安定志向の人ばかりではない
将来の夢の実現に向けて、転職先を選ぶ人材
不景気が当たり前の時代だが… 「安定」より「やりたいこと」を求める人もいる
金融危機による景気後退は一段落したように見える。とはいえ、「景気の良さを実感できない時代」が、20年近くも続いていることに変わりない。「定年まで同じ会社で働きたい」と考える新卒社員が多くなるなど、仕事に安定を求める人は確実に増えている。そんななか、「どうせ安定が得られないなら自分のやりたいことをやろう」と考える人が転職の現場でもみられるようになってきた。
「安定企業」に内定したのに…
「さすがですね、Tさん。昨日面接を受けたA社の人事担当者に感触を聞いたところ、評価はかなり高いとのことですよ」
Tさんは、これまで生産技術のエンジニアとして働いていたスペシャリストだ。勤務先の工場が統合されることになり、転職先を探していた。A社は大手メーカーの関連会社で、Tさんが第一志望として挙げていた企業だった。
「もし今週中に内定が出たら、来週のN社の最終面接は辞退しますか?」
TさんにはN社も紹介していた。しかし、そちらはどちらかといえば「保険」の感覚だった。規模も小さいし職種も顧客対応のカスタマーエンジニアだ。これまでのTさんのキャリアからすると、A社の方がふさわしいし、待遇や条件もいいはずだ。何よりN社とA社とでは安定感が違う。
ところが数日後、A社の内定通知が届いたことを伝えると、Tさんからは意外な返事が戻ってきた。
「なんとかN社の最終面接も受けられませんか? ぜひ話を聞いてみたいのです」
A社の内定に対する回答期限とN社の最終面接は日程がほとんど同じだ。かなり綱渡り的なスケジュールになるが、決めるのはTさん自身である。
「A社の内定は本当にありがたいです。ただ、N社もかなり気になるんです…」
N社のことは私から紹介されるまで知らなかったTさん。第一志望のA社の滑り止めのつもりで気軽に訪問したらしいのだが、そこで新しい発見があったのだという。
「カスタマーエンジニアとして私が担当する製品が『コーヒーマシン』だと教えてもらいました。業務用なので、販売先は喫茶店やレストランチェーンです」
N社のカスタマーエンジニアはそういった店を訪問して機器の設置やメンテナンスを行うだけでなく、営業と一緒にセールスや提案活動も行うのだ。
「ひょっとしたら自分の夢が早く実現するかもしれない…そう思ったんです」
Tさんはゆっくりと、少しだけ恥ずかしそうに話し始めた。
「100%の安定」はないと思うから…
「実は将来、家内と一緒に『カフェ』を開くという夢があるんです」
しかしそれはあくまでも夢で、「定年退職後にできたらいいな…」というくらいに自分でも思っていたのだという。
「そうはいっても、飲食店を経営している知り合いもいないですし、何をどこから仕入れていいのかも分かりません…」
しかし、N社で働けば日常的に飲食業界やサービス業界の人々と接することになる。しかも、N社の営業やカスタマーエンジニアで独立して店を持った人が何人もいるのだという。N社としては独立した人が自社のコーヒーマシンを導入することを条件に、そういったキャリアチェンジを容認しているのだ。
「たしかに夢を実現するための第一歩になるかもしれないですね。でも、N社は支店をあわせても従業員100名規模で、2,000人近い社員がいるA社とは安定性で比較するとかなりの差がありますよ」
A社の内定を蹴るのはもったいないと私は思った。なぜなら、これまでのTさんのキャリアをそのまま活かせる職種だからだ。
「今はまだ迷っています。N社の内定も出ていないので、完全にA社に行く気がないわけではないんです…」
Tさんは言葉を選んで話していた。
「今回の転職は、働いていた工場の統合がきっかけです。A社ほどではないにしても業界ではそれなりの企業でした。でも、再編は避けられなかったのです。今の時代、100%の安定なんてどこにもないと思うんです」
そのため、将来の夢を早く実現できるかもしれないN社という選択肢にも魅力を感じるようになった…Tさんはそんな思いを語ってくれた。
「分かりました。A社には回答期限をもう少し延ばしてもらえるよう交渉してみます。N社の最終面接を受けてから判断しましょう」
私はTさんにスケジュールの再調整を約束して電話を切った。たしかに20年ほど前までは、例えば銀行に就職が決まると一生安泰…と多くの日本人が本気で思っていた。しかしその後、私たちは数々の銀行の統廃合を目にすることになる。あの頃、思っていたことには、実は何の根拠もなかったのだ。
Tさんが最後にどういう結論を出すのかは分からない。しかし、Tさんの夢が実現すればいいなと私は思った。