「戦略の実行」を担う人事部が、
いま行うべき「人材育成」とは?
フリービット株式会社 戦略人事部ジェネラルマネージャー
酒井 穣さん
企業の繁栄は、構成している人材によって大きく左右されます。現在の不安定な状況を乗り越えるためにも、社員の成長を第一に考える必要があるのではないでしょうか。何より、「モノ」や「カネ」は簡単に手に入れることができても、自由に意志を持つ「ヒト」については、そのままでは思うように動くことはありません。世界レベルでの競争が激化している現在、企業にとって自社の理念を理解し、事業を成功に導いていく人材を育成していくことは、最重要課題の一つと言えます。では、どのようにして人材育成を進めていけばいいのでしょうか。今回は、話題となった『「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト』の著者である酒井穣さんに、これからの日本企業における人材育成の方向性や具体的な方法、さらに「戦略を実行する」部署として人事部はどうすればいいのかについて、お話しを伺いました。
さかい・じょう●1972年、東京生まれ。慶應義塾大学理工学部卒、オランダTilburg大学TiasNimbas Business School経営学修士号(MBA)首席(The Best Student Award)取得。商社にて新事業開発、台湾向け精密機械の輸出営業などに従事した後、オランダの精密機械メーカーにエンジニアとして転職、オランダに移住する。特許訴訟を機に知的財産権部に異動し、米国、日本、韓国における訴訟対応をはじめ、技術マーケティングや特許ポートフォリオの管理を担当する。オ ランダの柔軟な労働環境を活用して、知的財産権部での仕事に精力的に取り組む一方、2006年末に各種ウェブ・アプリケーションを開発するベンチャー企業であるJ3 Trust B.V.を創業、最高財務責任者(CFO)としての活動を開始する。その他、南米スリナム共和国におけるコールセンター(アウトソーシング)のハンドリング、開発リソース(プログラマー)の中国とルーマニアからの調達や、オランダ、ドイツ、スイスに分散する顧客に対応する事業戦略の展開などを担当する。2008年には、母校TiasNimbas Business SchoolのMBAプログラムにて臨時講義を受け持つ。2009年、8年8ヵ月暮らしたオランダを離れ、フリービットに参画するために帰国する。著書には、ベストセラーとなった『はじめての課長の教科書』のほか、『あたらしい戦略の教科書』『「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト』などがある。無料のメルマガ「人材育成を考える」を配信中。
オランダから帰国。日本の教育の現状を何とかしたいと思った
酒井さんは、新卒で日本の商社に入社した後、オランダに渡って仕事をしていらっしゃいました。そこで成功され、昨年再び日本に戻ってこられたわけですが、その気持ちを動かしたものとは、何だったのでしょうか。
オランダでは、それなりに良い生活ができていました。ただ、自分だけが良くていいのかという気持ちもありました。日本を見ると、大変な状況になっている。日本を、オランダのような自立した個人がプロフェッショナルとして生きていく社会にできないものか、という問題意識もありました。そのままオランダに残るという方法もありましたが、最終的には日本で、自分以外の人のために何か貢献できることがしたいと決断したわけです。オランダには2000年8月から2009年4月まで、都合8年8ヵ月いました。
日本に戻られて、人材育成の現状をどのようにお感じになりましたか。
私がオランダで小さな成功体験を得たのは、幾つかのターニングポイントを経験したからだと思っています。まず私の場合は、日本企業の駐在員としてではなく、オランダの現地企業という完全な異文化の中に飛び込んで、そこで「やって行ける」という自信をつけたことが大きいです。そして、オランダに暮らしつつ、同級生に1人も日本人がいない環境でMBAを取得したことは、自分の中で「軸」になっています。そんな自分のこれまでを振り返って思ったのは、普通に仕事をしているだけ、つまりOJTだけでは、人は育たないのではないかということです。日本企業の教育の中心をなすOJTは、単に人材の現場への放置でしかありません。自分の成長のターニングポイントとなったイベントの影響を考えると、本当にそう思いました。
しかし、多くの人には、海外に溶け込んで暮らしたり、海外でMBAを取得したりといったイベントを経験できる仕組みがありません。さらに、日本は社会不安のような状態で、この先のキャリアをどうしていいのか分からないという気分が蔓延しています。そのためか、自己啓発本などがたくさん売れています。しかし、本質的なことは、自己啓発本の類では解決しません。私自身、日本の外に出て「生き残る」ことで、初めて自分の成長に欠かせないものを発見できました。私は、どうすればそのエッセンスを組織に組み込んで、人材の成長効率を上げていくことができるのかということを、ライフワークとして考えて行きたいと思ったわけです。
日本の教育で、おかしいと思った点を聞かせていただけますか。
現在、教育面で興味を持っているのがIB(International Baccalaureate)という大学受験資格。国際バカロレア機構の定める教育課程を修了すると得られる資格で、2010年時点で全世界138ヵ国の2925校の学校で採用されています。簡単に言うと、社会で人が生きていくために求められるスキルがピックアップされており、それらをちゃんと理解していれば、世界中の大学に入れるというプログラムです。このプログラムにおいて大切にされているものに、「探求型学習」があります。要は、一つのことを深く掘り下げて考えるということです。その際にポイントとなるのは、子どものうちに自発的な学習をきちんと経験しておくこと。日本ではテストのための勉強となっていて、こうした探求型学習とは対極にあります。
一方、オランダではIBではなく、普通の公立学校であっても12歳まではテストがありません。物事を突き詰めて考える力、自分で調べていく力、そもそも自分は何を調べたいのかを考えること、それらを小学校の段階で教えていきます。
結局、好きなことを自分の中心に置きながら、そのことに関連する事項を自分で学んでいくという探求型学習が、子どもの将来を考えた時にとても重要です。そして、探求するということは、何かに熟練しなくてはいけないということ。要するに、熟練の先にしか、本当の創造は生まれないのです。問題なのは、自分の好奇心が向かう方向に熟練しないまま、日本の学生が社会に出てきてしまうことです。テストだけに熟練していては、クリエイティビティを発揮する機会がありません。ましてやイノベーションにも関われない。そうすると、単純な仕事、ルーティンな仕事しかできない社会人になっていく。その先には、もはや「楽しみながら成長する」という日常はありません。
ではこの先、どのような改革を行っていけばいいのでしょうか。
探求することを学ぶプログラムを作らなくてはいけないでしょう。その前提として、自分の専門にしたいこと、そもそも自分の好きなことは何なのかということがとても大事になってきます。さらに言うと、現代の高度な競争社会では、自分が嫌いなことをやっていて勝てることはありません。そのことが本当に好きでたまらないというプロフェッショナルたちと、闘わなくてはいけないのですから。
一昔前は、「好きなことを仕事にしてはいけない」という論調もあったと思います。しかし、それは「自分の得意・不得意に関係なく仕事があって、きちんとお給料がもらえる」という経済の高度成長という贅沢な背景があったからだと考えています。
たまたま数学が得意だったので理工学部の情報処理系に入り、世間的にもいい会社だからと大手コンピュータ会社に入っても、それだけでプログラマーとしては成功できません。なぜなら、別にプログラミングが好きだというわけでないからです。これは、日本でしか見られない光景です。
熟練していて、好きな世界を体現できている人というのは、どういうイメージですか。
分かりやすいのは、やはり、ITの世界のプログラマーでしょう。彼らは本当にこの仕事が好きで、極端には無報酬でも、どんどん仕事をしています(オープンソース運動)。そういう人々は、ウィークデイとウィークエンドではなくて、オンとオフで仕事を考えています。楽しいので、夢の中でも仕事をするような人と競争することになるのですから、自分も好きなことで対抗するしかないでしょう。
ところが、今の日本の学生の採用面接では、「僕のポテンシャルを採ってください」と言われることが多いのです。好きなこと、得意なことはあまり言わない。「これからは国際社会なので、御社のように海外にリーチできるようなところで海外経験をしたい」などと言ってくる。では、学生時代にどういうところを旅行したのかを聞くと、「特にありません」という。海外で働きたいのならば、海外の企業に就職すればいいのですが…。
偉そうなことを言っておりますが、私自身も実は、大学を卒業するまで飛行機にすら乗ったことがないままに海外に行きたいと漠然と考えていました。そんな駄目な自分が就職できたのは、単なる偶然でした。ある意味で、こうした日本の学生は、被害者だと思います。キャリア教育を受けないまま、好きなことも漠然としか分からないまま、進路を選ばなければならないからです。理科系のほうが就職は良さそうだとか、生涯年収は文科系のほうが高いらしいなど、学生たちは出所の怪しい「噂」で進路を決めています。これも、探求型の学習を習得させてもらっていないためです。
人材育成のグランドデザインをどう描くか
実業の部分で世界に通用していくためには、何よりそれができる人材が育っていなければなりません。どのような人材育成のあり方をお考えですか。
人材育成担当の従来のイメージは、「研修屋」ではないでしょうか。しかし、現実には、人材育成の仕事とは、研修のデリバリーではなく、パフォーマンスのデリバリーなのです。人材育成担当者は、現場の人たちのパフォーマンスが上がることに対して責任を持っているわけです。正しいイメージは、研修屋ではなくて、むしろ戦略コンサルタントだと考えています。今は、どういうわけかパフォーマンスが出ていないところに入り込んでいく。そして、どうしたらもっと良くなるのかを上から目線で教えるのではなくて、一緒に考えることで、現場の考える力を養う。まさに、戦略コンサルタントの思考力を現場に組み込んでいくのが、人材育成担当者の大きな仕事だと思います。
なるほど。これまでにないアプローチで人材育成を考えているわけですが、酒井さんはなぜIT企業を選ばれたのですか。
IT企業には圧倒的な成長があるからです。これから衰退していくところでできることと言ったら、コスト削減です。コスト削減のための人材育成となると、なかなか難しいものがありますから。IT企業の面白さというのは、中途採用で1年も経っていないのに、2段階特進してマネージャーになるといったことが珍しくないこと。弊社の今年の新入社員でも、既に中国に配属になった者もいます。大企業では、中国への初出張までに1年くらいかかるでしょうし、駐在となると国内でも3年くらいで、海外となると10年くらいはかかると思います。
その中国に配属させた新入社員ですが、最初は戸惑っていたものの、今では伸び伸びと仕事をしています。3ヵ月で、中国語も日常的に話せるようになっています。事業がどんどん成長していくので、自分の能力を追いつかせるしかありません。それが、個人の成長につながり、成長の楽しさを感じる。求められるスキルが、今の自分より圧倒的に大きいほうが、学ぶ場所としては最高だと思います。
具体的に、フリービットで行っている人材育成の方法について聞かせてください。
フリービット・グループには、一般的な研修のほかに、HumanCapitalDevelopmentProgram(HCDP)とよばれる「何らかの効果がある」と考えられる人材育成プログラムが百数十種類ほど存在し、そのうちの30種類が現場に導入されています。その中で評判がいいもののひとつが、読書手当である「道真公の愛」です。毎月1万円を上限として、社員が購入した書籍の半額を補助しています。必ずしも業務と直結していなくても構わないのですが、補助の支給を受けるには、社内ネットに書評を公開しなくてはならない仕組みになっています。
個人的に、読書は学習の根幹をなすと考えています。人間は通常、言語を使って物事を考えています。考えることのエッセンスは、複雑な事象をシンプルにしたり、逆にシンプルに書かれていることを、創造力を使って元の複雑なものに再現したりしていくことです。これは、情報の圧縮の技術なのです。自分の見たもの、聞いたものを圧縮することで、限られた脳内の記憶力に対して、言語をたくさん使って記憶することを意味します。そして必要に応じて、圧縮したものを解凍していく。その際、1回圧縮して解凍した記憶というのは、実は、オリジナルの記憶よりも“美味しい”状態になっています。例えば、シイタケは生で食べるよりも、干しシイタケを戻して食べたほうが美味しいのです。ちょっとオカルトじみていますが、それと似たようなことが圧縮・解凍のプロセスで起こると考えています。
このトレーニングが読書なのです。まず本を読むことで、求められているのは解凍の力です。圧縮された内容を、ちゃんと解凍できる力。実際問題として、上司の指示など短い言葉で出てきたものを、創造力を働かせて解凍し、成果物を作っていくことが仕事なのです。つまり、少ない情報量をたっぷりにして返すということ。アウトプットも重要で、これは圧縮の技術です。ただ、それは解凍を通して圧縮の仕方を学ぶということであり、まず先に読書があってほしい。
名前をなぜ「道真公の愛」にしたかと言うと、単に「読書手当」だと話題性が生まれないからです。法律と同じで、制度というのはただ作っただけでは意味がなく、人々がそれを使ってくれなくてはいけません。運用面も考えて、ネーミングを考えるべきだということです。「道真公の愛」であれば、話題になりやすいでしょう。給与明細にも「道真公の愛」とプリントされます。そこで、例えばゼロ円と書かれていて、「愛がゼロ円」となるのは、家族が見たときに具合が悪い。本を読んだらお金がもらえる制度ということが知れれば、当人も本を読むようになります。そうした効果も狙っています。何事にも名前は重要で、仮に他社と全く同じ制度であっても、独自のネーミングをつけるべきだと思います。
それから、ツイッターのようなミニブログを、社内向けにクローズドな状態にした「社内ミニブログ(Yammer)」も面白いです。昨年の夏から導入したものですが、企業グループ内で「井戸端会議」が開ける状態となっています。さながら喫煙所や給湯室での非公式なコミュニケーションが、全社的に展開されているような感覚です。
いろいろとユニークな取り組みをされていますね。それまでは、どのような教育をされていたのでしょうか。
ベンチャー企業は一般的に、教育する余裕がありません。ですから、事業の運営に足りないスキルは、即戦力となる中途採用によってまかなうのが基本です。そういう意味では、ベンチャー企業一般では、育成のニーズより人材確保のニーズが大きいのです。ただ、フリービットはそんな中でも教育はしっかりと行ってきました。企業のスケールアップに伴い、専門家のニーズが生まれ、私がそのポストを拝命したというだけの話です。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。