田中潤の「酒場学習論」
【第17回】荻窪「煮こみや まる。」と古くて新しい世界
株式会社Jストリーム 管理本部 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
夏の日の夕暮れに、荻窪の「煮こみや まる。」のコの字カウンターで燗酒をやるのは、まさに至福のときです。大きな窓が開け放たれ、夕暮れと一体化した店内でなごむ。早い時間には女将の子供たちが店にいて、親類の家に来たような気分が味わえる。そんな素晴らしい酒場です。
この連載のきっかけとなった、赤羽の名酒場「まるますや」で開催した経営学習研究所のイベント「酒場学習論~古今東西、人は酒場に育てられてきた」。こちらに女将が参加者として来場してくださったのをきっかけに、時折お店にお邪魔するようになりました。当時は独身だった女将も、隣の酒場「鳥七」の主人と結婚し、いまや3人の男の子を育てる母親です。出産のときも最低限の日数しか店を閉めず、元気に復帰する。そんな姿をみていると、何か不思議に元気をいただいているような気がします。
酒場の女将には育児休業がありませんし、休んでいても家賃などの固定費は出ていくばかり。常連のお客さんも散り散りになりかねない、でもそんな事情など関係なく、何よりもこの場所にとにかく早く戻りたいという思いが強いのかなと勝手に想像しています。
赤羽でのイベントの帰りに、女将がブログにこう書いていました。『いい酒場ってなんなんだろうなぁって考えながら、今日ふと思ったこと。「ほどよい許し、ほどよい縛り、その心地よさ」』。
オープンして8年を迎える今、まさにその言葉を体現するような酒場に育っています。酒場というのは、単なる物理的な空間ではありません。自分にとって唯一無二の大切な酒場で人は育てられ、酒場も人に育てられます。この相互関係が、本当に良い酒場をつくるのだと思います。
さらには、酒場と街との間にも相互関係があります。街が酒場を育て、酒場も街をつくる。街、酒場、人、この三者の有機的な交わりが、私たちがわざわざ足を運びたくなる魅力をつくるのです。
話はがらりと変わります。アメリカでキャリアという概念が生まれたのは、20世紀初頭だそうです。イギリスで起こった産業革命が大西洋を渡り、アメリカにも工業化の波が訪れました。新たな産業は、大量の労働力を求めます。当時の労働力の供給源は主に二つでした。一つは、ヨーロッパからの移民。そしてもう一つは、全米から集まる農家の次男、三男。1900年からの10年間に820万人もの移民が渡米したといわれますが、1900年当時のアメリカの人口が7000万人強ですから、いかに爆発的な人口移動だったのかがわかります。
次々とできる新たな工場で働き場を得た移民の多くは、慣れない職場での仕事を長くは続けられず、定職につくまで6回は仕事を変えるのが当たり前だったそうです。これを単なるスキル不足の問題と考えずに、適性の問題ではないかと考える動きが「職業指導運動」に結びつきます。1908年にボストン職業相談所を立ち上げたパーソンズは、「丸い穴には丸い釘を」という言葉を残しています。いまだに職業紹介の基本手法として使われている、マッチングの概念が生まれた瞬間です。
産業革命以前には、職業選択という概念はありませんでした。パン職人の子供はパン職人、農民の子供は農民になるのが当たり前だったのです。子供は働く親の背中を見て、親を職業上のロールモデルとして育ちました。しかし、工業化社会は都市への人口集中を求めます。農家の次男、三男は、生まれた街を出て、工場の集積する都市へと移り住みます。そして、今まで見聞きしたこともない仕事につきました。
工業化はさらに、「通勤」という概念を生みました。自宅の近くの畑、自宅兼用の商店で働くのではなく、自宅から職場までを日々往復をする時代の到来です。今では当たり前のことが、この地球上で行われるようになったのは、わずかに100数十年前なのです。
「煮込みや まる。」は、素晴らしい「コの字酒場」であり、「女将酒場」であり、「燗酒酒場」です。そして、実は「子育て職場」でもあります。3人の子供たちが自然になじんでいる酒場。店を営業しながら3人の小さな男の子を育てるのは、並大抵ではない努力が必要でしょう。小さい頃から酒場内での生活を経験し、親の働く姿を見続けている子供たち。それを微笑ましく見守りながら、盃を傾け続けている大人たち。職場と住居の分離を強制した工業化以前の世界を、私たちは体感できます。
テレワークが進んだ職場でも、これに近いことが起こっています。出勤の概念は消えました。会議中に子供やペットが画面を横切ることもあります。パソコンの前に座る親の姿を働いていると認識するのは、ある程度の年齢になることが必要かもしれませんが、産業革命前の職場と住居が一致する世界が私たちの身近なところに戻ってきつつあるのです。
自宅のある街は、夜に眠りにつくためだけに戻る街ではなくなりました。自分の住む街を再発見し、自分の住む街にある酒場を再発見する機会が生まれました。街と人との関係も変わります。
テレワークの普及は、人類を想像を超えたところへと連れていくかもしれません。それは、まだ見ぬ未来と産業革命以前の職住一致の時代の世界が入り混じった、新しい世界かもしれない。
「煮込みや まる。」が日々の営業を通じてつくってきた世界観に触れることで、私たちはこれからの生き方やキャリアを意識します。酒場、人、街、つながり、子供、夕暮れ……。もちろん美味しいアテと味わい深い燗酒にまみれながらの思考ですから、ふっとそんな気持ちが生まれては消えていく、ゆるやかな感覚です。そして、気づいたらお隣とたわいもない、気持ちのいい対話をしている自分がいたりします。これが良い酒場での、酒場浴の醍醐味なのです。
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 管理本部 人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会代議員。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。