言葉の壁を越えるには何が必要か?
多様性を生かすためのコミュニケーション
上智大学 外国語学部長 ドイツ語学科 教授
木村護郎クリストフさん
人材の流動性が高まる中、さまざまな言語や文化的背景を持つ人がチームに加わる機会が増えています。語学力はあるのに会話がかみ合わない、認識にズレが生じてしまうなど、コミュニケーションには難しさが伴います。「20世紀はひたすら能力を高める時代でしたが、21世紀は制御する力が求められます」と話す上智大学教授の木村護郎クリストフさんに、多様性の時代の異言語コミュニケーションについてうかがいました。
- 木村 護郎 クリストフさん
- 上智大学 外国語学部長 ドイツ語学科教授
きむら・ごろう・クリストフ/東京外国語大学外国語学部ドイツ語学科卒、一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程修了。博士(学術)。慶応義塾大学総合政策学部講師、上智大学外国語学部准教授などを経て、2011年より現職。2023年より外国語学部長。
コミュニケーション上手に求められる新たな力
そもそもコミュニケーションはなぜ難しいのでしょうか。
「言葉は道具」だとよく言われます。道具というと、ハサミやペンのようなものをイメージしますが、言葉は人間の外にある道具とは程遠い。一人ひとりが日々の生活の中で経験したこと、社会や文化的背景を蓄積した結果が表出されたものです。
異言語話者とのコミュニケーションでは、「相手の言葉がわからないから難しい」と思われがちですが、問題は言葉がわからないことだけではありません。往々にして「分かり合えていない」状態に気づけていないことが問題なのです。たとえば、話し合っている二人が同じ言葉を使っていたとしても、その意味が同じであるとは限りません。しかし、人は「同じ単語を使っている=分かり合えている」と思ってしまい、小さな誤解が積み重なっていくのです。
具体的な例があれば教えてください。
ヨーロッパ人には「英語を話せる」と自認している人が日本人より多いと言われています。しかし英語を話せても、ヨーロッパ人はアメリカ人と違う国に生まれ、違う社会の中で育ってきたので、感覚や常識は異なっています。表面上は英語が通じているので、コミュニケーションが取れていると考え、実はすれ違っていることに気づかないこともある。常識のどこに違いがあるのか、想像もつかないのが難しいところです。
外国語でのコミュニケーションは、テクノロジーが解決してくれるケースも増えています。
確かに、機械翻訳はすごい勢いで発展していますね。外国語学習の必要はなくなるという人もいますが、機械翻訳だけになることはありえません。手段には必ずプラスマイナスがあるので、すべての状況に完璧に対応する手段は存在しえないからです。ただし、どの手段を積極的に使うのかは変わっていくと思います。機械翻訳が適したシーンでは、そのシェアが高くなっていくでしょう。
今後は、機械翻訳でできることとできないことを見極めていく力が必要です。機械翻訳、直接の会話、通訳など、その場に適した手段を選べることが「コミュニケーション上手」の一要素になると思います。
「コミュニケーション上手」の定義が変わりつつあるのですね。
従来の言語能力は、読む・書く・聞く・話すの四技能から測るのが一般的でした。一方、ヨーロッパで用いられている「CEFR」という枠組みでは、読む・書く・聞く・話すの四技能を基準にしていません。
話したり書いたりする「算出的言語活動(production)」、聞いたり読んだりする「受容的言語活動(reception)」、相手に合わせて反応する「ことばのやりとり(interaction)」、そして「仲介活動(mediation)」という四つの活動からコミュニケーション能力を構成しています。
「仲介活動」とはどのようなものでしょうか。
わかりやすいのは翻訳や通訳など、相手が理解できるようにコミュニケーションを取り持つ活動です。ただし、通訳のようなプロフェッショナルでなくても、私たちは日常生活の中で相手に合わせて言葉を選んだり、状況に応じて要約したりしています。例えば、小学生に何かを説明するシーンでは、できるだけ平易な表現を選んでいるはずです。
このように私たちは普段から仲介活動を行っていますが、これまで注目されることがなく、能力開発の対象とされてきませんでした。しかし、多様性がうたわれるようになり、現在は相手によって伝え方を調整する能力が注目されています。
今、必要なのは「制御する力」です。英語をはじめとして語学力は高ければ高いほどいいというのが従来の価値観でしたが、相手も語学力が高い場合にしか意味がありません。例えば国際会議で、英語で会話する際は、ネーティブの人もいれば、初級レベルの人もいます。初級レベルの人に対して、上級者しか知らない言い回しをすることは、コミュニケーション上手とは言えないでしょう。
「制御」というとマイナスのイメージがあるかもしれませんが、プラスの結果を生み出すためにこそ、「制御」が必要です。現在、AIをはじめとするさまざまな技術が進んでいます。とても便利ですが、過信してしまう危険性も指摘されています。やらないほうがいいこと、やってはいけないことをいかにコントロールするかが、今後必要な能力の一環になっていくと思います。
言語選択のパターンとその影響
異言語話者とのコミュニケーションには、どのようなパターンがありますか。
日本人とドイツ人のコミュニケーションを想定すると、使用する言語は通常、日本語、ドイツ語、英語が考えられるでしょう。「どの言語を使うか」に加えて、「自分たちで話す(直接的コミュニケーション)」「通訳や翻訳を介す(間接的コミュニケーション)」を組み合わせると、10以上のバリエーションがあります。
企業で使われる代表的なコミュニケーション方法を、3パターン考えてみます。一つ目は、当事者言語を使うパターン。日本人とドイツ人であれば、日本語かドイツ語を使います。
この場合、接近性が生まれやすいのがメリットです。「接近性」とは、相手の真意に近づくことです。例えば、日本語を話す外国人がいると親近感を持ちますよね。言葉には、文化が染み込んでいます。外国語を学ぶ過程でその国の歴史や文化、国民性に触れられるため、言葉の背景にある意図に近づけるようになるのです。
ただし、一方の学習負担が大きくて対等になりづらい、というデメリットがあります。また、いろいろな相手の言語を覚えることは困難なので、使える場合が限られます。
そこで二つ目の、「リンガ・フランカ」の出番となります。異言語話者が共通語として用いる言語のことで、日本人とドイツ人における英語のような存在です。アメリカ人のように英語が母語の人と英語で話す場合はリンガ・フランカには該当せず、一つ目の「当事者言語」に該当します。一方にとっては母語で、もう一方にとっては外国語という状況ですから。
共通語は使用可能性が高く、直接的コミュニケーションをとりやすいというメリットがあります。双方にとって外国語なので、対等性も基本的に担保されます。ただし、学習負担が発生し、また相手の言語を学んでいるわけではないので接近性は生まれません。
英語で話すのは最も一般的な方法だと思っていたのですが、デメリットもあるのですね。
例えば、日本人とアメリカ人が英語で話すときは、日本人が言語的に足りていない部分をアメリカ人が補うことができます。しかしリンガ・フランカの状況では、そのように頼りになる人が存在しません。担保がないところで話を進めることは、実はリスクが大きい状況と言えます。
そのリスクを回避するのが、三つ目の、通訳・翻訳を介したコミュニケーション。通訳者が、日本語をドイツ語に、あるいはドイツ語を日本語に通訳するケースです。
これまでの二つとは逆に、通訳を介したコミュニケーションには学習負担がないことがメリットです。また、人を介しているためイレギュラーにもある程度柔軟に対応できます。完璧ではないにせよ、機微を捉えることも可能です。デメリットは、直接的コミュニケーションではないため、接近性は生まれないことです。
通訳を入れることで、意味が変わってしまうのではないかという懸念もよく聞きます。
ここで考えたいのは、「自分で話す直接的コミュニケーションであっても、通じていないことは多々ある」ということです。例えば外国語で話すとき、自分が言いたいことを8割表現できたとします。それを相手が8割理解する。結果的に、伝えたいことは6割程度しか伝わっていません。このような状況が頻発するなら、通訳でこぼれ落ちる意味のほうが少ないでしょう。
自分の母語で説明ができることも大きなポイントです。知的活動には「言語面」と「内容面」の二つがあります。人間が同時にできる脳の働きは限られているので、慣れない外国語を話しながらの状態では、質の高い内容を同時に考えづらいのです。通訳を介して母語を使えれば、言語面より内容面に知能配分を割けることになります。
確かに「日本語だったらもっと話せたのに」というシーンは多そうです。
これはすでに実証されていることなのですが、人間はキャパシティーを超えると、言語面を優先します。一生懸命内容を考えていると、言葉に詰まってしどろもどろになります。このような状態は相手に対して悪い印象を与えるため、内容は薄くても、言語的にまともな見え方になるほうを選ぶほうがいい。そのため重要な会議などでは、参加者全員が外国語を話せても、議論の内容に脳内シェアを割けるよう、あえて通訳を入れる企業も少なくありません。
多言語社会に学ぶ、複雑性の許容とは
異言語話者との円滑なコミュニケーションをする上で、心がけるべきことは何でしょうか。
「〇〇オンリー」という発想を捨てることです。「英語オンリー」とか「日本語オンリー」といった手段に固執する必要はありません。例えば、英語を公用語にしている日本企業があります。しかし本当にあらゆる場面で英語だけを使っているかというと、そうではないようです。手段を一つに絞ることは一見すると効率的ですが、実際は合理的ではないことも多いのです。
今後、企業には柔軟性が求められると思います。例えば、英語で行われる会議で「ネーティブポーズ」という時間が設けられることがあります。これは、参加者が一時母語に切り替えて話し合う時間のこと。英語能力が高い人であっても、ニュアンスや機微などの細部は母語で話したほうが伝わりやすいし、母語で議論したほうが速く最適解に到達することもあります。生産的な話し合いのためには何が必要かを、柔軟に考えることが求められるでしょう。
日本のように単一言語が強い社会では、一つの言語を使うことへのこだわりが見られます。しかし、インドやスイス、アフリカ諸国などの多言語社会では、当たり前のように会話の中で多言語が飛び交い、複数の言語が混ざることに寛容です。最も合理的な組み合わせは人や状況によって変わるのです。
以下は、主なコミュケーションの方法を学習負担や接近性などから点数化した表です。右にある合計点にほとんど差異がないように、とびぬけて優れた手段はありません。
両者にとって最も伝わる方法であれば、複数言語の会話でもまったく問題ないのです。例えば通訳を介す場合、「聞くことはできるので、話すときだけ通訳してください」と事前に依頼しておいたり、伝わり方に問題がありそうなときは指摘してもらったりと、介入方法も自由でいい。
みんなが共通の一つの方法を使う、つまり均質化することで効率化を目指すやり方は、20世紀の高度成長期のような発想です。21世紀はイノベーションの時代。複雑性の中に成長の鍵があるのだと発想をがらりと変える必要があります。
日本で働く外国人材とのコミュニケーションにおいて、気をつけるポイントはありますか。
外国籍社員にも、最初は日本語で話しかけてみることです。初めから英語で話しかけるのは「日本語ができないでしょう」という決めつけで、大げさに言うと日本社会から排除していることになります。
最近、全国的に貼られている「声かけ・サポート運動」のポスターに変化が見られました。以前は「お困りの外国人には “May I help you?” のひと言を」とあったのですが、2023年版では「お困りの方には『どうされましたか?』のひと言を」に刷新されたのです。日本語を話さない人だと分かったら英語に切り替えてもよいので、まずは日本語を使うことが日本社会の一員として包摂するメッセージになります。
日本語を話すときに留意すべき点はありますか。
相手の日本語能力にあわせて、「やさしい日本語」を意識することです。「やさしい日本語」とは、日本語に不慣れな人に向けて、文を短くして文章構造をシンプルにしたり、外来語(カタカナ語)を避けたりする日本語のこと。出入国在留管理庁と文化庁から「やさしい日本語」のガイドラインがでているので、検索してみてください。
最近は、外国人と働く日本人向けに「やさしい日本語」の研修を行う企業も増えてきました。やさしい日本語は相手の言語力の欠如をおとしめることではなく、OJTのような役割も持ち合わせています。あくまで習得段階に必要なもので、そのレベルにとどまる前提のものではありません。どれくらい言葉をやさしくするべきかを調整しながら、コミュニケーション能力を伸ばしていくのです。
相手の言語レベルに合わせて表現を変えることは、前出の「仲介能力」に当たります。今後はTOEICのようなテスト以外の尺度も必要になるでしょう。語彙(ごい)や表現を「知っている」だけでなく、「使える」状態なのか。さらに、人に合わせた伝え方ができるのか。例えば、ヨーロッパでは言語パスポートのような、言語的にどのような能力を有しているかをポートフォリオにまとめる動きが出てきました。これまでの留学経験や異文化コミュニケーションの経験を可視化することで、ペーパーテストでは測れない部分を補足するのです。
仲介能力は客観的に測れるものなのでしょうか。
CEFRは2020年に随伴版をリリースしているのですが、仲介能力を含めた「Can Doステートメント(できる・できないの自己評価)」を作成できるようになりました。日本語版も最近発表されました。仲介能力の指標も日本社会において今後大きなインパクトを持つのではないかと思います。
「面倒なコミュニケーション」の先にある豊かさ
お聞きしてきたポイントは、異言語話者だけでなく日本人同士のコミュニケーションにも応用できると思いました。
そうですね。日本に生まれ、日本で育っていても、考え方が違えば認識の齟齬(そご)は生まれます。全く違う景色を見て、全く違う人生を歩んできた他人の常識が同じであるはずがありません。
相手が外国人でも日本人でも、「きっと自分と同じだろう」「分かり合えているだろう」と思わない能力が必要です。これは意外と難しくて、人はどうしても自分の常識のフィルターで相手を見てしまいます。互いの価値観をすり合わせる会話ができることが理想的です。
日本人は衝突を避ける傾向にあるので、違いがあってもふんわりと中和させる文化があります。しかし、違いが明るみに出たほうが、後々いい結果を生むこともあるでしょう。
仲介能力のようなコミュニケーションは、日本人が得意とする思いやりの延長です。「思いやる」「察する」といった日本的良さを生かしながら違いを言語化することで、背景の異なる人ともいい関係ができるのではないでしょうか。
言葉の背景にある差異や違いに気づくために、どのようなことができるでしょうか。
相手と自分の常識は違うのだから、相手がどのように理解しているのかを都度確認しないといけません。相手が「分かった」と言っているのだからOKではなく、相手に質問してもらう機会を作ったり、相手が理解しているかを確かめるために聞き直したりする必要があります。自分が教える側のときは、「何をどう理解したのか」を確認するといいでしょう。相手から「分かりましたか?」と聞かれたときは、「はい」だけではなく「分かりました。次は〇〇をするのですね」と具体的に復唱する。これらを繰り返すことで、お互いの差異に気づきやすくなります。
コミュニケーションがうまくいかなかったときや、すれ違いを感じたときはどう対処すればよいのでしょうか。
相手が10割悪いと思っても、自分の良くなかった部分を考えてみることが大事です。相手を責めても状況は好転しません。自分が何を変えられるかを考えるほうが、よほど建設的でしょう。これが人間関係構築の秘訣です。
研究によると経営でも同様で、優秀な経営者は経営がうまくいっているときは従業員の頑張りのおかげだと言い、うまくいっていないときは自責しています。経営者がそのような思考を持つ企業のほうが、経営は伸びているそうです。適切な反省能力を持つことで、経営もマネジメントもコミュニケーションが前進していくのです。
最後に、多様な人材とよりよいコミュニケーションを目指すビジネスパーソンに向けて、メッセージをお願いします。
人や状況によって変わる合理性に対応していくことは、正直なところ面倒です。しかし、「面倒=無駄」ではありません。面倒を超えたところに、新しい関係性やイノベーションが待っているのではないでしょうか。誰もが「スムーズなコミュニケーション」を目指そうとしますが、あえて面倒な「違い」の中に身を置くことでしか得られないものが、次の時代の豊かさにつながっていくのだと思います。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。