入社日の前に社内会議への出席を内定者に要求する企業
ビジネスクラスの航空費支給を面接企業に要求する人材
採用者の入社日が待ち遠しかった企業のケース
正式入社前の会議や研修参加が入社辞退を招くかも…
急な欠員を補うための募集や早急に立ち上げたいプロジェクトがあるときなど、いったん決めた入社日まで待っていられないという企業も往々にしてあるものだ。採用した人がすでに退職済みで無職の場合などは入社日を繰り上げればいいが、在職中の場合は引き継ぎや有給消化などの関係でそうもいかない。そんな場合は、研修などの名目で数日でも早く合流できないだろうか、というご相談をいただくわけだが…。実は焦ったことが良くない結果につながるケースも多いのだ。
「ぜひ参加してほしい会議があるのです…」
「Tさんの入社予定ですけど、来月1日でしたよね。実はその前の週になるんですけど、配属先の事業部でぜひ出ていただきたい会議があると言うんですよ。それと、入社後にお願いする仕事の打ち合わせもしたいということで、2~3日でいいので、事前に来ていただくことはできないでしょうか…」
採用担当のN課長から連絡があったのは、Tさんの入社まであと半月と迫ったある日だった。
「ずいぶんお急ぎなんですね。Tさんからは、現在の仕事の引き継ぎが追い込みに入っていて、先日の土曜も出勤して業務を整理しているという話をお聞きしていますから、日程的にけっこう厳しいかもしれないですけど…」
「もちろん現職をきれいに片付けて来ていただくのが第一ですから無理は言えないとは思ってます。ですから、もし可能なら、という話ではあるんですが、事業部のほうからはTさんへの期待度が高いもんですから…」
N課長の話を聞いていて、私は何となく嫌な過去を思い出していた。こういったかたちで事前の会議や研修に出てほしいという話を引き受けて、結果的に入社を辞退された例をいくつも経験していたからだ。
「N課長、御社のご事情はとてもよくわかります。でも、Tさんの入社まではあと半月、2週間ですよね。そんなに先の話ではないですし、私の経験から申し上げますと、入社後への期待度が高いのであればあるほど、入社前の会議参加などはやめておいたほうがいいと思いますよ」
「…と、言いますと?」
N課長は不思議そうだ。
「そうですね。曖昧な話をしても仕方ないので、はっきり申し上げましょう。実は、今お聞きしたような事前の会議や研修に参加された候補者がけっこうな割合で入社を辞退したい…と言い出されることがあるんですよ」
「え、そうなんですか…」
「はい。過去にいくつも例があります。だいたい入社前にわざわざ来てもらって参加してもらいたいという会議ですから、内容はかなり重要な会議なんじゃないでしょうか」
「うーん、おそらくそうでしょうね」
「重要ということは、言い換えればけっこう重い内容ということです。重い内容の会議なんて既存の社員でも疲れるし、場合によったら気が滅入ることもありますよね。そこに入社前の人が参加したらどうなるでしょうか」
「……」
「この会社を転職先に選んだことは正しかったんだろうか…と疑い始める人が必ず出てくるんです」
「……」
電話の向こうでN課長は考え込んでいるようだ。
「そんな人は少数派だと思いますけど…」
「でも、そういう人は、入社してからだって大変な仕事だとわかったら、すぐに辞めてしまうような人じゃないんですか。そんな人は少数派だと思いますけど…」
N課長としては、入社前の会議がそんなに重大な結末を招く可能性があるということがまだ信じられないらしい。
「いえいえ、そんなに軽く考えていい問題じゃないと思いますよ。似たようなケースで入社辞退をした方からも聞き取りを行いましたから知っていますが、実はこういうことなんです」
私は説明を始めた。転職をすれば、誰もが新しい会社ではカルチャーショックを受けるという。細かい習慣の違いや社風に戸惑い、参ったな…と感じることは必ずあるのである。とくに入社後に、業務の立て直しなど困難な仕事を担当するような場合はなおさらだ。この転職の判断は正しかったのだろうか…と一度は悩むのが当たり前だとも言える。
しかし、いったん正式に入社した後であれば、人間は意外とハラをくくるものなのだ。困難な仕事に怖れをなしてすぐに退職したとあっては履歴書にもその過去が残ってしまう。ビジネスパーソンとしては恥でもある。だったら、いっちょうやってやろうじゃないか…という気になるものなのだ。
しかし、これが入社前だったとしたら、どうだろう。入社してないのだから、ここで辞退しても経歴には傷はつかない。面接を受けて話を聞いて辞退したのと同じことである。今ならまだ引き返せる。あえて火中の栗を拾うことはない…と判断する人はけっこういるのではないだろうか。
「…ということなんですよ」
「なるほど…おっしゃることはよくわかりました。いちど事業部長と相談してみます。たしかに待っていても入社日は2週間後ですものね。個人的にはきちんと入社してもらってから、バリバリやってもらえばいいような気がしてきましたよ」
N課長と事業部長が相談して出した結論は、「入社日までは来ていただく必要なし」というものだった。その後、Tさんは予定通り入社し、もちろんバリバリ活躍されているそうである。
人材のために新幹線代も航空運賃も負担する企業のケース
面接時の交通費は個人負担? それとも会社負担?
面接のために企業に出向くには電車代など交通費が必要になってくる。一般的には通勤圏からの応募者がほとんどだから、それは個人負担というのが当たり前になっているようだ。しかし、遠方からの応募の場合には、交通費の負担が新幹線代や航空運賃になるので数万円かかることもある。そんなケースでは、個人負担だけに頼っていては話が先に進まない…と、企業側が交通費を支給することもあるようだ。といっても、これもケース・バイ・ケースのようで…。
「交通費を支給してくれるのは期待の証拠?」
「Bさん、今度のU社の面接は大阪で受けて欲しいそうですよ」
Bさんはもともと関西の出身。これまで東京で働いてきたが、親の面倒をみるために大阪の企業にUターン転職を希望されていた方だ。U社は東京が本社の会社だが、大阪支店でちょうど募集があるからということで、その面接を受けてもらうことになった。
「わかりました。その日は有休を取るようにします」
「大阪ですと一日仕事ですね。大変ですがよろしくお願いします。ところで、今回は往復の新幹線代をU社さんがご負担していただけるそうです。ぜひ領収証をもらっておいてください。それと、受け取りに必要ですから印鑑も忘れずに…」
「そうなんですか。それは助かります。でも、普通こういうケースで交通費を出してもらえることはよくあることなんですか? この間面接をしていただいた別の会社は交通費が出るのは最終の社長面接のときだけだと言われましたが…」
Bさんの疑問はもっともだ。私は簡単に説明した。
「普通、1次面接のように多くの候補者に会う場合は、おっしゃる通り交通費は出ないことが多いみたいですよ。というのは、U社さんもそうですが、もともと大阪で募集しているわけです。応募者のほとんどは関西在住の人ですよね。大阪近郊からの応募者は個人負担で、遠方の人だけ会社が支給…となると不公平だということなんです」
「なるほど…」
「それと、現実的な問題としては、採用に値する人材かどうか、実際に会ってみないとわからないということもありますよね。ですから1次面接は多くの人を集めることが多いわけで、それに全部交通費を支給していたら大変…ということもあるんじゃないでしょうか」
「では、今回のU社さんが新幹線代を出してくれるということは、期待してもらっているということでもあるんでしょうか?」Bさんの声がちょっと明るくなった。
「そうですね。遠方からの方には一律支給する規約になっている企業もあるみたいですけど、その場合も、交通費が必要な遠方からの応募者については、それだけの支出をする価値があるかどうかも含めて書類選考をされているんじゃないでしょうかね」
「…ということは」
「Bさんの履歴書などを見て、U社さんはかなり期待していると思っていいでしょうね。その期待に応えるべく当日はぜひ、がんばってください」
「ありがとうございます!」
Bさんの面接へのモチベーションはかなり高くなったのではないだろうか。
「海外面接の場合はビジネスクラスでお願いします…」
「いい人材がいらっしゃったらぜひ紹介をお願いします。なにしろ私どもの地元にはこういう特殊な技術を持ったエンジニアはまずおりませんのでね。どうぞよろしくお願いします」
月に1回程度の割合で熱心に電話をくれるのは、首都圏ではないある地方の企業の採用担当Kさんだ。こういう地元で採れない人材を東京で探したい…という場合も、もちろん交通費は会社負担である。場合によっては、Kさん自身が東京に出向いて面接を行うこともある。
「交通費を支給するだけでは忙しい方は面接に来てくれませんからね。お金の問題だけじゃなく、時間的な負担も企業側が覚悟しておく必要があると思っていますよ」
実際にKさんは人事が行う1次面接だけでなく、2次面接の部長クラスや役員までも説得して東京まで同行してくることがあるようだ。応募する側にとってみれば、至れりつくせりである。しかし、特別なスキルを持った人材についてはそれくらいするのが当然なのだという。
一方、応募者のほうでも、企業側の都合であちこち行かされる場合には、自分の主張を貫く方もいるようだ。たとえば、外資系企業でダイレクタークラスの採用となると、最終面接は海外の本社まで来て欲しいというケースもある。
「カリフォルニアですか。問題ありません。住んでいたこともありますから」
なんとも頼もしいGさんも大手外資系企業の最終面接に残った方だった。
「でも、僕、ビジネスクラスじゃないと嫌なんですよ。以前、腰を痛めたことがあって、エコノミーだと長時間は無理なんです。旅費はその分出してもらえるんですかね。それとできればマイレージを溜めたいんで、僕がいつも利用している航空会社にしてもらえるとうれしいんですけど…」
なんともわがままな注文だが、おそろしいことにこれが全部通ってしまうのだった。企業側としては、優秀な人材に再度めぐり合うのにどれくらいの費用がかかるのか…という計算になるらしい。再度同レベルの人材を探す手間と費用を考えれば、ビジネスクラスなど安いものだ、ということなのだ。
いろいろなレベルの違いはあるが、企業側もあれこれと採用のための努力をしているのである。それらが具体的に現れる一つの要素が交通費の支給なのかもしれない。