杜氏
冬の出稼ぎから年間雇用の正社員へ。
酒造りの伝統を担う匠の世界の変化とは
今年4月にオバマ米大統領が来日した際、安倍首相は、地元・山口の蔵元が造る地酒をプレゼントした。海外の食通の間では、和食とともに日本酒の人気が急上昇している。豊かな味と香りを醸す日本酒の製造工程は、世界にも類を見ないほど複雑にして精巧。多くの職人を統率し、そのすべてをとり仕切る酒造りの総指揮官が「杜氏(とうじ)」である。時代の変化によって、杜氏の制度や働き方は変わりつつあるが、伝統の技に込める思いは変わらない。
日本酒造りの総指揮官にして最高責任者
職業としての伝統的な日本酒造りは、その働き方や雇用・就労形態に大きな特徴がある。銘酒を醸す匠の技は、もっぱら地方の農山漁村の人々により、冬場の農閑期・漁閑期に各地の蔵元(酒造会社)へ出向いて行う季節労働――いわゆる“出稼ぎ”という形で支えられてきたのだ。江戸中期以降、産業としての酒造りが高度化・複雑化する一方で、腐敗を避けるために冬季に集中して酒を仕込む「寒造り」が普及したことから、酒どころの蔵元が冬場の出稼ぎの働き口として定着していった。一つの蔵元に数名から十数名、同じ地域出身の「蔵人(くらびと)」と呼ばれる酒造り職人たちが出向く。この蔵人を集め、統率する長(おさ)が「杜氏」である。
杜氏は蔵元と請負契約を結び、酒造りに関するすべての責任を負う。そのため、原料となる米や水の扱いから麹造り、酒母造り、搾り、貯蔵、熟成にいたるまで、複雑な日本酒造りの全工程に通じ、その進行管理に目を配らなければならない。酒造りの技術面だけでなく、蔵人たちの分業体制を適切に差配し、それぞれが持ち場に専念できるよう良好な職場環境を整えることも、杜氏の重要な役割の一つである。
江戸から明治にかけて、杜氏たちを輩出する地域は全国に広がり、南部杜氏(岩手)、越後杜氏(新潟)、丹波杜氏(兵庫)の日本三大杜氏をはじめ、出身地ごとに「杜氏集団」と呼ばれる同業者組合が形成されていった。故郷の厳しい冬の暮らしを支えるために、親から子へ、師匠から弟子へと、杜氏集団ごとに独自の技が受け継がれ、磨かれてきたのである。
しかし昭和の高度経済成長を境に、全国の杜氏集団は後継者不足に陥り、高齢化が進んだ。地方でも産業が発達し、雇用が安定。出稼ぎの必要性が減少したからだ。杜氏集団の衰退や酒造りの近代化を受けて、近年、蔵元では杜氏や蔵人を社員として年間雇用し、自前の人材育成を進める動きが広がっている。大手の月桂冠ではすでに1961年から、年間雇用の社員による四季醸造の体制を導入。杜氏が携わる伝統の寒造り蔵と、社内の技能者による四季醸造蔵との両輪で酒造りを始めた。正社員として蔵元に在籍しつつ、生粋の杜氏からも薫陶を受ける新しいタイプの杜氏が、日本酒の可能性を広げる原動力になりつつある一方で、中小の蔵元ではいまも、冬季限定で杜氏を故郷から招く伝統的な杜氏文化が守られている。
海外の「日本酒ブーム」が若手のやりがいに
杜氏の仕事は、長年の経験と勘が頼りの職人技として受け継がれてきた。しかし最近では、大学で最新のバイオテクノロジーや発酵学を学び、その成果を活かす進路として酒造りを選ぶ若者が増えている。さらに女性や外国人が、杜氏を目指す例も少なくない。
消費者のし好の変化などにより、日本酒の販売量はここ40年で3分の1にまで縮小、3000以上あった酒蔵は半減した。そうした厳しい業況にもかかわらず、酒造りの道に挑戦する新しい人材が現れるのは、杜氏という職業にそれだけ魅力があるからに違いない。蔵人たちと力を合わせ、毎年一つの銘酒を造り出す達成感。自然のめぐみや目に見えない微生物の働きを巧みに操る奥深さ。持てる技のすべてを注ぎ、丹精込めた製品でこだわりの強い愛飲家を満足させる喜びとプレッシャー。杜氏とは、そうしたものづくりの醍醐味が凝縮された仕事であり、機械化やIT化が進んでも、その本質が変わることはないだろう。
新たなやりがいも生まれている。低迷する国内市場とは対照的に、海外では「和食」の世界遺産(無形文化遺産)登録の追い風を受け、日本酒ブームが拡大中だ。2001年に32億円だった日本酒の輸出額は年々膨らみ、12年にはすでに89億円と3倍近くにまで伸びている(国税庁調べ)。地方の小さな蔵元が欧米や新興国に販路を求める積極的な海外戦略で急成長したり、権威ある国際ワイン品評会に「SAKE部門」が創設されたり、日本酒に対する世界からの注目は、杜氏を志す若者にとっても今後の大きなモチベーションとなるに違いない。
技術が優れているだけでは杜氏にはなれない
蔵人となり、さらに杜氏を目指す過程ではさまざまな資質が求められる。日本酒造りは、自然と生き物が相手。その複雑にして繊細な技術をマスターするためには、粘り強い探究心や観察力、作業を進める際の丁寧さや慎重さが欠かせない。現場の雰囲気やチームワークを醸成する協調性も大切だ。下積みの段階では、雑用や作業の準備など補助的な役割が大半なので、そこからすすんで何かを学び取ろうとする姿勢が成長のカギとなる。地道な仕事をいとわない忍耐力や向上心の強い人なら、見込みがあるといえるだろう。
さらに杜氏ともなれば、全工程にわたる酒造技術面のエキスパートであることはもちろん、的確な指示で現場を引っ張る統率力や判断力に加え、蔵人の待遇から人間関係、健康状態にまで目を配る管理能力にも秀でた人格者、ジェネラリストであることが求められる。酒は一人では造れない。いかに技術が優れていても、それだけでは杜氏になれないのである。
日本酒造りに特別な資格や学歴は必要ないが、実務経験などを経て取得できる国家資格に「酒造技能士」があり、杜氏を務めるには、酒造一級技能士の資格を有することが望ましい。
実際に杜氏になるには、縁故で杜氏集団に入るケースも少なくないが、現在では蔵元や酒造会社に直接就職し、現場で経験を積む方法が一般的である。伝統的な杜氏制度の衰退に伴い、酒造りの門戸は広く開かれるようになった。現に、活躍中の杜氏の経歴はさまざまで、高卒や大卒のほか転職組も多い。
先述のとおり、日本の伝統文化に惹かれた女性や外国人、あるいは大学の農学部などで醸造学やバイオテクノロジーを研究した後、酒造りの道に飛び込む若者も増えてきている。なお、杜氏の給与に関しては、勤務する蔵元や酒造会社によって異なるが、社員として雇用されている場合は年収500万円~1000万円。杜氏としての本人の技量や実績に応じて、少なからず幅があるようだ。
先頃、日本酒造杜氏組合連合会の会長に選ばれた能登杜氏(石川県)の中倉恒政氏は就任に際して、「高級な酒を楽しみながら飲む時代になり、杜氏はますます高度な技術を要求されている」と述べた。酒造りの道を真摯に究めようとする人にとっては、望むところではないだろうか。内需の低迷や後継者不足などで、業界は長く斜陽に甘んじたが、復活の気運は高まっている。日本酒の伝統を支える杜氏という存在にも、今後さらに光があてられることだろう。
※本内容は2014年8月現在のものです。
この仕事のポイント
やりがい | 毎年、ひとつの酒を造り上げる「ものづくり」の喜び |
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就く方法 | ・蔵元の会社に入り、杜氏の元で蔵人として修業を積む ・醸造科がある大学を卒業し、酒造メーカーに勤務して杜氏を目指す ・資格は必要ないが、酒造一級技能士を取得している杜氏が多い |
必要な適性・能力 | ・多くの職人をまとめる統率力やコミュニケーション能力 ・体力はもちろんのこと、酒造りのプレッシャーに負けない精神的な強さ ・求める酒を造り上げるための探究心 |
収入 | 勤務する蔵元や酒造会社によって異なるが、社員として雇用されている場合は年収500万円~1000万円程度 |
あまり実情が知られていない仕事をピックアップし、やりがいや収入、その仕事に就く方法などを、エピソードとともに紹介します。