人事部がスポーツ、そしてサッカーから
得られるヒントとは何か?
日本経済新聞社 編集局 運動部 編集委員
武智 幸徳さん
IT化で、選手と監督の関係が変わった!
選手と監督の関係についても、変わってきた部分はありますか。
サッカーの監督は、舞台の「演出家」に近い存在です。開演に向けて、綿密な稽古やリハーサルを繰り返し行いますが、いったん幕が上がったら後は役者(選手)に任せるしかありません。一方で、野球は「映画監督」のような存在。監督が仕切る部分が相対的に大きい。Jリーグが始まった頃は、そういう見方がされていました。
ところが、最近は様相が違っています。選手と監督の関係でいえば、監督の存在感がどんどん増してきている。サッカーがビジネスとして大きなマーケットを持つようになったこともあるのでしょうが、監督の影響力・支配力が大きくなってきました。ひいては、その監督を選ぶ側、日本ではよくそれを総称してフロントといいますが、その力も重視されるようになりました。それに伴い、監督が考え、授ける戦術に選手は同調することを強く求められるようになりました。特に、ビッグクラブの集まる欧州でその傾向が顕著です。
それには、何か理由があるのでしょうか。
いろいろな要因がありますが、ゲーム分析という視点で考えてみるのも面白いのかもしれません。昔はゲーム分析の際、人の力に頼るしかなかった。それこそ、「あいつのあのプレーのせいで…」といった印象論で決まる部分が大きかった。アナログ的なゲーム分析が幅を利かせ、そこから導き出される答えもまたアナログ的でした。アナログなだけに分析にはすき間があります。“遊び”の部分が。そこを選手が自分たちの判断で埋めていたような気がします。素晴らしい選手ほど与えられる裁量は大きくそれが選手を個性的にも見せました。
現在は、分析にコンピュータを使います。試合を映像に記録し、選手の走行距離はもちろん、パスのスピードやパスを受けてからシュートを打つ速度など、デジタルな数値で出せるようになりました。また、その結果に従って、いろいろなことが組み立てられていくわけです。
丸裸にするのは相手チーム、自分のチームの両方です。個々の選手の長所、弱点、チームとしての長所、短所が事細かに分析されます。それを踏まえた上で、相手に勝つために、何をすればいいのかが明確になりました。IT化によって、ゲーム分析がデジタル処理されるようになったのです。
もっとも野球の世界では、打率や打点、出塁率や得点圏打率など、以前からパフォーマンスのかなりの部分が数字で表されていました。その結果を元に査定が実施され、契約更改の席で話し合いが行われたわけです。それは、選手にとって非常にシビアな世界でした。それに対して、サッカーでは数字に表されるものが少なかったのですが、そこにコンピュータが導入され、デジタル処理された数値が出されるようになり、俎上(そじょう)にのせられるものが具体的になりました。
「君のここがダメだから、修正していく必要がある。そのために、こうしたトレーニングを課すよ」ということが具体的に示されるようになる。「君は70分過ぎたら運動量が30%落ちる。このままでは、90分使えない」と言われたら、選手は「分かりました。残り20分の運動量が落ちないように、指示されたトレーニングを積みます」と言うしかないでしょう。その結果、個人の集合体であるチームに対する要求・縛りも、当然多くなってきました。
求められるものがはっきりしてくると、選手は勤勉、かつハードワーカーにならざるを得ません。
それは、一流選手になればなるほどそうです。一流選手ほど課題を示されたらより限界を超えようと努力しますから。そうやって、欧州の一流選手が勤勉にハードワークしたら、日本人選手はかないません。強い選手はより強くなり、そうした選手のいるチームもますます強くなっていきます。その結果、欧州の大舞台でコンスタントに勝てるチームが限られてきました。
こうした状況では、監督も「根性を出せ」「最後まであきらめるな」といったアナログ的な指示の与え方だけではなく、データに基づいたより具体的な指示、そして戦術を授けていかなければなりません。これからはそうしたことのできる人でないと、監督が務まらなくなるのかもしれません。
サッカーの世界も、IT化の影響を大きく受けたわけですね。
勝負を分ける要因は何か?
話は変わって、2008年のWBCでは原監督の下、優勝を果たしました。この要因には何があると思いますか。
原監督が選手のモチベーションをうまくコントロールしたことが大きいと思います。スター選手の集まりであるチームに対して君臨しすぎるのはよくないと分かっていたような気がします。ただし、こうしたケースでは、監督の下には絶対的なチームリーダーの存在が必要です。WBCでは、イチローがその役割を見事に果たしました。事実、他のメンバーもなかなか調子の出なかったイチローをフォローしようと一所懸命でしたね。イチローもそれに応え、最後には劇的な形できちっと結果を出しました。
一方でジーコ監督の下、期待された2006年のワールドカップ。日本が1次リーグで敗退したのは、チームリーダーとなる人がいなかったということになるのでしょうか。
何人か候補はいたのでしょうが、誰もが認めるチームリーダーとなると、疑問がありました。現実問題として、チームが幾つかのグループに分かれてしまったのではないでしょうか。そこが、イチローを中心としたチーム編成を組んだWBCとの違いです。
なるほど。チーム編成というのは、大きな大会ほどより重要になってくるわけですね。
そうですね。サッカーの日本代表は、まず23人を選ぶわけですが、その際、ベンチに置いていい選手をどう見極めるかということを、2002年の監督だったトルシエがよく言っていましたよ。
23人の選手を選んでも全員を使い切ることはそうない。当然、試合に出られない選手が出てくる。だから23人を選ぶとき、力のある人ばかり集めても、決してうまくいきません。優秀な人が集まりすぎているがために、「この選手に取って代わられてしまうのではないか」と、お互いにびくびくした緊張関係が生まれるからです。また、監督に対しても、「なぜ自分を使ってくれないのか」といった不満を持つ原因になってくる。その結果、チームとしての一体感に問題がでてくる。
そうすると、ベンチに置いていて気持ちのいい選手を選ぶことが、チームとしてのまとまりを考えた場合に重要になってきます。
トルシエは2002年の代表では、ムードメーカーとして中山雅史や秋田豊といったベテラン選手をベンチに置きました。秋田は試合には出ませんでしたが、2人ともベンチにいることに喜びを感じていましたし、呼んでくれたトルシエにも感謝していました。その役割をよく理解し、チームに貢献したと思います。そういう選手をバックアップとして置くほうが、チームにとってはいいわけです。
現在の岡田ジャパンにも、そのような存在として、カズ(三浦知良)を置いたほうがいいのかもしれませんね。
監督の重要な資質に、「チーム編成のスキル」があると思います。先ほども言いましたが、優秀な選手ばかりを集めても、チームとして機能しなければダメなわけです。それよりも、いろいろな個性や能力を持った選手をどう配置していくか、チームとしてのバランスが大切です。試合では、一つのピースの置き場所を違えただけで、結果は大きく変わってきますから。ただ、カズはさすがに厳しいでしょう(笑)。
現在では、コンピュータを用いてデジタル処理して選手の優劣が数字として示されるようになったかもしれませんが、昔から「名将」と呼ばれた人たちは、アナログな感覚でそういうことを分かっていたように思います。選手の本質を見抜く「眼力」や「育成術」を持っていました。だからこそ、実績を出すことができたのです。
逆に言えば、今はデジタルな情報があるから、それを理解してうまく使っていけば、誰でも「名将」になるチャンスがあると言えませんか。
ただ、こうしたデータ至上主義が行き過ぎると、どうなのかという不安もあります。ビジネス社会で「成果主義」が行き詰ったのと同じように、サッカーの世界でもデータだけですべてを表すことができないからです。
アルゼンチンにリケルメという選手がいます。彼は、コンピュータによって算出されたデータ的には不十分な点もあるかもしれませんが、試合を決めるようなパスを何本も出します。さらに、往々にしてこのような選手には華があります。1990年代に人気を集めた、イタリアのロベルト・バッジョなどもそうです。ただし、こうした選手のいいところというのはデータで測ることは難しい。
確かに、査定する側もされる側も、目に見える形でのデータが欲しいのは事実。お互いに納得できるからです。しかし、それだけで本当にいいのか、という疑問は常に残ります。スポーツには人々に夢や社会に活力を与えたりする部分が求められているからです。実際、スポーツにおいて芸術性という側面は否定できません。そこに大きな価値を見出す人も少なくないのです。
しかし、現代における評価はデータ重視となっていき、そうした芸術家肌の選手は隅に追いやられてしまっています。
その点が難しいところですね。個人的にはデータ以外の部分へのこだわりは、持ち続けていきたいと思っています。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。