田中潤の「酒場学習論」【第28回】
博多・藤崎「捏製作所」と、
決めることだけで実現する世界
株式会社Jストリーム 執行役員 管理本部 人事部長
田中 潤さん
古今東西、人は酒場で育てられてきました。上司に悩み事を相談した場末の酒場、仕事を振り返りつつ一人で呑んだあのカウンター。あなたにもそんな記憶がありませんか。「酒場学習論」は、そんな酒場と人事に関する学びをつなぎます。
博多の西に藤崎という街があります。藤崎駅からしばらく歩いたところに「捏製作所」はあります。博多に行くと必ず立ち寄りたい酒場です。燗酒酒場、昼呑酒場、麺酒場……私の好きな要素がすべて詰まった酒場です。名物は店名にもなっている「蒸つくね」。さまざまな季節の食材を使った、色鮮やかなつくねがならびます。合わせるのは、いうまでもなく燗酒。明るい外の陽ざしを浴びながら、カウンターで過ごす時間は至福の時です。
以前から大好きな酒場でしたが、この年始にお邪魔してみたところ、さらに魅力が増していました。コロナ禍のさなかに捏製作所が大英断をしていたからです。もともとは普通の酒場同様に夜の営業が中心でしたが、2020年夏に金曜日の夜以外は完全に昼営業の酒場に転換したのです。営業時間は11時から19時30分、実に思い切った決断です。
別にランチ営業をするわけではありません。毎日11時から完全な酒場営業です。博多には昼呑みできる酒場が少ないと以前からお話をされていました。であれば自分たちでやってみよう、という決断です。コロナ禍で営業ができずテイクアウト営業をされていた際に、自分たちの生活を見直したことも理由にあるようです。それまではやりたいという気持ちがありながら、なんとなく昼営業酒場は無理だと思ってきたけれど、コロナ禍での経験が背中を押してくれたのかもしれません。
そしてもう一つ、自家製麺に磨きをかけました。アテにも〆にもなる麺が、何を選択するか悩まされるほどメニューに並びます。一人呑み客には、大半のメニューを少な目にしてもらえるのですが、それでも食べたいメニューを一日では食べ尽くせません。次に博多に来られるのはいつだろう、今年はもう来られないかな、などと考えているうちに、また明日来ようと思うようになります。そして、何と何を食べようと心に決め、翌日の予約をして酒場を出ます。昼酒営業のおかげで、二日連続での訪問もしやすくなったのはありがたいことです。
昼酒のできるよい酒場が少ない博多という街……そう思いながら捏製作所は、自分たちの酒場を休日以外は完全に昼酒中心の酒場に変えました。そこで行われたのは、決断です。店舗改装やメニューの大幅変更は必要ありません。決断によって、自らの「あり方」を変えたのです。
さて、私たちはこの2年間のビジネスでも、決断に迫られる日々の連続でした。その一つがテレワークの取り組みです。新型コロナウィルス感染症の最初の拡大フェーズの中で、多くの企業がテレワークを取り入れることを決断しました。否応なく、決める必要に迫られたのです。
もともとテレワークは日本のビジネス社会に入ってきていましたが、一部のIT企業などを除いて、なかなか定着していませんでした。旧来的な労働慣行を大きく変えることを、誰もが決められなかったのです。それがコロナ禍で一変しました。そこには特殊な技術開発もイノベーションも必要ありませんでした。単に決断が必要だっただけです。
そして、私たちは次の決断に迫られています。これからの働き方において、テレワークをどうしていくかという決断です。感染が収まるたび、出社体制に戻す企業も多いようです。通勤列車の混雑がそれを物語っています。一方で、テレワークを新たな働き方の中心に置くことを決断した企業も少なくありません。
テレワークが中心になると、どのような効果があるのでしょうか。従業員にとっては、隠れ労働時間である通勤時間がなくなります。地域のコミュニティが活きてきます。家族との団欒の時間も増えます。単身赴任が解消されます。介護離職も減っていくでしょう。こういったことが、ただ一つの決断をするだけでもたらされるのです。
「決断」が難しいのは、答えがないからです。合理的な意思決定を意味する「判断」には、おおよその正解があります。判断材料を適切に集めれば、極めて確率高く正解が得られる世界です。これに対して、正解のないことに結論を出す行為が決断です。多くの企業はコロナ禍のさなかに迫られて決断をしました。しかし、危機に迫られなくても、果敢に決断をしていくことが今、求められています。判断社会から決断社会への移行がなされることが、日本の窮地を救う唯一のアプローチではないかと思います。
博多という街の西の郊外にある、捏製作所という素晴らしい酒場。ここを営むご夫妻の決断があったからこそ、のんびりと昼酒を楽しめる日々を私たちは得ることができました。そして、この酒場の良さがますます伝わってきます。カウンターに並ぶ一升瓶を眺めながら、旨いアテと燗酒にまみれて心の底まで鋭気を養います。「決める」という行為だけで、私たちは自分を取り巻く世界を少し変えることができるのです。
- 田中 潤
株式会社Jストリーム 執行役員管理本部人事部長
たなか・じゅん/1985年一橋大学社会学部出身。日清製粉株式会社で人事・営業の業務を経験した後、株式会社ぐるなびで約10年間人事責任者を務める。2019年7月から現職。『日本の人事部』にはサイト開設当初から登場。『日本の人事部』が主催するイベント「HRカンファレンス」や「HRコンソーシアム」への登壇、情報誌『日本の人事部LEADERS』への寄稿などを行っている。経営学習研究所(MALL)理事、慶応義塾大学キャリアラボ登録キャリアアドバイザー、キャリアカウンセリング協会gcdf養成講座トレーナー、キャリアデザイン学会代議員。にっぽんお好み焼き協会監事。
HR領域のオピニオンリーダーによる金言・名言。人事部に立ちはだかる悩みや課題を克服し、前進していくためのヒントを投げかけます。