グローバルで女性が活躍するためには何が必要か
――レースクイーンから「世界最速の女性レーシング・ドライバー」になった井原慶子さんに聞く(前編)
~極限の世界を生き抜くモチベーションの源泉~
レーシング・ドライバー/FIA国際自動車連盟アジア代表委員/
慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科特任准教授
井原 慶子さん
近年、ビジネスのグローバル化が進み、企業間の競争が厳しさを増しています。このような状況の中で企業が勝ち抜いていくためには、グローバルで活躍できる人材を育成する必要がありますが、日本企業はまだまだ不十分だと言えます。特に、グローバルで活躍できる「女性」を育成できている日本企業は、とても少ないのが現状ではないでしょうか。そうした中で今回紹介する井原慶子さんは、レースクイーンから一念発起、異国の地しかも男性社会の中で数々の困難を乗り越え、世界最速の女性レーシング・ドライバーにまで上り詰められたことで知られています。そこで得られた経験から「世界で女性が活躍するためには何が必要か」をお聞きするとともに、井原さんがそこまで努力することができた「モチベーションの源泉」や、最近の幅広い教育活動などを踏まえた「女性が活躍しやすい環境作り」などについて、詳しいお話を伺いました。
いはら・けいこ●1973年東京生まれ。1997年法政大学経済学部卒業。世界最速の女性カーレーサー・慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科特任准教授。1999年にレースデビュー以来世界70か国を転戦。2014年にはカーレースの世界最高峰・WEC世界耐久選手権の表彰台に女性初で上り、ルマンシリーズでは総合優勝。女性レーサーとして世界最高位を獲得。レース転戦のかたわら、地域での英語教育活動や慶応義塾大学院など教育活動に携わる。また、自動車産業や自治体と共に環境車のインフラ整備や女性が活躍しやすい環境作りにも力を注いでいる。日本国・内閣国家戦略大臣より「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」として国家戦略大臣賞の表彰を受け、中学・高等学校で使用される教科書に掲載される。FIA国際自動車連盟アジア代表委員、経済産業省産業構造審議会委員、外務省ジャパンハウス諮問委員、三重県政策アドバイザーなどを歴任。著書に『崖っぷちの覚悟―年齢制限!?関係なし!』がある。
無免許のレースクイーンが一念発起
当時、大学生だった井原さんが、周囲の猛反対を浴びながら、世間の常識にも逆らい、カーレーサーになりたかったのは、どのような理由からですか。
大学時代にレースクイーンのアルバイトをしていた時に、仕事でサーキット場に初めて行ったとき、衝撃を受けました。カーレースは、生死をかけて行うスポーツで、レーサーのみならず、メカニックやエンジニアの方たちも含め、「自分の仕事の仕方次第で人が死んでしまうことがある」と思いながら働いています。当然、そこには一人ひとりに強い責任感と緊張感が求められます。そして、勝ち負けがはっきりと形に出ます。そういう姿を初めて目の当たりにし、自分のいる世界とは対極にあると感じたのです。テレビで観るモータースポーツの様子とは、全然違っていました。
自分はこれまで高校・大学とスキーのモーグルの選手として、本気を出して取り組んでいたつもりだったのですが、このようなカーレースの世界で働く人たちと比べたら、それは全然大したものではなかった。自分もこの世に生まれてきたからには、頭と身体の能力を全て発揮し、人間としての「本気」を出して仕事をしてみたいと思ったのです。そこで、まったくモータースポーツと無縁だった私がカーレーサーを目指すことを決めました。
カーレーサーになるために、どのようなことから始めたのですか。
まず、自動車の運転免許も持っていませんでしたので(笑)、運転免許を取ることから始めました。しかし、その後はどうしていいのかわからず、周囲の人たちに相談したんです。すると「女の子がレーサーなんて、危ないから止めておきなさい」「今からでは無理だよ。みんな、子どもの頃から頑張ってやっているのだから」など、ほとんどの人からネガティブな意見を浴びせられました。でも、カーレーサーになるという強い気持ちがありましたから、あまり気にはしませんでした。
私が大学を卒業したのは1997年で、まだ就職氷河期の時代。厳しい就職環境下にあって、ある会社から内定をもらうことができたのですが、実は1日で辞めました。内定通知とは全く違う業務部署への配属を命じられたのです。私は営業職に就けると思って就職したのに、実際は違っていた。そもそも営業職を希望したのは、カーレーサーになるためには営業活動が必要だと思ったから。また、社会人として、人と会ったり、コミュニケーションを取ったりすることは非常に重要ですから、営業という仕事を通して、しっかりと学んでいきたいと思っていました。それが叶わないなら、ここで働くことはないと決心したのです。即断でした。そして就職を断った以上、もうカーレーサーになるしかないと強く心に決めました。
そんな時、あるカーメーカーのドライビングスクールで、安全運転の啓蒙活動を推進するための女性インストラクターを募集しているから受けてみないかという話が舞い込んできました。受けてみたら、なんと合格。「運転にまだ癖が付いていない」「できないことを素直に認め、指示した通りに車を動かそうとした素直さがあった」のが合格の理由でした。そこでカーメーカーのエンジニアやテストドライバーの方に、自動車に関することをゼロから徹底的に教えてもらうことができました。
その後、カーレーサーになられたのは何歳の時ですか。
デビューは1999年、25歳の時です。カーレーサーになる前は、カーメーカーでインストラクターの仕事をする傍ら、理論を学んだり、テストコースで実践の練習をしたり、スポンサーを募るための営業活動に必要な企画書を何枚も書いたりする、といった毎日を過ごしていました。こんなにも長い期間モチベーションを保てたのは、「どうやったらカーレーサーになれるのか」ということを、私なりに“模索”していたからだと思います。
インストラクターの仕事に携わっていて、学ぶことが多く、また、社会人になって企画書を書く、営業活動をする、といったことを一つずつ学んでいけたのは、私にとってとても重要かつ、新鮮なことでした。こうした気持ちがあったからこそ、モチベーションが続いたのだと思います。
いろいろとご苦労があった後、晴れてカーレーサーになられた井原さんですが、カーレーサーを続けていく上で、女性ならではの困難に直面したことがあったと思います。それをどう克服していったのでしょうか。
25歳の時にドライバーとしてデビューを果たしたわけですが、モデルの仕事で貯めた貯金で「フェラーリ・チャレンジ」に参戦し3位になり、表彰台に立つことができました。その後、国内で1年間レースを続け、結果はそれなりに良かった。ところが、良い結果を出すと、「何か裏で画策をしているのではないか」と言われる。あるいは「女性だから、特別なエンジンを提供してもらっていのではないか」「誰か、良いスポンサーが付いているのではないか」など、誹謗中傷は日常茶飯事でした。逆に、スピンするなどして悪い結果だと、「やっぱり、女性だから下手だよね」と言われます。モータースポーツの世界では、女性はなかなか認められないという現実を痛感しました。
閉塞感が渦巻く中、このままではいけないと思い、海外に出ることを考えました。モータースポーツの世界では、欧州が本場。チャレンジするなら、最先端の国で挑戦してみたいと考え、最初はイギリス、その後フランスに渡りました。私はカーレーサーとしてのスタートが遅かった。だから、女性に対する偏見が嫌になったからというよりも、本場に行って、他の人の5倍、10倍の速さで学びたかったということが渡欧の一番の理由です。
とはいえ現在、私が世界レベルで実績を出すようになってからも、モータースポーツの世界では女性に対する偏見はまだ変わっていません。大変残念なことです。そして、広く日本の産業界に目を向けても、特に技術に関わる産業の場合、依然として男性中心に物事が動いています。サービス産業などでは女性が活躍する場面は多いのですが、技術系の組織では男性のプライドがあるからでしょうか、女性が活躍することを拒む傾向が相変わらずありますね。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。