新日鉄住金ソリューションズ株式会社:
あるべき未来像から「仕事」を考え、「働き方」を語る
それが企業社会を支える人事パーソンの使命(後編)[前編を読む]
新日鉄住金ソリューションズ株式会社 人事部専門部長/高知大学 客員教授
中澤 二朗氏
アプリケーション、OS、ハードウェア――雇用をめぐる課題の構造
それならば、われわれは、企業を使えるものにしていくほかありません。9割が企業に頼らざるをえない現実があるなら、単に不平・不満をぶつけるだけではなく、前向きに企業を使い倒していく必要があります。あるべき未来像を自分たちで考える。それを実現する企業を自らの手でつくる、という気概が求められます。デフレと少子高齢化に悩まされ、経済成長という面ではアジア新興国の後塵を拝するようになってしまったこの国を、もう一度よみがえらせるためには何が必要か。一人当たりGDPが世界平均の5倍にあたるこの国の生活レベルをどうやって今後も維持し、向上させることができるのか。そのためには、どんな人材を育てていけばいいのか。現実をみすえた、冷静な議論が求められています。
あるべき未来像を起点にして日本の雇用や働き方の状況を読み直すとき、人事担当者には、具体的にどのような見方や考え方が求められるのでしょうか。
たしかに、どこをどう見ればいいのか、難しいですよね。しかしそういうときは基本に帰って、そもそもこの国のシステムはどうなっているのかを振り返ることから始めたらいいと思います。先にもふれましたが、日本型雇用システムは、採用を「入口」とし、定年を「出口」として、その間に育成、異動、評価・処遇などが入ってくる、すべての機能がワンパッケージになっているところに特徴があります。欧米の採用は欠員補充方式で、仕事は「できるか、できないか」で判断する、いわゆる「ジョブ型」です。これに対して日本は、仕事や場所・時間を定めない「無限定型」の働き方を常態としています。その広がりは広範にして複雑で、とても一筋縄ではいきません。採用なら採用だけ、処遇なら処遇だけといった部分だけを取り出すわけにはいかないのです。部分の最適を追えば、全社の最適を見失ってしまいますから。非常にわかりにくく、説明もしにくいので、ダメだ、古いとの烙印を押されている可能性もあります。しかし、そんなダメなシステムを少なくとも半世紀以上持ちながら、どうして日本は戦後の廃墟から立ち上がることができたのか、説明できる人はいません。本当にダメなら捨てればいいのですが、それが捨ててよいものやら、ことの本質が理解できていなければ迂闊(うかつ)に手は出せません。
では、ベテラン人事でさえも手をこまねいているこのテーマに、どうしたら迫れるのか。私は、そんなとき、パソコンの機能になぞらえて話すようにしています。パソコンは、下から、ハードウェア、OS(基本ソフト)、アプリケーションの三つの層が積み重なってできています。それになぞらえれば、一番上のアプリケーションは、個別企業の人事制度や施策。OSに相当するのがこの国の雇用制度や雇用慣行。ハードウェアがそれを補完する教育制度や社会保障制度および文化や風習ということになります。私たちはこの三つの層のどれを議論しようとしているのか、事前にすりあわせておかなければ、議論そのものが成り立たないということです。
答えを先にいえば、いま議論が求められているのは、OSにあたる日本統一の雇用インフラをメンバーシップ型からジョブ型に変えるかどうかです。アプリケーション層であれば、外資系企業が既にそうしているように、所詮(しょせん)は私的自治の話で、好き勝手に変えて構いません。ハードウェア層であれば、あまりにも議論は壮大。とても文化や風土まで変えられるとは思えません。このように議論の焦点がOSであるにもかかわらず、ある人はアプリケーションを変えろといい、ある人はハードウェアを変えろといっていたら、そもそも話しは噛み合いません。そんなすれ違いが今起きているように思います。
問題になるのは、真ん中の“OS”にあたる部分ということですね。
その通りです。車を例にすると、OSを変えるということは、その国統一の車線を変えるようなものです。「左側通行」を「右側通行」に変えようとすれば、それに伴うありとあらゆるソフトやハードを変える必要があります。日本型雇用システムが「左側通行」前提のワンパッケージであれば、それを「右側通行」に変えるためには、それを前提とする、採用から退出までの変更後のワンパッケージを考える必要があります。そして変更前の得失と変更後の得失を比べ、どちらが良いかを見定めなくてはなりません。むろん、その実行可能性と実行した場合の新たな課題と対策も付け加えた上でです。そうでなければ議論はかみ合わず、かみ合っても地に足の着いたものにはなりません。
「日本的雇用システムは根っこから変えなければいけない」と意気込む人は数多くいますが、その「根っこ」が、このように同床異夢であれば、まとまる話もまとまりません。加えて、さらに話をややこしくするようで恐縮ですが、この国は、法律と雇用慣行がねじれています。実は法律はジョブ型で、雇用慣行はメンバーシップ型。そのギャップを裁判所の判例が埋めているという実態があれば、その違いを認識することなくことにあたると、とんだ誤解やミスリードが生まれてしまいます。
どういうことでしょうか?
ご存じのように、日本は「就職」ではなく、「就社」社会です。職務に定めのない雇用契約(メンバーシップ契約)のもと、部署や職種を超えてダイナミックに人を育てる「メンバーシップ型」の雇用慣行が定着しています。ところがハローワークの仕事も、学校で指導されるのも、ジョブ型です。その典型が「ジョブ・マッチング」という言葉で、就労支援は「職業」紹介であっても、「会社」紹介ではありません。法律がそう定めているからです。法律そのものがジョブ型であれば、それに依拠する就労支援がジョブ型になるのは当然。当然であるがゆえに、ジョブ型の法律とメンバーシップ型の雇用慣行のねじれに、なかなか気づくことができません。
相手が仕事経験豊かな人であれば、「やりたい仕事を探しなさい」「合わなかったら会社を変えてもいいのですよ」という指導をしても、分別がつきますから問題はありません。しかし、それが仕事経験のない新入社員であれば問題です。企業が本人の好き嫌いにかかわらず、メンバーシップ型の無限定な働き方をさせて一人前にしようとしているのに、本人は「嫌だから」「知らない仕事だから」といっていうことを聞かず、挙句は会社を辞めると言い出したら、新卒を「入口」とする日本的雇用システムが成り立たないからです。語弊があるかもしれませんが、就「職」指導が、就「社」前提の新人育成とねじれているわけで、それが早期の若者離職の引き金になっている怖れがあります。
それでも、2000年代初頭までは、こうした問題は顕在化しませんでした。新卒一括採用によって職場と学校の接続がうまくいっていたからです。選り好みをしなければ、また、職業観を身についていなくても、誰もが新卒で社会人になれました。ところが、現在はその状況が大きく変わっています。職場と学校を円滑につなぐ仕組みにガタが来て、そこからこぼれ落ちる学生が増えているのです。理由は二つあります。一つは先ほども言った、ジョブ型キャリア指導とメンバーシップ型の企業の雇用慣行との間にねじれ。もう一つは、次元の食い違いです。ガタがきているのは職場と学校をつなぐエスカレーターというインフラ。にもかかわらず、その機能不全を「キャリア指導」という名の人海戦術に委ねるのは、お門違いです。