賃上げ元年における日本企業の課題
ウイリス・タワーズワトソン Work & Rewards日本代表 マネージングディレクター
森田 純夫氏
春闘を控えるこの時期(注)において経営トップが言及する賃金の上昇幅や、労使双方が賃上げに対して前向きであるという状況など、異例づくしの現在、少なくとも大手企業においては大幅賃上げが既定路線となりつつある。この状況によって浮き彫りになり得る、日本企業が抱える多くの課題を概観する。
(注:2023年2月執筆)
将来、2023年は賃金の観点からは大きな転機の年であったと振りかえられるのではないだろうか。春闘を控えるこの時期において経営トップが言及する賃金の上昇幅や、労使双方が賃上げに対して前向きであるという状況など、すべてが異例づくしといえる。少なくとも大手企業においては大幅賃上げが既定路線となりつつあるものの、この賃上げは日本企業が抱える多くの課題を浮き彫りにするきっかけにもなるのではないか。本稿ではその課題を概観したい。
01 中長期的な処遇の方針を打ち出せるか
春闘を控え、賃金の上昇幅をどの程度とするかについて、各社によるアピール競争の様相が呈されている。物価上昇のなかで従業員の生活を守ることを目的として、短期間のうちにこうした方向性が打ち出されたのは評価されるべきであるが、中長期的な展望を示すことができている企業は多くない。
社員の立場からすれば、今後自分の会社がどのように報酬を運営していくのかは、キャリア選択上有益な情報である。会社としては、中長期的な視点に立ち説明できるかがリテンション上の重要な課題といえる。
今回の賃上げに際しては、企業による体力の違いもあり、一過性の対応に終わる企業と、将来も見据えた方針を定め社員等に示すことのできる企業に二分されるのではないか。こうした説明においては、福利厚生や仕事・キャリアなども含めたトータルリワードの視点や雇用の方針も含めた全体像として示すことができるかも企業にとっての試金石といえる。
02 市場優位性を生み出すための戦略的賃上げに向けた方針を策定できるか
インフレ下での社員の生活を守ることが賃上げの目的であることは各社共通している。この目的のもと社員一律の賃上げという対応に留まるのであれば、報酬面での競争優位性を高めることは難しく、優秀な人材の採用やリテンションなどにおける効果は限定的である。
そこで、今回の賃上げを他社に対する報酬上の優位性を築く機会と捉え、原資を重要人材に重点的に配分することが考えられないか。昇給原資を概念上2つに分け、インフレ対応として幅広い社員に適用する底上げとしての原資を確保したうえで、重要人材に特別な原資を設け市場優位性を確保する。実際、このような敏捷・柔軟な動きを取る企業とそうでない企業とで施策に違いが表れつつある。
ただ、「初任給最高〇〇万円」「新卒年収最高〇〇万円」といったアドバルーンを上げている企業であっても、既存社員への配慮から戦略的な運用が実践できていない企業も少なくない。思い切った施策を講じている企業はまだ限られているのである。人材の流動性が低く報酬の市場原理が働かず水準が上がらない、と指摘される日本市場であるが、それはとりもなおさず、自社が他社を「出し抜く」余地がいくらでもあることを示唆するものである。
03 中間層の人員と報酬のあり方を見直すことができるか
経営者の報酬はここ10年で著しく上昇した。今回の賃上げ気運の高まりによって、若年層を中心とした賃金の底上げも期待される。
一方で、いわゆる中間管理職における水準のあり方が話題に上ることは多くない(例えば「部長で2,500万円到達」といった話はとんと耳にしない)。国際的にみても、日本の中間層、とりわけその上位層の報酬水準は低い *1(図1)。果たして、各企業において現場の中核的存在である中間層の報酬水準が現状のままでよいのか。
ただ、多くの大企業ではバブル世代の大量採用によって中間層の人員が膨らんでおり、中間層の報酬の一律引上げは考えにくい。スリムな組織や役割・職責に応じた処遇を徹底しつつ、重要な中間層人材の報酬競争力を確保できるか、複合的な視点が求められよう *2。この中間層の議論には、部下を持つマネージャーのみならず、部下を持たずに高い専門性を通じて組織に貢献するいわゆる「高度専門人材」の処遇改善もあわせて論じられるべきである。
04 株式報酬を活用できるか
昨今、経営者のみならずその下の上級幹部層に対して幅広く株式報酬を付与する事例が徐々に増えている。日本における株式報酬の活用は明らかに一歩出遅れており、人材獲得上不利な状況に置かれている *3。
株式報酬の付与は、自社の企業価値に対する意識の強化や総報酬としての競争力の確保を通じ、優秀な人材の確保につなげる効果が期待できる。株式報酬は、他社が踏み込んでいない今こそ、容易に差別化ができる一つの方策といえる。03で述べた中間層の報酬水準強化の一方策として考えることもできよう。
05 現場の状況に即した報酬の意思決定が行えるか
日本の大企業においては、人事部を中心とした統一的な賃金管理が行われ、長期雇用や部門を越えたジョブローテーション等を実現するうえで機能してきた。一方で、ダイナミックに変化する人材市場やグローバル化も含めた事業・組織の状況を踏まえ、旧来の画一的な対応から脱却するのであれば、一元管理にも限界が生じる。各部門等でスピーディーな判断を行うために、現場への給与の決定権限の付与について、日本企業もそろそろ考えるべきときが来ているのではないか。
もし現場での運用を実行する場合、人件費を適切な範囲でコントロールするために、どのような形で各部門が原資の枠内で起案し、人事や経営が意思決定するのか、といったプロセスを整備しなければならなくなる。また、どの程度特例的な対応を許すのか、といったガイドラインも必要になる。こうした意思決定に要する知識をマネージャーに身に着けてもらうことも欠かせない。
報酬決定権限を現場に与えこれらの一連の基盤を整備することは、迅速かつ的確な報酬判断を下すことのみならず、日本企業におけるマネジメント力の強化に資するはずである *4。
最後に
経営者に対しては、以前に比べて高額となった報酬に見合う形で業績の達成や成長が求められており、営業利益率やROE・ROICなどの利益率等の向上を目指すことが織り込まれていることも珍しくない。一方で、一律の賃上げや他社と横並びでのジョブ型人事制度の導入は、プラスの効果をもたらすどころか利益率の悪化を招くだけに終わり、目指す成長や事業戦略の実現を阻害しかねない。
一時的な利益率等の悪化は不可避としても、賃上げによる人材への投資を伴いながら、事業ポートフォリオの見直しや大幅な生産性の向上、新たな付加価値の創出などによって中長期的かつ非連続な成長を実現することができるか。日本企業は一つの正念場を迎えている。
脚注
*1 日本において、日本企業と外資系企業との間でも差があり、日本企業はさらに低い。
*2 中間層における重層的な階層構造や兼務を多発させる組織設計・人員配置などは、日本企業における非効率な組織運営の象徴といえ、スリムかつ迅速な意思決定を可能とする組織を実現するうえでの課題である。
*3 日本市場においても、外資系企業が厚みを持った株式報酬を提示し、人材獲得に失敗するケースが散見される。
*4 日本のグローバル企業において、海外幹部との間での報酬交渉に至るとき、本社の上司(日本人)が直接的に交渉に乗り出す場面は限られ、多くは人事等に任せている。マネジメントからの報酬の分離といえる状況は、グローバル管理における日本企業の一つの課題といえよう。
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