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「安全学」から考えるウェルビーイング
労働災害を防ぐ取り組みが従業員を幸福にし、企業を発展させる

明治大学 顧問 名誉教授

向殿 政男さん

向殿政男さん(明治大学 顧問 名誉教授)

近年、従業員が身体的・精神的・社会的に良好な状態にある「ウェルビーイング」が注目されています。ウェルビーイングによって従業員のエンゲージメントを高め、生産性向上や企業の発展につなげようという考え方は今や世界の潮流といっていいでしょう。一方で、働く現場では身体、精神の不調につながる労働災害を防ごうとしてもなかなか減らない現状があります。「安全」について十分な知識を持つ人事パーソンが少ないことも課題の一つです。企業は安全やウェルビーイングにどう取り組んでいけばいいのでしょうか。長年にわたって労働安全を研究し、「安全学」の提唱者でもある明治大学名誉教授・向殿政男さんに、日本企業の労働安全衛生の現状や課題、今後の展望などについてうかがいました。

プロフィール
向殿政男さん
明治大学 顧問 名誉教授

むかいどの・まさお/専門は安全学、情報学、論理学。1965年明治大学工学部電気工学科卒業。明治大学大学院工学研究科電気工学専攻修士課程修了。同大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。73年明治大学工学部電気工学科助教授。78年同大工学部電子通信工学科教授を経て、2013年より同大名誉教授、2014年より同大顧問。公益財団法人鉄道総合技術研究所会長、一般社団法人セーフティグローバル推進機構会長を兼任。主な著書に『安全四学―安全・安心・ウェルビーイングな社会の実現に向けて』(日本規格協会、共著)、『入門テキスト安全学』(東洋経済新報社)などがある。

労働安全の考え方を抜本的に見直すべき時代

はじめに、向殿先生の研究分野の概要と、「安全学」とはどのような学問なのかをお聞かせいただけますか。

もともとの専門は工学です。大学ではファジー理論、AI、ニューロなど、現在の情報科学分野を研究していました。安全をテーマとするようになったのは博士課程に進んでから。それ以来ずっと情報科学とともに取り組み続けてきて、今では私のライフワークになっています。

一口に安全といっても、非常に幅広い領域を扱います。最初はプレスマシンなどの危険な機械を技術的に安全にする「機械安全」の研究からスタートしました。次に取り組んだのは、家庭でガス機器などを使う際に重要な「製品安全」。さらに「労働安全」の分野にも関わるようになりました。労働現場では、機械でけがをするだけでなく、病気になることもあるので、「労働安全衛生」も考えなければなりません。一般消費者を守るための「消費者安全」という観点もあります。

このように幅広い分野で研究しているうちに、どの安全にも共通する部分があることに気づきました。それらを統合し、誰もが同じ土台で議論し合える包括的な学問体系をつくることが必要ではないか。そう考えてスタートしたのが、ものづくりの安全を対象とする研究分野である「安全学」です。30年以上にわたって、研究者同士が専門的に学び合える環境を整える活動を続けています。

現在、「安全学」の研究はどの程度広まっているのでしょうか。

国内では少しずつ研究者が増えてきています。ただし、海外ではまだこれからです。英語では「Safenology(セーフノロジー)」と表記します。私がつくった造語ですが、外国人からも意味がよく分かると言ってもらえます。安全学の必要性は理解されていて、国際会議でも何度か講演しました。後ほど詳しく説明しますが「ビジョン・ゼロ活動」など、海外の労働安全運動にも安全学の考え方が反映されています。

長年にわたり安全を研究されてきた立場から、現在の企業における労働安全衛生の状況をどのようにご覧になっていますか。

まず歴史を振り返ると、日本で労働安全衛生の概念が確立されたのは「労働安全衛生法」ができた1972年といえます。この法律はイギリスの同法よりも2年早く、企業経営者はそのリーダーシップをもって組織的に労働安全衛生に取り組むべきである、という理念を示した非常にすばらしいものでした。

これを受けて1973年には「ゼロ災運動」がはじまります。現場で注意しながらケガのないように働こうという活動ですが、徐々に労働安全に対する考え方の変化にもつながっていくものでした。つまり、最初はトップのリーダーシップが重要とされていたのが、しだいに自分自身で注意して身を守ろうとするボトムアップを基本とした活動になっていったのです。「5S運動」や「危険予知訓練」などは、その結果として生まれた取り組みといえます。

ゼロ災運動をはじめとする活動は成果をあげ、1970年代から労働災害は急減していきます。機械設備を安全なものにするリスクアセスメントの概念が法律に取り入れられた効果もあり、死亡事故はかなり減りました。

しかし、近年は職場の中心が製造業から第三次産業に移り、危険の種類や性質が大きく変化しています。その結果、メンタル不調など心身の健康の問題が増え、労災全体の件数はここ数年は増加傾向にあります。つまり、現場主導のボトムアップによる従来型の取り組みだけでは防ぎきれなくなっているのです。労働現場全体を見れば、そろそろ抜本的に考え直す時期に来ているといえるでしょう。

具体的には、どのように考え直すべきなのでしょうか。

これまでの安全は、事故にあってけがをしない、心身の不調で病気にならないといった「マイナス領域を減らす」発想を原点としていました。しかし、これからは安全で健康に、さらに生きがいややりがいを持って働ける環境をつくるという「プラス領域を増やす」発想に切り替えなければなりません。近年注目されている「ウェルビーイング」の考え方です。メディアなどでもよく取り上げられるようになりました。

ウェルビーイングを実現するには、安全や健康が必須です。機械設備を十分に整えて安全な職場をつくれば、事故を心配することなく、元気で楽しく働けます。病気を予防すれば、心身ともに明るく前向きに仕事ができるでしょう。そのような大前提があってはじめて、やりがいや生きがいを持って頑張れるようになります。「安全・健康・ウェルビーイング」の三つを一緒に考え、マイナス面だけでなくプラス面ももっと前面に出していくべきなのです。

日本の発想を欧州流にアレンジした「ビジョン・ゼロ活動」

安全については、欧州発で大きな潮流になりつつある「ビジョン・ゼロ活動」も注目されています。その背景や日本での広まりについて教えてください。

きっかけは、日本でのゼロ災運動を受け、日本流の労働安全活動に熱心だったトヨタが2000年にイギリス、フランスなどに現地工場をつくったことです。トヨタはそこでも日本流の労働安全を展開し、労災の発生を極めて低く抑えることに成功しました。これが欧州の人たちを驚かせました。もともと欧州は移民労働者が多く、管理者が上から指示を出すだけで、日本のような現場主導によるボトムアップ型の安全という考え方はなかったのです。

ゼロ災運動の威力を目の当たりにし、多くの企業で「素晴らしいから、我々もやろう」という動きがありました。フィンランドの「ゼロ・アクシデント・フォーラム」を皮切りに、ドイツなど欧州全域にその活動が広がっていったのです。ただ、日本式をそのまま導入したわけではなく、欧州流にアレンジされていました。もっとも大きく違っていたのはトップ主導だということ。欧州には現場主導によるボトムアップの土壌がないので、トップダウンの方が話が早いわけです。

向殿政男さん インタビューの様子

欧州全土で成果が出たことを受け、2017年に「ビジョン・ゼロ」の概念が確立されます。国際会議で正式に発表され、世界的にも労働安全活動の主流として拡大しつつあります。

「ビジョン・ゼロ」の特色は他にもあります。先ほどお話ししたように「安全・健康・ウェルビーイング」の三つをセットで考えていることです。また国の機関の関与も大きな特色の一つです。「ビジョン・ゼロ」では、各社が改善できた事例を発表しあって、それぞれできる範囲で取り組んでいくのですが、それを国の機関が積極的に支援しています。実際、国際フォーラムなどに行ってみると、政府機関の職員が多数参加しています。

もともとは日本の活動がきっかけだったというのは驚きでした。

そうですね。ただ、単に日本流をまねただけではなく、欧州ならではのカスタマイズもされています。それが世界標準になって逆輸入されてきたので、日本企業にはやや戸惑いもあるようです。たとえば欧州ではボトムアップ自体が難しいため、経営者が先頭に立つトップダウンの形をとっていますが、日本企業からは「トップがそこまで安全に本気になってくれるだろうか」といった声も聞きます。

また、政府機関の関与でいえば、厚労省は「現場の安全性を高めるのは我々の仕事だが、最終的に生産性向上や企業発展につなげるのが目的であれば経産省の仕事ではないか」という考え方で、なかなか噛み合いませんでした。

そのような状況を乗り越えて、2022年に日本でも「ビジョンゼロ・サミット」を開催することができました。このサミットが成功を収めたことで、日本での浸透にも徐々に勢いがついてきています。

「広義のウェルビーイング」はコストではなく投資

「安全・健康・ウェルビーイングの三つを一緒に進める」とのことですが、向殿先生が提唱されている「広義のウェルビーイング」との関係についてもお聞かせください。

日本ではまだウェルビーイングの概念が十分に浸透しているとはいえません。「幸福追求」と言われるほか、単に「幸せ」や「ありのまま」など、訳語もきちんと定まっていない状況です。しかし、ウェルビーイングをもっと広く「やりがい、生きがい」と捉えれば、日本の労働安全の新しい基本概念になるのではないかと私は考えています。

では、やりがいや生きがいはどうすれば実現できるのでしょうか。まずは職場の安全性を確保することが大事です。危険と隣合わせの職場では安心して働けません。さらに健康を維持する必要もあります。心身の健康があって、はじめて前向きに明るく仕事をすることができます。その結果が、やりがいや生きがいにつながっていくというのが「広義のウェルビーイング」の考え方です。「安全・健康・ウェルビーイングの三つを一緒に進める」という部分は、世界標準になりつつある「ビジョン・ゼロ活動」から学んだものです。同活動を日本に導入する際には、大いに活かせる考え方だと思っています。

「広義のウェルビーイング」の考え方を導入すると、どんなメリットがあるのでしょうか。

昨今はメディアなどでもウェルビーイング経営が注目されています。心理的安全性もトレンドワードになっています。生産性の高い組織を調査したところ、ウェルビーイングや心理的安全性が高かったので、それらを高めれば生産性や企業収益が上がるだろうという観点から注目されているわけです。

この考え方は、ウェルビーイングや心理的安全性を、生産性や収益向上の「手段」と捉えています。企業は収益を上げなくては持続できませんが、ウェルビーイングを手段として捉えると、その実現にかかるお金をコストと考えるようになり、できるだけ削減しようと考えるでしょう。すると、安全や健康を軽視することにつながる可能性があります。

そうではなく、ウェルビーイングを実現することを目的に、従業員がやりがいを感じながら働いた結果として、企業が成長して収益が拡大すると考えてほしい。ウェルビーイングを実現するために必要なお金はコストではなく、未来への「投資」です。そう考えることができれば、安全や健康のための予算を減らそうという圧力はなくなるでしょう。

「広義のウェルビーイング」を実現するには、経営のマインドセットが変わることも重要だと感じます。その実現のために、人事が取り組むべきことは何でしょうか。

一人ひとりが「どうすれば明るく前向きに働けるか」を最優先に考えて、採用や配置を行うことでしょう。単に仕事をしてもらうだけでなく、その仕事を通じてどう成長してほしいのかを考えるべきです。本人にとって何がやりがいや生きがいなのかを知ることが大切になります。このように組織内で人を育てていくという考え方は、もともと欧米企業よりも日本企業の方が得意だったはずです。

インタビューの様子

ICTで協調安全を実現する「Safety2.0」の広がり

現在、ICTを活用した新しい安全技術の時代が到来しています。向殿先生が特に重要視されている「協調安全」と「Safety2.0」は、それぞれどのような考え方なのでしょうか。

安全を大きく分けると、人の注意によって安全を確保する人文科学的な立場、設備などを技術的に安全なものにしていく自然科学的な立場、法律やマニュアルを整備して安全を管理していく社会科学的な立場、という三つがあります。以前は、それぞれの取り組みが独立して進められていました。これらが統合され、各分野の特性を生かしながら協調して安全を実現するという考え方が「協調安全」です。

ICT技術が発達したことによって、協調安全は急速に現実のものになりつつあります。たとえば従業員の体調をバイタルデータとして集めてAIを使うと、作業中のロボットは「この人は調子が悪そうだからゆっくり動こう」といった対応が可能になっています。過去の事故データを解析して「この場所では事故が起きやすい」といったアラートを環境側から出す仕組みも使われ始めています。このように人と機械と環境(物理的な環境や法律、制度などの社会制度的環境)がデータを共有し、協調して安全確保を進めることが可能となる段階を「Safety2.0」と呼んでいます。

ちなみに、機械的な技術のみで安全を実現する段階は「Safety1.0」で、データは機械から人に送られるだけです。一方、「2.0」は人からも体調やキャリアなどのデータを機械側に送り、AIなどがそれを受け取って対応するという違いがあります。

「協調安全」や「Safety2.0」が導入されている職場はすでに多いのでしょうか。

現在ICTの活用で効果を上げているのは、建築土木業界です。かつては危険な職場のイメージがありましたが、国交省主導の「i-Construction(アイ・コンストラクション)」というプロジェクトが奏功して、ここ数年で事故が急減しています。

有名なのは清水建設です。トンネル工事などで一定以上のリスクがあるとAIが判断すると、すべての機械が止まる仕組みを導入しています。また、作業員のバイタルデータから熱中症のリスクをAIが判定して、危なそうな人には作業をやめさせるシステムもあります。これまでは大勢の体調管理をリアルタイムで行うことは不可能でしたが、ICTで可能になったわけです。人が注意しなくても機械と環境が自動的に判断してくれるのですから、まさに協調安全です。

事故率が下がり、安心して働けるようになったことで、従業員が業務のやりがいに目を向けはじめており、職場のイメージアップにもつながっていると聞いています。安全とウェルビーイングがセットで改善されている良い事例といえるのではないでしょうか。

ICTを労働安全衛生活動に利用する際に注意すべき点は何でしょうか。

ICTの基本はデータです。そのデータが届かなかったとき、あるいは間違って届いたときにどうするのかを考えておく必要があるでしょう。問題が起きたら全部止めるのが安全の基本です。しかし、問題が起きたことを検知する仕組みが故障したらどうなるのか。安全の原理が分かっている人は、そこまで考えてシステムをつくります。そういう知識のある人がいないままICT利用を進めていくのは危険です。

企業内に安全の基礎知識がある人材はまだ少ないのが実状です。私たち研究者も書籍や講演活動、資格制度などで普及に取り組んでいますが、追いついていません。今後は「安全学」が常識になり、誰でも基礎的な知識くらいは持っている状態にしたいと思っています。近年はウェルビーイングへの関心が高いので、ウェルビーイングの大前提となる安全や健康とセットで学んでもらうのが近道かもしれません。

最後に労働安全衛生の課題に取り組む企業の経営者、人事担当者の皆さんにメッセージをいただけますか。

安全と聞くと、危険な場所をなくすとか病気を予防するといった「マイナス面をつぶす」活動をイメージされるかと思います。しかし、今後はやりがいや生きがいを持って働く環境をつくるという「ポジティブな面」に目を向けてほしい。ウェルビーイングを実現すると、従業員はもっと幸せになれます。その結果として、企業や組織が発展するのが理想の姿だと思います。

向殿政男さん(明治大学 顧問 名誉教授 )

(取材:2023年2月27日)

企画・編集:『日本の人事部』編集部

Webサイト『日本の人事部』の「インタビューコラム」「人事辞典「HRペディア」」「調査レポート」などの記事の企画・編集を手がけるほか、「HRカンファレンス」「HRアカデミー」「HRコンソーシアム」などの講演の企画を担当し、HRのオピニオンリーダーとのネットワークを構築している。

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【用語解説 人事辞典】
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