田中潤の「酒場学習論」【第37回】
テレワークの普及とワーケーション、住むように呑む
株式会社Jストリーム 執行役員 管理本部 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
今回は特定の酒場ではなく、私がこの春に意識的に取り組んだ「住むように呑む」を紹介させてください。
新型コロナウイルス感染症は、多くの人の人生にさまざまな影響を与えました。過去に経験したことがない事態に直面し、困惑しつつも誰もが自分の仕事と生活を必死に守ってきました。そんなつらく厳しい数年間を私たちに強いた新型コロナウイルス感染症ですが、プラスの置き土産の一つにテレワークの普及があります。
テレワークへの取り組みは、コロナ禍以前から始まっていましたが、広く普及するには至りませんでした。顔を合わせて話すことに重きを置く商習慣、根強く残るハンコ承認文化、あうんの呼吸や背中をみせて育てる日本的なコミュニケーション様式などが、その普及を拒んできました。
しかし、新型コロナウイルス感染症の嵐が、岩盤のように思えた習慣を破壊しました。DXブームも後押ししました。自宅からオンライン会議に入るのが当たり前になるとともに、情報共有だけの不毛な会議は淘汰され、会議資料の事前配布が習慣化されるといった会議改革も進みました。ハンコ承認文化も、ささやかなDX投資さえすれば一掃できることに多くの経営者が気づきました。
難しかったのは、あうんの呼吸や背中をみせて育てるコミュニケーションです。さまざまな工夫によって、これらの課題をかなり克服してきた企業と、真正面からの取り組みを怠った企業に二分されたといっていいでしょう。後者の企業では、今、出社回帰の強い流れが起こっています。
しかし、日本社会が一度手に入れたテレワークを完全に手放すことはないでしょう。テレワークが生んだ恩恵はいくつもあります。一つは中央と地方の機会の格差是正です。以前であれば、魅力的なイベントやセミナーは大都市でしか開催されず、地方の人は大変な苦労をして参加していました。
これに対して、オンラインでは地域による有利・不利が存在しません。雇用もそうです。会社事業場がない街に居住する社員を雇用し、活躍してもらえる時代になりました。本社を持たないという選択肢も生まれました。
大きな恩恵は、移動時間の消失です。通勤に片道1時間かけていた人であれば、1年間で「2時間×20日×12ヵ月」の時間が生まれました。年間約500時間です。仕事を終えてすぐに家族と食卓を囲むこともできるようになりました。
親が心配であれば、しばらく実家に戻って仕事をするという選択肢もできました。里帰り出産する妻に帯同して、妻の実家で働くという選択肢も生まれました。画一的な働き方ではなく、私たちの意思と工夫次第で多様な働き方の選択肢が生まれたのです。
そんな中で脚光を浴びてきた新たな概念に「ワーケーション」があります。
ワーケーションとは、観光庁によれば「Work(仕事)とVacation(休暇)を組み合わせた造語。テレワークなどを活用し、普段の職場や自宅とは異なる場所で仕事をしつつ、自分の時間も過ごすこと」と定義されている。
【出典】多様な働き方の一つとしてのワーケーション:第一生命研究所多くの地方自治体がワーケーションに着目し、ビジネスパーソンを誘致する仕組みを提供しています。単に場所を変えて働くだけでなく、地方の人たちとの結びつきを大切にするような取り組みも増えています。いずれにしても、Vacation(休暇)の概念がある以上、「日常を離れて」といった取り組みが前提となってしまいます。
この分野の専門家である、関西大学の松下慶太先生は「ワーケーションは無くならないけど、それがあまり可視化されなくなることが一番の普及かなと思います」と語っています(※)。可視化されなくなるとは、日常に溶け込むということです。
そこで、酒場好きの私としては、ワーケーションの新しいかたちとして、「住むように呑む」を提唱しています。まさにイベント感のないワーケーションです。
仕事は通常通りに行います。仕事相手に、いる場所を伝える必要もありません。日常と同じような生活をするのです。初めて意識して「住むように呑む」をやったのは、4月下旬に生まれて初めて行った高知市での5日間です。夕方まで働いて、仕事が終わったら近所の呑み屋に呑みに行くという、普段でもやっているスタイルの生活を知らない街でやるのです。地方の有名酒場を下調べして訪ねるのではなく、通りすがりの気になった酒場に入ります。そんな「住むように呑む」の定義は下記の通りです。
- 一つの街に4日以上いること。決して宿泊地を変えないこと。
- 昼間はちゃんと普通に働くこと。ただ、残業は極力せずに夕暮れ時から呑むこと。時にフレックスも上手に使うこと。
- 可能な限り、はしご酒をすること。そして、可能な限り、事前調査はせずに街を歩いて気になった酒場に入ること。また、足を踏み入れた酒場の主や、酒場で知り合った方から別の酒場を教えてもらい、そこにも訪問すること。
- 観光はしないこと。
高知市の時は、26軒の酒場に足を運びました。市内のど真ん中に4泊しましたが、桂浜も高知城も行っていません。初カツオのシーズンでしたが、カツオは3日目に一度食べただけです。高知でカツオを食べるとどうも観光している気になってしまうので、無意識に避けていたようです。
高知の人の多くは、いい意味で人に入ってくる力があるので、いやでも地元の方と交流します。日常と変わらず仕事に励みながらも、だんだんその街に溶け込んでいく自分がいます。
「住むように呑む」をわざわざやるのはなかなかハードルが高いので、実現させるもう一つの新しい概念が「早過ぎる前乗り」です。前乗りというのは、出張先などへ前日に入ることをいいますが、前日ではなく、2日も3日も早く入るのです。そして、当日まで現地でテレワークを普通にします。
6月に静岡で開催した経営学習研究所主催の「【Workation Day 2023】ワーケーションについて考える日! in静岡!」というイベントの際も、2日前に静岡入りする「早過ぎる前乗り」を実行しました。そして、イベント前日には本当の前乗りで入ってきた仲間たちや共催の地元の皆さんと呑みます。
今回は、テレワークの普及とワーケーション、そして新たなワーケーションの概念「住むように呑む」の話を書きましたが、この文脈で大切なのは「多様な働き方の選択肢」です。ほかの会社が考えもしないような新規のアイデアを生まないと、ビジネスには勝てません。多様な人材が対話を重ねながら働き合うような環境と仕組みが重要です。
テレワークはその実現可能性を持つ、爆発的なツールです。もちろん出社して顔をつきあわせる良さもあります。どちらかに偏重するのではなく、しなやかに使い分ける選択ができることが大切なのです。会社が何かを強制するのではなく、社員の一人ひとりが自律的に自分の働き方を考えることができる時代がようやくやってきたのです。
- 【出典】
- 「ホットワークとワーケーション」松下慶太
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 執行役員管理本部人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会副会長。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。