田中潤の「酒場学習論」【第36回】
青山「マルメロ」と、誠実な期待値調整
株式会社Jストリーム 執行役員 管理本部 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
私はよい酒場を探し出す力については、そこそこ高いものを持っていると思います。今日紹介する酒場に出会ったのも、そんな力を遺憾なく発揮した夜です。赤坂と青山の間のとある劇場でミュージカルを観たあと、少し食べて呑みたくなりました。つぶしの効く赤坂に戻るのではなく、青山方面に行くことにします。酒場をほぼ訪ねたことがないエリアでの新規開拓です。酒場が集まっているイメージもあまりない街です。でも、必ずよい酒場があるはずです。
表通りをはずれて裏通りを歩きます。よい酒場は足で稼いで探すのが一番です。地方都市に行くと、到着後の日中に街中をくまなく歩き回り、夕暮れ時になってから攻め入るエリアの目星を付けるのが楽しみです。しかし、青山の裏通りはやはり、店がまばらです。何軒か「ここでもいいかな」という酒場を抑えたあとに、この酒場の看板が目に入りました。ひかれたのは「モロッコBAR」という初めて出会った言葉です。
中は明るく、一人呑みにはちょっと場違いかなと思いつつも、躊躇なく店に入ります。お店の方の姿は見えず、入口近くのカウンター席で一人呑んでいたお客さまが迎えてくれ、奥のキッチンにいるオーナーに声をかけてくれました。結構な席数をワンオペでこなしているようです。キッチンは奥まったところにあり、調理中はフロアに目が行き届きません。それを埋めてくれる常連のお客さまがいる酒場は、間違いなくよい酒場です。
モロッコ料理といえば、タジンとクスクスが浮かびます。あと、スパイスとハリッサを多用するイメージです。私がとても好きなジャンルです。モロッコ”料理屋”とのみ表記されていると、ちゃんと食べなければいけないように感じて一人呑みにはハードルが高いのですが、モロッコ”BAR”営業もしているというだけで気軽に入れます。モロッコ” BAR”看板がなければきっと敬遠したでしょう。「一人で気軽に入って料理をつまみながら呑んでもいいよ」というメッセージがこの看板に込められています。これは簡単なようですごいことです。そして、カウンターでいただく料理はどれも魅力的で美味しい。
ランチ時や大勢の予約が入ったときは、人を頼むこともあるそうですが、基本はワンオペ酒場です。混んでいるときに新規のお客さまが入ってきたら、オーナーがワンオペの店であること、少し時間を取らせることを丁寧に説明しています。これが大事なんです。同じ待ち時間でも、この説明があるのとないのでは、体感する時間が変わってくるのです。
これをビジネスで応用する考え方に、「期待値調整」があります。人は近未来に起こることについて何らかの期待を抱きます。結果が期待値に満たないと不満が残り、期待値に達すると満足します。また、期待値を大きく超えると感動を呼びます。たとえば、店を選択する時間がなくて駅前のさえない風情の食堂に入ったとします。そこであまり期待もせずに頼んだカツ丼が素晴らしく美味しかったとき、期待値をはるかに超える感動を人は得ます。この原理を使って、相手の期待値を上手に調整するのです。
得意先が2社の納入パートナーに同じ企画の提案を依頼したとします。かなり難しい案件ですが、納期は明示されませんでした。しかし、得意先での後工程を考慮すると、早く提案した方が良さそうな案件です。
A社の担当は、その日のうちに提案をまとめ、翌日に提出しました。それ以上練ってもより良い提案はできそうになく、多少粗雑な内容なのは承知の上で、スピード重視で勝負に出たのです。お客さまの反応は、「すぐに出してもらって助かるよ。提案内容はかなりあら削りだけど、1日でやってくれたのだから、まあ無理もないと思う。あとは社内で調整できる範囲内だよ」というものでした。スピードという概念を使って、期待調整に成功したケースです。
これに対して、B社の担当は熟考に熟考を重ね、さまざまな調査もして提案を練りました。そんなさなかにお客さまから電話が入り、すでにA社から提案されているので早くしてもらわないと困ると言われます。あわてて提案を仕上げて翌日、お客さまに持ち込みます。お客さまの反応は、「これだけ時間をかけたのだから、練られた提案だろうと期待したけれど、調査内容は充実していても、提案自体は中途半端だな」というものでした。提案内容だけを見るとB社の方が上かもしれませんが、待たせされることにより期待値が上がってしまったのです。
逆の期待値調整もあります。期待値を意図的に高めるのです。私は人事責任者として2回転職していますが、転職後なるべく早いうちに、社員が「おっ」と思うような施策を入れることを意識しました。新しい人事部長に対する社内の期待値を高めて、仕事を進めやすい環境をつくるのです。
このとき大切なのは、打算的にやってはいけない、ということです。あくまでも誠実に行います。相手の気持ちになって誠実にやるからこそ伝わるのです。マルメロのオーナーはそれが自然体でできているように感じました。モロッコ”BAR”という打ち出しは、相手にモロッコ”料理屋”とは違う期待感を与えます。そのおかげで私は店に入ることができました。混んでいるときに入ってきたお客さまに伝えるエクスキューズも、まさに誠実な期待値調整です。どんなに忙しくてもバタバタ感を見せずに立ち振る舞うのもさすがです。
初めて「マルメロ」にお邪魔した翌週末、本連載でもご紹介した月島のロックなワインバー「マーキームーン」で呑んでいたら、「マルメロ」のオーナーが呑みに来られました。偶然にびっくりです。「マーキームーン」のオーナーとその場に居合わせたもうお一人と、最初に「マルメロ」で迎えてくれた常連客と一緒に「マルメロ」でモロッコ料理を楽しむ会がすぐに生まれました。酒場はつながっています。私たちはさまざまな期待を胸に酒場を訪れるのです。
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 執行役員管理本部人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会副会長。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。