日本人の生涯賃金は増えていないのか
リクルートワークス研究所 研究員/アナリスト 坂本貴志氏
平均賃金は低迷、では平均生涯賃金は?
日本人の平均的な賃金が低迷しているという事実が世の中を賑わせている。たしかに、国税庁「民間給与実態統計調査」をみると、日本人の平均賃金は低調な推移となっている。
賃金の低迷を問題視する背景に、経済的により豊かな生活を送りたいという人々の願いがあることは確かだろう。それでは、現代日本において、生涯でより多くの収入を得たいと思った時、どうすればいいか。
就業時の平均賃金を引き上げるというのは確かに一つの方法である。たとえば、勤めている会社において成果を出して、出世レースを駆け上っていく。あるいは誰にも代えることのできない専門性を身につけ、プロフェッショナルとして企業を渡り歩き、賃金を高めていくという方法もある。しかし、生涯賃金を高める戦略はそれだけでもないだろう。
本稿では、近年において、日本人の生涯賃金がどう変化しているのかを分析してみたい。利用するデータセットは、国税庁「民間給与実態統計調査」と総務省「労働力調査」である。国税庁のデータからは年齢階級別の平均賃金の額が、総務省労働力調査のデータからは年齢階級別の就業率が取れる。一個人の平均の生涯賃金は、10代から70歳以降までの期間に稼ぐ賃金の総額として表される。
まず、生涯独身であると仮定し、個人の生涯賃金を男女別に集計してみよう。なお、このデータは、たとえば2020年数値についてみると、仮に一個人が2020年時点で生涯を過ごした時の生涯賃金の期待値を表している。正確には2020年時点で40歳の人は60歳の時は2040年になっているわけで、その時点での賃金データを用いるべきであるが、未来のデータはないのでそのような推計はできない。データの制約からかなり大雑把な試算となっている点についてはご了解いただきたい。
女性の生涯賃金が急速に上昇している
男性の場合、ここ10年間の変化でみてみると、生涯賃金は景気の拡大に伴って緩やかに増加している。2010年時点の生涯賃金は2億1,028万円であったものが、2020年時点では2億2,939万円と1,911万円の上昇、伸び率に直すと+9.1%となった。足元では新型コロナウィルスの感染拡大によって賃金がやや低下しているが、この10年で見ると増加をしていることがわかる。
年齢階級別にみると60代以降の高齢期の寄与が大きい。2010年時点では高齢期に稼ぎだす賃金の総額の期待値は2,995万円であったが、2020年時点では3,866万円と大きく上昇している。若手の時の増加幅も2494万円から2879万円となっている。近年、若手の労働力不足を背景に、若年労働者の賃金が上がる傾向にあり、若い時に稼ぐことができる収入が増えている。ただ、男性に関しては、比較時点を2010年ではなくリーマンショック前の2007年にすると増加幅は微々たるものであり、長期的には厳しい状況が続いているといえるだろう。
一方で、女性の生涯賃金に目を移してみよう。女性の生涯賃金は大きく増加している。ここ10年間の変化でみると、8,406万円から1億797万円となる。伸び率にすると+28.4%も伸びている。年齢階級別の推移を確認すると、すべての年齢階級で生涯賃金の期待値が上昇していることもわかる。女性に関しては、近年の女性活躍による就業率の上昇と賃金上昇が相まって、生涯賃金の上昇機運を生み出している。
男女ともに働くこと、長く働くことが経済的に豊かな生活を送れることにつながる
ここまでは生涯独身と仮定した時の個人のデータをみてきたが、これを統合して夫婦2人以上の世帯でみるとどうなるか。
夫婦2人以上の世帯に直してみても生涯賃金は近年伸びている。2010年時点の世帯の生涯賃金は2.94億円であったが、それが2020年時点では3.37億円まで上昇しているのである。これは増加幅にすると4,302万円で、伸び率にすると+14.6%にまで達する。そして、増加の多くは女性の賃金上昇によって達成されている。
このようにしてみていくと、現代の世帯が豊かな生活を送るためにどのような戦略を取っているのかが仮想的に見て取れる。つまり、現代の日本の世帯においては、平均賃金がなかなか上がらない中で、男女ともに働くように行動様式を変えた。そして、その結果として、多くの家計は経済的には豊かになっている。そして、ここでは労働時間のデータは取ってはいないが、働き方改革の流れにあって、近年では労働時間を減らす傾向も鮮明になってきている。
長く無理なく働けるための社会的支援を
こうした姿をみていくと、日本の現代の世帯が豊かな生活を送るための戦略が導き出される。まず、現代において経済的に豊かな生活を送ろうと思うのであれば、男女の区別なく働くことが望ましい。女性の生涯賃金は男性と比べて半分にも満たない水準であり、伸ばせる余地はまだまだある。
必ずしも男性も女性もみながキャリアの第一線で駆けぬけていかなくても構わない。男性も女性も労働時間の調整をしながら、互いに仕事と家庭とのバランスを保ちつつ、それぞれが今の男性の平均と同じくらいの賃金か、もしくはそれよりも少なくても、収入を得ることができれば今よりも経済的に豊かな生活を送ることができる。
逆に、片方の配偶者のキャリアを優先しすぎてしまってもう片方の配偶者が働けなくなったり、賃金水準を大きく落としたりすると、かえって世帯収入は減少してしまうかもしれない。そう考えると、男女ともに無理なく働き、組織において自身ができる貢献を着実に行うという戦略が、現代における世帯収入最大化のためのポイントとも言える。
もう一点重要なことは、健康である限りは長く働くということである。たとえ一時点での収入が高額ではなくても、高齢期に仕事の負荷が少なく労働時間も短い小さな仕事に従事しながら豊かな暮らしを送っている人々は、現代においてもたくさんいる。健康なうちに無理せず働き続けることは、現代社会における経済的に豊かな生活を送るための有力な選択肢である。
長く無理なく働けるための社会的な支援も欠かせない。近年の働き方改革に象徴される長時間労働の是正はさらに進める必要があるだろう。高齢者の方も働きやすいように、無理なく働けるための労働環境を整えることも重要である。
日本人の働き方はこの十数年間で大きく変化した。豊かな人生を送るためには、その時々の時代の変化に応じた適切な戦略が必要だろう。
リクルートワークス研究所は、「一人ひとりが生き生きと働ける次世代社会の創造」を使命に掲げる(株)リクルート内の研究機関です。労働市場・組織人事・個人のキャリア・労働政策等について、独自の調査・研究を行っています。
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