新日鉄住金ソリューションズ株式会社:
あるべき未来像から「仕事」を考え、「働き方」を語る
それが企業社会を支える人事パーソンの使命(前編)
新日鉄住金ソリューションズ株式会社 人事部専門部長/高知大学 客員教授
中澤 二朗氏
<私はそもそもこんな「義務」と「使命」が大事だと思っています。「義務」とは、この国の生き残りをかけた産業の高度化要請に人事として応えることです。「使命」とは、高賃金国・日本にあって引き続き雇用維持に努め、生きがいに生きる暮らしに向けて人事を尽くすことです>。これは『働く。なぜ?』(講談社現代新書)という本の一節です。著者は、新日鉄住金ソリューションズ株式会社・人事部専門部長の中澤二朗さん。日本のものづくりの屋台骨を支え続ける鉄鋼業界で激動の時代を経験し、30年以上にわたって人事・労務全般に取り組んできたエキスパートです。先述の「義務」に応え、「使命」を果たすために、人事パーソンは何を目指せばいいのか。また、それを目指すうえで、足下の雇用や働き方の実態をどう捉えればいいのか。ご自身のリアルな経験談を交えながら、人事の大先輩にじっくりと語っていただきました。
- 中澤 二朗氏
- 新日鉄住金ソリューションズ株式会社 人事部専門部長/高知大学 客員教授
なかざわ・じろう●1975年、新日本製鐵株式会社(現、新日鐵住金)入社。鉄鋼輸出、生産管理、労働部門などを歴任。1988年、IT事業の人事部門に異動。 2001年、新日鉄ソリューションズ株式会社(現、新日鉄住金ソリューションズ)の発足に伴い初代人事部長。現在、同社人事部専門部長。2011年からは高知大学客員教授を兼職。またエンジニアリング協会HRM研究会委員長、山口大学外部評価委員、企業活力研究所人材委員会委員等も務めるかたわら、日本経済新聞社や労務行政研究所において「ジローさんの迫熱教室」を主宰。著書に『「働くこと」を企業と大人にたずねたい』(東洋経済新報社)、『働く。なぜ?』(講談社現代新書)、『日本人事』(共著、労務行政)がある。
日本という船のへさきに立ち、一番前でその行く末を見てみたい
まず、中澤さんご自身のキャリアについてお聞かせください。貴社の母体である鉄鋼メーカー最大手の新日本製鐵(現、新日鐵住金)に、中澤さんが入社されたのは1975年。鉄鋼不況のさなかで、業界は大変な時期でした。
たしかに入ってからしばらくは、合理化に次ぐ合理化でした。ただ、新人の頃は、自分の会社や業界がどう大変なのか、はっきり言ってよく分かっていませんでした。というより、就職前から、そういう関心があまりなかったんです。そもそも、企業に勤めようという意欲からして、それほど強くありませんでした。当時は、公害問題やロッキード事件が世間を騒がせ、企業がさんざん叩かれていた時代で、私自身、会社や組織といったものに、いいイメージをもっていませんでした。もっと言ってしまえば、“伏魔殿”のようなところだろうとさえ思っていました。当時の私にはサラリーマンになるしか、食べていく道が残されていなかったにもかかわらず。だから、会社に入って早々は、とにかく前向きになれませんでした(笑)。
それでも最終的に、新日鐵という企業に入る道を選ばれたのはなぜですか。
大学の恩師に「行きなさい」といわれたから……というと、身も蓋もありませんが、実際、そんな感じでした。いっこうに就職活動に身を入れない私の行く末を案じた先生が、たまたまキャンパスを訪れていた新日鐵のリクルーターを紹介したのがきっかけです。いわれるままに面談を3、4回受けて「ぜひ当社に」となったのですが、それでもずいぶん悩みました。他に行くあてはないにもかかわらず、です。
では、なぜ会社に入ったのか。結局のところ、こんなふうに自分を納得させたのだと思います。企業のせいで世の中が悪くなり、どのみち日本という船が“沈没”するなら、いっそのこと、その船のへさきに立って、そのあり様をつぶさに見たい――。格好をつけているつもりはありません。その時は本当にそう考えました。正直、会社の規模とか、格とか、まったく頭にありませんでした。それどころか当時の新日鐵は、大手2社(旧八幡製鐵と富士製鐵)が合併して独禁法違反ではないかと、ずいぶん騒がれていました。私が入社するほんの5年前のことです。だから船のへさきで“沈没”を目の当たりにしようと、生意気なことを考えていたのでしょう。そうやって、入社に躊躇する気持ちとの折り合いをつけたのではないかと思います。私は事務屋として入りましたが、最初の配属は姫路の製鉄所でした。担当は現場の人たちの要員管理と職務給。しかし、入社の動機がそんな調子でしたから、仕事のモチベーションなんて上がるわけがありません。間違いなく最悪の新入社員だったと思います(笑)。
著著の『働く。なぜ?』でも触れられていますが、中澤さんが“働くこと”に目覚められたきっかけは、「人生初めての上司」との出会いだったそうですね。
それに尽きます。大江暢博さんという方ですが、姫路で、しかも最初に彼と出会っていなかったら、私はまったく違う人生を歩んでいたように思います。いま振り返ると、よけいにその感を強くします。本にも書きましたが、あれは暮れなずむ仕事帰りのときでした。事務所を出たあとすぐ、夕もやに包まれた溶鉱炉の方角を見やりながら、大江さんは、こう私に問いかけました。「おい、中澤よ。みんな、あんなに頑張っているけれど、本当に幸せに近づいているのかなあ?」と。“みんな”とは、他でもありません。4組3交代、昼夜兼行で働いている鉄鋼労働者のことです。あのひと言が、私の目を見開かせてくれました。