日本経済を支える「100年企業」の秘密
経済ジャーナリスト
岸 宣仁さん
企業が世の中の移り変わりに乗り遅れず、時代を越えて生き延びていくことは並大抵ではありません。日本のリーディングカンパニーと呼ばれていたのがあっと いう間に衰退、時代のあだ花で終わった企業も数多いのが現実です。でも今の日本経済を根幹で支える企業を見てみると、その多くはメディアを賑わす六本木ヒ ルズ系の企業などではなく、創業1世紀以上を刻んだ「100年企業」であることにも気づきます。大日本印刷、花王、新日本製鉄、コクヨ、資生堂、竹中工務店、電通、武田薬品工業、セイコー……日本が近代化への道を歩み始めた頃に生まれたこれら企業は、2度の世界大戦と敗戦、高度経済成長、石油ショック、バブル崩壊をかいくぐり、近年ではグローバル化やIT革命の波を乗り越えて、今日でも成長を続けています。読売新聞記者の時代から企業取材を続け、最近『文藝春秋』で改めて「100年企業」を取材した岸さんに、企業の「長寿の秘訣」をうかがいました。
きし・のぶひと●1949年埼玉県生まれ。東京外国語大学卒業後、読売新聞社に入社。横浜支局を経て、本社経済部に勤務し、大蔵省、通産省、農水省、経済企画庁、日本銀行、重工クラブなどを担当。91年に独立、フリーの経済ジャーナリストに。財政・金融、知的財産権、研究開発、産業競争力など幅広い分野で執筆活動を続けている。主な著書に『知的財産会計』(文春新書)『ゲノム敗北』(ダイヤモンド社)『発明報酬』(中公新書ラクレ)『光触媒が日本を救う日』(プレジデント社)など。近著に、中国の秘められた技術覇権戦略を明らかにした『中国が世界標準を握る日』(光文社)。
創業者の「堅実・質素」の精神を受け継ぐ――コクヨ、セイコー、竹中工務店
岸さんは最近、創業から100年以上続いている日本の企業を取材されていますね。「100年企業」の長寿の理由はいろいろあると思いますが、「人」の面から見たとき、何か特徴はありますか。
社歴が100年以上続く企業は、大企業に限っても100社近くあると思います。そのうち私は29社について『文藝春秋』(2005年4月号)で書きましたが、そのときの取材で、とくに「人」に関連して感じたのは、「100年企業」の経営トップたちが皆、すごく堅実で、質素で、真面目な人たちだなあということです。バブルの頃だって本業以外のことに手を出したり、浮ついたりしていない。そういうトップのパーソナリティが社員に浸透している様子も感じられて、全社的に、浮ついたところのない、堅実さがあるんです。
たとえば、どのような企業でしょうか。
典型的な企業の一つがコクヨだと思います。現在も事務用品最大手のこの企業は1905年、和式帳簿の表紙を製造する「黒田表紙店」としてスタートしました。初代の社長は黒田善太郎という人で、洋式帳簿や伝票、便箋、バインダーと、商品の種類を増やしていきました。戦後になってスチールデスクやオフィスチェアなど鉄製品の分野へ進出し、文具と事務器具を2つの大きな柱に成長しています。現在の社長は黒田章裕氏。今日までの100年間を3代4人の同族経営によって歩んできました。
一般的に、同族経営が長期にわたると、その弊害や経営手腕の限界が表れてくるものです。あるいは「お家騒動」が起きて、屋台骨が揺らいだりする。ところがコクヨの場合、そうしたゴタゴタが全く起きていない。創業以来、業績はほぼ一貫して右肩上がりを続けていて、戦後の復興から立ち上がって以降、唯一赤字を出したのは、ネット通販のための先行投資をする必要があった2002年の3月期だけ。もちろん、バブルにも動じませんでした。これは、初代から始まる堅実で実直な経営が効を奏しているからだと思いますね。
コクヨの原点になっているのは「正百枚」という、初代の黒田善太郎が家訓とした言葉です。「黒田表紙店」の創業当時、和式帳簿を扱う同業社の中に、「帳簿百枚」を謳いながら表紙と裏表紙を合わせて100枚、つまり正味98枚の帳簿を客に売りつけていた店がありました。このような客をごまかす商売を見て憤った善太郎は、「帳簿百枚という以上、中味が100枚なければならない」と主張して、「正味百枚」で売ることを徹底したそうです。この言葉に象徴される、ズルをしない、客をごまかさない精神が、その後ずっと同社に貫かれ、今でも経営指針となっています。
コクヨと同じように、創業者の精神が尊ばれ継承されたことで今でも生き残っている「100年企業」は、ほかにありますか。
肉まん・あんまんで知られる中村屋や、時計メーカーとして有名なセイコー、大手ゼネコンの竹中工務店がありますね。
中村屋は1901年にパン屋として始まりました。初代社長の相馬愛蔵が「将来どのようなことがあっても米相場や株には手を出さない」「原料の仕入れは現金で」を徹底したそうです。その質素・堅実な姿勢が今日まで引き継がれ、バブル崩壊にも痛手を被ることなく、急激な店舗拡張によって負債を抱えることもなく、しっかりした経営が続けられていますね。
1881年に創業したセイコーは、初代が時計の修理・販売から事業を始めた服部金太郎という人でした。金太郎の人生は、まさに時計一筋で、初代の孫にあたる服部禮次郎セイコー名誉会長が「うちには中興の祖はおらず、創業者の金太郎がすべて」と言うほどです。初代の時計づくりにかける熱意が、確かな品質と微細加工技術を追求する姿勢となって今日まで生き続けています。
竹中工務店は、1610年に名古屋で宮大工をしていた竹中藤兵衛が創業しました。以来、400年近くの業歴を持つ驚異的な会社です。「創立」は1899年で、以降、同族4人の経営によって今日まで続いています。ここも質素・堅実、派手なことを嫌うという意味で、これまでに挙げた企業とよく似ています。「よい建築物をつくるのだ」という考え方が徹底されていて、何か凄いものをぶち建てて世の中を驚かそうなどという、奇をてらったところが全くありません。バブル期は、建設業であるがゆえに多少は影響を受けたようですが、被った傷は他のゼネコンと比べると小さくすんでいます。
多角経営を進めても本業の「芯」は外さなかった――大日本印刷
「100年企業」の創業者というのは、堅実で優れた経営思想を持っていると。でも、その考え方が100年という長い間、しかも組織は拡大して社員も増えていく中で、何世代にもわたって多くの社員に引き継がれていくものでしょうか。
確かにそれが不思議に思えるけれど、引き継がれていったからこそ、100年を生き残ったのではないでしょうか。組織というのは、常にトップの行動に左右されるところがありますから、トップが堅実で真面目な態度を貫いていれば、下で働く社員にもそれがだんだんと浸透していくのではないかと思いますね。それに、創業者の思いを社員に伝えていくことの大切さを、全社でわかっているんですよ。それを端的に表していて印象深いのが「事業は創始者の理想が支配する限り続く」。竹中工務店の2代目社長が言った言葉です。
この言葉の通り、竹中工務店は戦後ずっと、社員にユニークな研修を行ってきました。だいたいどの会社でも、4月から1~3カ月の期間で新入社員研修を実施しますが、竹中工務店では「新社員研修」と呼ぶ研修を、丸1年もかけて行うそうなんですね。
竹中工務店が創立して最初に建てた建築物に、神戸の赤レンガ造りの倉庫がありますが、明治以降の同社の仕事を象徴するこの場所に新入社員を全員集めて、研修をするのだそうです。そして、社員は1年の間、寝食を共にする。なぜこのようなことをするかというと、「同じ釜の飯を食べた」という意識を新入社員に植え付けることで、お互いの絆を強める。で、そのベクトルを一方向にまとめていくのだそうです。
何やら精神修業みたいですが、広報部に訊いたところ、実際の仕事にもすごく役立っていると言います。たとえば、同期どうしの絆が強いと、社内の情報交換がスムーズにいく。後々、新入社員たちが成長して竹中工務店の国内外のさまざまなセクションで働くようになったとき、「同期」ということで親密な関係ができているので、現場の生の情報を素早くやりとりできるのだと。ナレッジ共有だとか、社内コミュニケーションの重要性だとかが言われていますが、竹中ではそれがしっかりできているということなのでしょう。
明治から100年の間には、企業経営を根幹から揺るがす激動の歴史があります。創業者の意思を継承したくても、世の中の変化に合わせて事業を変えていった企業もあるのでは?
産業構造や社会情勢の変化に対応しようと、事業変換や拡張をしてきた「100年企業」もありますね。「多角経営」による成功と失敗の分かれ目は、これら企業にもはっきりと表れていますよ。
たとえば、多角経営に成功している企業の一つが大日本印刷です。1876年に印刷業をスタートさせたこの会社では、戦後、印刷業界の労働組合の力が強くなったことで、ストライキが頻発しました。毎日のように赤いのぼりが立つ状況に危機感を持った銀行が融資を渋り、同社は倒産寸前に追い込まれます。こ のとき、当時専務で後に社長となった北島織衛は危機を乗り切ろうと再建のビジョンを掲げ、「脱印刷」に踏み切ったんですね。最初は天然木材に代わる木目調のシート印刷、続いてインスタントラーメンの外装紙と、紙から別の素材へと広げ、印刷部門以外の多角化を推し進めていきました。今ではICタグや液晶パネル用のカラーフィルターなどを手がけるに至っています。
大日本印刷は、「脱印刷」により印刷業以外への拡大を図ったのですが、でも印刷を中核に据え、そこから枠を広げています。多角化しても「芯」は外さなかったんですね。それで情報産業分野に進出して成功を収め、今日のような成長を遂げている。ここにも、歴代経営者である北島織衛・義俊父子の堅実な精神が反映されていると思えてなりません。この会社は、都心に東京ドーム3つぶんはある広さの土地を持っていて、そのためバブルの頃は、銀行が群がって訪れたそうです。「こんないい土地を放っておくのはもったいない」と。しかし、このとき社長だった北島義俊は、不動産などには一切手を出さなかった。ですから、たとえ事業の多角化に突き進んだとしても、トップのスタンスさえしっかりしていれば、その堅実さが引き継がれて、企業は生き残っていくのではないかと思いますね。
強気の「ペンタゴン経営」で自社の核を見失った――カネボウ
多角経営というと、現在、産業再生機構の支援を仰いで再建に取り組んでいるカネボウも思い浮かびます。大日本印刷とは違って、失敗してしまいましたが。
1887年に創業したカネボウは、繊維では国内トップを誇る企業でした。1968年に社長に就任した伊藤淳二は、その余勢に乗じて「ペンタゴン経営」に突き進んでいきます。繊維に加え、化粧品、薬品、食品、不動産と、華々しく5つの事業体に間口を広げ、強気の投資を行っていきました。これがあだとなって自社事業の核を見失い、今日の結果につながったのだと思います。たまたま私は、新聞社の経済記者だったときにカネボウを担当していて、伊藤社長にはよくインタビューをしました。当時の様子を思い起こすと、ワンマン経営者としての派手やかな印象が浮かんできますね。会社が生き延びられるかどうか。何度も言いますけど、やっぱり経営トップが持つパーソナリティやスタンスによって決まるような気がします。
「100年企業」には、経営トップのパーソナリティ以外にも、たとえば建物やオフィスなどにも特徴が見られますか。
社屋にも、質素・堅実な様子が反映されていると思いますね。1887年に創業した花王は、81年度から経常増益を続けている会社ですが、本社ビルは都心から少し離れたところにあり(東京・墨田区)、いたって質素です。「100年企業」ではないけれど、トヨタのこれまでの本社ビルも、1兆円もの経常利益を出している巨大企業には見えませんよね。
正反対なのが大手の銀行です。どの銀行も、1980年代初めからこぞって立派な社屋を建てた。当時、大蔵大臣だった渡辺美智雄さんはそんな様子を見て、「銀行なんてのは金貸すとこなんだから、庶民が下駄ばきで行けるような場所でなきゃダメだ」と、よく嘆いていましたね。私は新聞記者として大蔵省を担当していて、渡辺さんに話を聞く機会があったんですね。
大手銀行だって、ほとんどは100年以上の歴史を持つ企業です。それがこんなふうになってしまった。さまざまな環境変化の要因もあるでしょうけど、やはり渡辺さんが言っていたように、本来とるべき銀行のスタンスが揺らいでしまったんじゃないですか。それを象徴しているのが、あの立派すぎる建物のような気がしますね。
戦後の経済成長期と現在とでは、企業で働く社員の質やパーソナリティは異なると思います。それなのに、「100年企業」は変わらずに成長を続けている。これはどう考えたらいいでしょうか。
ある種、世代論とも絡んでくるので、それを企業経営に絡めて語るのは難しいのですが、ハングリーの時代とそうでない時代の違いがあることは事実です。たとえば団塊世代は「一生懸命働いていれば、明日はいい日になるぞ、いい暮らしができるぞ」という思いで戦後の日本経済の成長を支えてきました。でも、今の20代30代は、成熟した時代に生きているせいか、明日への期待や希望、将来にかける意気込みみたいなものが希薄かもしれません。そういう世代は、ハングリーな時代を生きた世代とは、会社に対するロイヤリティも、仕事に対する意気込みも違うでしょう。
それなのになぜ、「100年企業」は成長してこられたのか。言い換えれば、なぜ社員がハングリー精神のようなものを維持してこられたのか。私は、それは経営トップの堅実な資質みたいなものが社員に受け継がれる中で、たとえば、ハングリー精神を失いそうになるとベクトルを元に戻すことができる。トップがこういう姿勢でいるんだから自分たちもそのように働いていこうという気持ちになれる、そんな企業風土があったらからじゃないかと思うんですね。世代とか時代の違いはあるにしても、「100年企業」は「ぶれなかった」と言えるのかもしれません。
21世紀の企業長寿のキーワードは「ユビキタス」と「世界標準」
では、今の企業がこれから長寿であり続けるために重要なことは何でしょうか。
繰り返しますけど、質素、堅実、まじめな社風であること。100年企業ではありませんが、トヨタ自動車を見ればわかるように、いつの時代であっても変わらずに重要だと思います。そのうえで、今後の生き残りを考えると、キーワードは「ユビキタス」、それに伴う「世界標準」でしょうね。
あらゆるものがコンピュータでつながるユビキタス社会では、家電製品もパソコンも携帯電話もネットワークで結ばれ、それがインフラとなって一つの世界を形成していきます。日本は今、ユビキタスネットワーク・インフラを世界に先駆けて構築することで産業競争力を高めていこうと動いています。このとき勝敗の決め手となるのは、世界の「標準」が取れるかどうかなんです。
世界の「標準」とは、通信方式のような規格のことです。たとえばインターネットは現在、Ipv4という通信手段が利用されています。Ipv4の周辺特許はアメリカが独占状態にあって、私たちはインターネットは無料だと思って使っているけれど、じつは国家単位では巨額のライセンス料がアメリカに支払われている。すべてがデジタル化されてネットワークでつながったユビキタス社会は、通信方式やソフト形式などのさまざまな「標準」が連鎖する世界なんですよ。ですから、この「標準」を日本が世界に先駆けて多くとれるかどうか、取れずに巨額のラインセンス料を払い続ける国となるかどうかで、勝負は決まってしまうのです。
日本は縦割り・横並びの社会で、統一した仕組みづくりを官民学で合わせて進めていくことが非常に不得意ですよね。たとえば最近の例で言うとDVDの規格。東芝と、ソニー・松下との間でDVDの規格が統一できず物別れに終わってしまった。私は「標準」の問題で、かなりの数の企業を取材してきましたが、「標準はどうするのか」と訊くと、大概の企業からは「国に決めてもらえれば合わせますよ」という答えが返ってきます。いつまでもそんなことを言っていたら、世界の舞台で勝負ができませんよ。
アメリカにどんどん先を越されていくということでしょうか。
いえ、これから力を持ってくるのは中国だと思いますね。これまで日本は中国を「模倣品の国だ」とか「特許侵害ばかりやっている」などと見てきたかも しれませんが、中国は今、独自技術を核にした国際標準の獲得を国家戦略として進めています。世界中からのたび重なる特許料の支払い要求に業を煮やしたので しょう。その結果、第3世代携帯電話の3G規格では、ノキア、エリクソン、NTTドコモを中心とした国際標準「W-CDMA」に対し、独自の規格「TD- SCDMA」を獲得、無線LANの規格でも、すでに米国電気電子学会(IEEE)が定めた「Wi-Fi」があるにもかかわらず、「WAPI」という規格を 策定しています。
産学官が一体となった国家ぐるみで「標準」の問題に取り組む中国のスピードに、日本はとても追いつけない。今まで中国の模倣品にさんざん手を焼かされてきたある日本企業の担当者が、「もうこれからは、模倣品を取り締まれとだけ騒いでいる時代じゃないよ」と自嘲的に話していました。この言葉は、現状をよく表していると思いますね。
ですから、これからの時代に日本の企業が生き残っていくためには、その企業なりの堅実な姿勢は変わらずに重要です。でも、それだけじゃダメで、世界がネットワークでつながっていく今後は、個別の企業単位から離れたグローバルな思考を欠かすわけにはいかないのです。
(取材・構成=笠井有紀子、写真=中岡秀人)
取材は8月24日、東京都内にて
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。