田中潤の「酒場学習論」【第25回】
酒場での二つのタイプの学びと「酒場浴」
株式会社Jストリーム 執行役員 管理本部 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
緊急事態宣言が明け、限定的ではありますが、酒場に活気が戻ってきました。休業したり、酒類を提供できなかったりした長い期間、さまざまな思いを胸に日々を過ごしていた酒場の大将や女将。今、自分が選んだ好きな仕事をする自由を取り戻しつつあります。少しずつ戻り始めた日常のありがたさを感じながら、私たちもそろりそろりと酒場に足を運びます。
本連載では酒場での学びをとりあげてきました。酒場での学びには、大きく分けて二つのタイプがあります。連載を始めるにあたり、リード文に「古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか」と書きました。このリード文は二つのタイプの代表的な学びシーンを取り上げたものです。
一つ目のタイプは、仲間とともに過ごす学びです。私たちは誰かと連れ立って酒場を訪れます。会社帰りに上司、先輩、同僚、同期らと酒場で語り合うのは、代表的な酒場の楽しみ方の一つです。酒場とアルコールが媒介になって、職場とは違った空気感が生まれ、職場ではできなかった対話、そして学びが得られます。大勢での飲み会、二人きりでの差し飲み、それぞれの魅力と学びがあります。
職場を離れて外に出る学びを「越境学習」といいます。外部のセミナーやワークショップに参加した後、たまたま席が近かった方や同じグループになった方と酒場に立ち寄って盃を交わしたり、駅への帰り道で一緒になってそのまま酒場ののれんをくぐったりすることもあります。あらためて深く話してみると、同じ時間を過ごしたのに自分とは異なる視点でとらえている相手の言葉にはっとします。そんな対話によって、参加したワークショップの学びはより濃厚になります。そしてネットワークも拡大していきます。アルコールの勢いも背中を押して、やや無責任にさまざまな企画が酒場で生まれます。冷静に振り返ってみると、世の中の企画の多くは、酒場生まれではないでしょうか。
こういった学びの主体は、あくまでも仲間です。そして、酒場がその学びを媒介し促進します。オンラインでもさまざまな交流はできるのですが、欠けるのは偶発性とか、成行き性、勢いといったものでしょうか。計画されていないところに学びは意外と存在するものなのです。けれども、こういったタイプの酒場の学びは、残念ですがまだしばらくは自重した方がよさそうです。
しかし、悲嘆にくれる必要はありません。酒場にはもう一つのタイプの学びがあります。それは、酒場という「場」自体からの学びです。ここでは仲間は不要。酒場のカウンターに一人、身を置くことによって得られる学びです。このような呑み方を「酒場浴」と私はいっています。
森林浴のように酒場の空気に浸ることにより、いろいろなことを私たちは得ます。森や林で樹木に接することで心身への癒しを求めることが「森林浴」とブランディングされ、林野庁もこれを後押しています。森林に立ち入ると独特の香りを感じますが、これは「フィトンチッド」と呼ばれる樹木の幹や葉から発散される菌を殺す成分の香りなのだそうです。「フィトンチッド」は樹木が自分たち自身を守るために発散するものですが、この香りが人にリラックス効果を及ぼすのです。
酒場が「フィトンチッド」のような何かを発散しているわけではありませんが、酒場という場が森林浴に近い効果を私たちに及ぼします。客と大将とのやりとりをBGMに一人で盃やグラスを傾けるとき、「今ここ」を大切にするマインドフルネス的な感覚に私たちは自然と入り込むことができます。昼間のビジネスアワーで複数の仕事を瞬時に切り替えながら対応してきた自分の脳に休息を与える時間でもあります。脳を休めていると、昼間のいろいろなことが順番に浮かんできます。「なんであんなこと言っちゃったんだろうな」とか、「もっとあそこは工夫を凝らしたかったところだな」などと、さまざまな思いが去就します。リフレクションの時間です。
20代の若手社員の頃、接待を日常的に伴う営業活動をしていました。いつの頃からか、接待後に一人でもう一杯やって帰るという習慣がつき始めました。まだ、リフレクションという言葉も知らない頃です。たぶん、それが必要だったのです。ただ、本当に酒場の学びを実感し始めたのは、燗酒を好み始めた頃からでした。私にとっては、燗をつけた日本酒とそれにあうアテが最高の「酒場浴」を演出してくれるのだと思います。
人それぞれに合った酒場浴のスタイルがあります。素晴らしい酒場で、ただひたすら酒と酒肴に対峙しているとき、喧噪すらも素敵なBGMとなり、酒場の空気感に体全体が包まれます。「今ここ」に身を置き、その状態を受け入れる。まさにマインドフルネス的世界です。この状態がリフレクションを促進させます。
今回は一つの酒場を取り上げるのではなく、酒場浴的な酒場の学びについてお伝えしました。こんな酒場浴的学びを実践してみませんか。酒場の皆さんはお客さまを待っています。しかし、大勢でのワイワイガヤガヤ的な楽しみ方はまだ求められていません。私たち一人ひとりが酒場浴的学びを静かに実践することが、酒場の皆さんをささやかに支援すること、元気にすることにもつながります。そして、ちょっと疲れた私たちの心と脳を癒すことにもつながります。酒場浴は、いいこと尽くしの行動なのです。
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 執行役員管理本部人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会代議員。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。