彼らにしかできないサービスも少なくない。そうした店舗従業員の顧客に対する笑顔の接客サービスこそが、企業の競争力を支えるために重要な役割を果たしているのです。企業としての「顧客へのサービス品質(Excellent Customer Service)」を企業戦略のひとつとして取り上げています。
そこでこのホームセンター企業では、従業員の「健康づくり」「肉体的負荷のケア」に対して福利厚生の選択と集中を行い、制度全体の設計と運用を行いました。結果、従業員の満足度は高まり、定着率が向上することで来店する顧客に対する高いサービス品質が実現されたのです。この企業は他社に対して圧倒的な強みを持つことに成功したのです。
どこに企業の競争優位の源泉を求めるかという戦略から、どんな従業員の、どんな側面を福利厚生でサポートしていくのかを考えるということですね。
そうです。企業にとって重要な戦略を成功させるために最も効果的な福利厚生は何か。その視点から選択と集中をしていくことです。
最近では、福利厚生をアウトソーシングし、カフェテリアのように従業員が自由にメニューを選択できるようにしている企業も増えています。福利厚生をアウトソースすること自体に問題はありませんし、有効に活用すべきですが、そんな場合も、他社とは異なる「わが社にしかない」カスタマイズメニューをつくるべきです。企業の「顔の見える福利厚生」です。
繰り返しますが、もはや「横並び」の時代でなく、選択と集中や差別化など、福利厚生には創意工夫の努力が求められているのです。戦略的な福利厚生を成功させるためには、労使が協力して、活発な議論をすることが必要でしょうね。
(取材・構成=松田尚之、写真=中岡秀人)
取材は6月24日、東京・港区の企業福祉・共済総合研究所にて
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。