賃上げの流れを受け、人事はどのように対応すればいいのか?
いまこそ取り組むべき「賃金体系の戦略的変革」
東京大学大学院 経済学研究科 教授
川口 大司さん
2023年春、物価の高騰を背景とした賃上げ圧力の強まりなどにより、全国的に賃上げが進みました。日本労働組合総連合会(連合)が公表した春闘の第4回回答集計結果では、2023年の平均賃上げ率は3.69%と、30年ぶりの高い水準を記録。労働経済学を専門とする川口大司さん(東京大学大学院経済研究科 教授)は、「このような時代だからこそ、人事が考えなければならないことが増えた」と話します。賃上げの流れを受けて企業はどのように対応すればいいのか、日本企業の賃金構造を踏まえていま人事が押さえておくべきポイントとは何か、川口さんにうかがいました。
- 川口 大司さん
- 東京大学大学院 経済学研究科 教授
かわぐち・だいじ/1971年生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、一橋大大学院経済学研究科(修士)、ミシガン州立大学(博士)。大阪大学社会経済研究所講師、筑波大学社会工学系講師、一橋大学大学院経済学研究科准教授、同科教授を経て2016年より現職。単著に『労働経済学 - 理論と実証をつなぐ』、共著に『法と経済で読みとく雇用の世界』、『計量経済学』(いずれも有斐閣)など。
日本の賃金はポータブルスキルと結び付いてこなかった
まず川口先生が専門とされている「労働経済学」とはどのような学問なのか、教えてください。
労働経済学とは、経済学の手法を使って労働問題を分析する学問です。「労働者」と「企業」の二者が交じり合うことで、どのように賃金や雇用の量などが規定されるのかを研究しています。分析の対象は幅広く、人事領域では採用基準の策定や従業員の育成、リテンションなどを対象としています。
そもそも、日本企業における賃金構造はどのように形成されてきたのでしょうか。
これまでの日本企業における雇用は、長期雇用のメンバーシップ型が前提となってきました。企業には従業員に対して「いかにやる気を保ってもらうか」を考えることが求められ、長く在籍することで賃金が上がる仕組みを構築してきました。
一方、アメリカなどでは賃金は特定のスキルと強く結び付いています。人々がスキルを高めるのは、市場のメカニズムが働き、スキルが上がれば賃金が上がるからです。
日本ではスキルが向上したからといって、必ずしも賃金が上がるわけではありません。アメリカなどでは、スキルが向上したことで他の会社からより良い条件でオファーが来る、もしくは他社からオファーが来た人を引き留めるためのカウンターオファーとして賃金をアップするのが一般的です。しかし、日本の労働市場は流動性が低く、そのような力が働きにくくなっています。
また、通常は企業側が「スキルを上げれば給料を上げます」と約束し、その後労働者がスキルを上げたとしても、他社からオファーが来ないのであれば企業側がその約束を反故(ほご)にするインセンティブが働くはずです。しかし日本の企業は、労働者の期待を裏切らず、勤続してもらえるように、賃金制度や昇進の仕組みを整えてきました。その結果、外部の市場に左右されず自社でしか通用しないスキルを高めていくことで賃金が上がっていく仕組みができあがり、長きにわたり実行されてきました。
近年、この構造にどのような変化がみられるのでしょうか。
技術進歩のスピードの速さや経済活動のグローバル化といった環境の変化によって、自社でしか使えないスキルの重要性は低下しました。それを受けて、右肩上がりだった賃金カーブがフラット化し、一社での勤続年数は短くなりました。また、従業員を守る役割を果たしてきた労働組合の存在感は低下し、非正規の労働者が増加しています。つまり、これまで日本で行われてきた終身雇用・年功序列型の雇用慣行の重要性が低下しているのです。
国際的にみれば、従業員のモチベーション維持といった内部の力学が賃上げに占める割合は依然として高い状態ですが、昔に比べればその重要性は相対的に低下しています。一方で、労働市場の相場に合わせて賃金が規定される外部の力学の割合が高くなってきています。
自社でしか通用しないスキルの価値が下がってきた背景には何があるのでしょうか。
高度経済期に、日本は欧米先進諸国で開発されたモノや技術を分析して改善し、品質と生産性を上げていく「キャッチアップ型」の経済を推進しました。キャッチアップ経済では、次に何をすればいいのかがはっきりしています。多くの企業は、トヨタの「カイゼン」に代表されるようなプロセスイノベーションの手法を取ってきました。このやり方は、自社でしか通用しないスキルを高めていくことで評価される長期雇用との親和性も高いものでした。
しかし、改善もいずれ限界に近づきます。そこで求められるのは、最終的なアウトプットそのものを変えるプロダクトイノベーションです。現在の主な仮説として、プロダクトイノベーションを起こしていく上で重要なのは、社外でも通用する本質的なスキルだと考えられています。
生産性が上がっても実質賃金が上がらない日本
日本では30年間、国内総生産(GDP)が停滞していることが問題視されています。「GDPが上がらないから賃金も上がらない」と考えていいのでしょうか。
そうとも言えません。確かに実質賃金は上がっていませんが、実は一人当たりのGDPは上昇しているのです。ではなぜ実質賃金が上がらないのかというと、GDPと実質賃金を算出する計算式の違いというテクニカルな要因が作用しています。GDPは、国内で一年間の間に生産された最終財とサービスの価格で決まります。一方実質賃金は、名目賃金から消費者物価指数に基づく物価変動の影響を差し引いて算出されます。
GDPの計算式に入っていて消費者物価指数に入っていないものが、国内で消費されない輸出品です。逆に輸入品は国内で生産されていないのでGDPには入りませんが、国内で消費されるため消費者物価指数には入ります。つまり、GDPが上がっているのに実質賃金が下がっているのは、輸入品の価格が上がって輸出品の価格が下がっていることの影響が大きいのです。
日本ではよく「生産性が上がらないから賃金が上がらない」と言われますが、日本人は努力して生産性を高めてきました。しかし、その努力を「輸出品を安くする」という方向性に向けられてしまった。その結果、人件費が安いほかの国との価格競争に巻き込まれ、価格を上げられなくなったのです。
日本は、高付加価値のものを作ってグローバルに展開していくチャレンジがなかなか成功しませんでした。一方で輸入品の価格は上がっています。こうなると、日本人がどれだけ努力しても富が海外に流出してしまうため、賃金は上がりません。このような状況が日本経済の中で長年にわたり続いています。
2023年春は多くの企業で賃上げが目立ちました。この流れをどのように分析していますか。
政府はこれまでもずっと、企業に対して賃上げを要請してきました。しかし、物価が上がらないゼロインフレが続く中で、賃金を上げる理由はありませんでした。ほかの企業が賃上げしていないのに自社だけ賃上げすることは、どの企業も「損」だと判断します。この選択は安定的な均衡を生み出す一面もありますが、結果として長らく賃上げが行われてきませんでした。
そんな中、ロシアによるウクライナ侵攻や新型コロナウイルスの感染拡大に伴う物流の混乱などの影響により、世界各国でインフレが発生。物価上昇に対応するために賃上げへの圧力が強まったことで、企業はそろって賃上げを実施しました。
しかし、今回の賃上げでは名目賃金こそ上がっていますが、実質賃金は下がっています。これは賃金の上昇分が物価上昇幅に追いついていないことを示します。そもそも今回起きたインフレが、資源価格高騰など、生産コストの上昇によって起こる「コストプッシュ型」のインフレだったからです。資源価格などが高騰すると、企業の経営環境も当然ながら悪化します。労働資本が減るわけですから、実質賃金を上げるところまで踏み込むのは非常に難しい判断だと言えます。
コストプッシュ型のインフレは世界中で起こっていますが、アメリカでは実質賃金も上昇しています。アメリカと日本では何が違うのでしょうか。
大きな要因としては、コロナ禍における労働調整の違いが挙げられます。アメリカではコロナの影響を受けて企業が多数の労働者をリストラし、一気に失業者が増えました。政府はリストラされた労働者に対して失業保険の給付期間を伸ばしたり、給付額を上げたりと、手厚い補償を実施。労働者としては働かなくてもお金が入ってくるので、一旦労働市場から出た人が戻ってこないという現象が発生しました。労働者を呼び戻すためには、賃金を大きく上げざるを得なかったのです。
一方、日本の対応は、雇用を維持する方向に向かうのが基本です。コロナ禍でも、失業者を増やさないように企業に対する雇用調整助成金を拡大する方向を選択しました。それでも非正規の女性の一部で失業率が高くなりましたが、それ以外では概ね雇用が維持されました。そのため著しい人手不足には陥らず、賃金の上がり幅を抑えられたのです。
日本も人手不足が叫ばれていますが、日本の人手不足は賃上げに直結しないのでしょうか。
確かに人口減少が進む中で、労働力を確保するためには賃上げの圧力がかかります。一方で日本型の雇用の価値が下がってきていることで、企業の内部要因を理由とする賃上げ圧力は弱くなっています。その二つの力が拮抗(きっこう)し、なかなか大幅な賃上げに向かわない状態だと言えます。
いまこそ賃上げによる変革のチャンス
インフレ率はピークアウトしたのではとも言われています。今後賃上げへの圧力は下がっていくのでしょうか。
現在は、まだ実質賃金が下がっている状態です。また、物価が上がっていく中で名目賃金が下がってしまうと、労働者のやる気が失われてしまいます。そのことは企業もよくわかっているので、少なくとも下がらないように努力するでしょう。そう考えると、来年度も名目での賃上げは続いていくのではないかとみています。
ただし賃上げを行うためには、その分の原資を確保しなければなりません。そのためには、きちんと資源価格などの高騰分を自社の商品・サービスの価格に転嫁していくことが求められます。実際、現状は適正に価格転嫁できる環境が実現しつつあります。
今回の賃上げでは、大企業やパート従業員の賃上げが目立ちました。中小企業を中心とする、賃上げできなかった企業に対しては、どのように捉えるべきなのでしょうか。
今回の賃上げは、起こるべき調整が起こったにすぎないと言うこともできます。インフレに対応するためには賃上げを行う必要がありますし、非正規の労働者に関してはそもそも賃金が低すぎました。
それでも賃上げができない企業があるとしたら、その多くは経営状態があまりよくない状態にあると思います。中には、政府の補助金などでなんとか生き残ってきた企業もあるでしょう。各社が賃上げに踏み切る中、経営が厳しい企業が淘汰されていくとしたら、それも起こるべくして起こったということです。
賃上げにより生産性の低い中小企業が倒産してしまった場合、そこで働いていた人たちは生産性の高い企業に移ることができるのでしょうか。
この話については、少し最低賃金の話と似ている側面もあります。在日イギリス人経営者であるデービッド・アトキンソンは、最低賃金を上げて中小企業を淘汰していくことを主張しています。彼が仮定しているのは、淘汰された企業に属していた労働者が、より生産性の高い職場に吸収されることです。
この主張を裏付けるドイツでの実証実験があります。ドイツは2015年にはじめて、全国一律8.5ユーロの最低賃金を導入しました。特に、かつてソ連陣営にあった旧東ドイツ経済は西ドイツに比べて弱く、最低賃金の導入に企業が耐え切れなくなり、雇用の量が減るのではないかと危惧されていました。ところが、結果として雇用は増加しました。確かに生産性の低い企業では倒産やリストラが起こりましたが、労働者はより生産性が高く、賃金の高い企業に再雇用されたのです。
また、賃上げの場合は、最低賃金より明るい材料もあります。賃上げとは国が強制的に決めるわけではなく、どこかの企業が「賃金を上げる」と判断したことで生じるからです。賃上げをした企業が属する業界は、人手不足である可能性が高い。職を失った労働者が再雇用されやすい業界が可視化されていると示唆されます。
今後も賃上げが進むと予測される中で、まず押さえておくべきポイントは何でしょうか。
日本全体としては今後、賃金カーブのフラット化を目指す方向に向かうはずです。長年一社で働くことが有利な賃金体系は転職の意欲を削ぎますから、労働移動を促進するためにも賃金カーブのフラット化が望まれます。
「若い人の賃金を上げることが重要だ」と言うことは簡単でも、ゼロインフレでその原資がない中では、誰かの賃金を下げなければ実現できません。賃下げは従業員から大きな反発を招きますから、企業はなかなか踏み切ることができませんでしたが、いまのような賃上げ基調の中では、例えば若い人の賃金を上げて中高年の賃金を据え置くなど、賃金体系そのものを変えることができます。賃金体系の変革によって、より多くの従業員の名目賃金が上がれば、実質賃金の上昇にも波及していくことが期待できます。
これまで賃金カーブのフラット化を目指しつつできなかった企業でも、賃上げへの圧力の高まりを背景に、達成できる環境が整いつつあります。若者以外にも、非正規労働者を賃上げの中心に据えると雇用形態間賃金格差の解消につながり、女性を中心にすれば男女間の賃金格差の解消につながります。賃金体系の変革自体が生産性を上げ、所得の格差を埋める再分配にまで及ぶ可能性を持つことを、ぜひ意識してほしいと思います。
人事は自社の状況に合わせて賃上げを
企業の中で賃上げを実施できる環境が整ったとき、人事の仕事にはどのような変化が生じるのでしょうか。
人事として考えるべきことが大きく広がっていると言えます。たとえば企業全体で2%の賃上げをすると決めたとき、やってはいけないのが深く考えずに「全社員一律で2%上げます」と設定してしまうこと。あくまでゴールは「平均2%」であり、どの層に重みをつけて賃金を上げていくのかを考えなければいけません。
もちろん、どのような賃金体系が従業員のやる気を保つのかに関しては、人事の皆さんはこれまでも十分に考えてきたでしょう。ただし、ゼロインフレの中で原資がなかったため、思考停止状態に陥っていた人もいるはず。いざ賃上げを行うときには、これまで以上に思考を研ぎ澄まして考える必要があります。
若者や女性、非正規の賃金を中心に賃金を上げることが「正解」なのでしょうか。
日本全体としては、賃金カーブのフラット化を目指すために若い人たちの賃金を上げたり、属性による格差を是正する方向に向かったりすることが重要です。ただし会社によって置かれている環境が違う以上、経営の根幹に関わる人事戦略に対する判断が各社で異なるのは当然の話です。従来の年功序列型の人材育成を重視する会社もあるでしょう。
経団連は毎年、春闘の前にレポートを発信していますが、近年は経団連としても目指すべき方向を一律で規定しなくなりました。2023年度のレポートでは、「賃金引上げと総合的な処遇改善・人材育成を積極的に進め、成長の果実を適切に分配する必要がある」とのみ書かれており、その対応は各社に任せています。
川口先生は新しい技術と働き方・賃金の関係について造詣が深いですが、新しい賃金体系を考えるときにはIT技術も有効でしょうか。
どのような企業であれ、電子化された情報の蓄積があるはずです。自社に眠るそれらの財産を活用するには、HRテクノロジーの活用が重要な役割を果たします。例えばいまどんな人が辞めそうで、どのような人たちの処遇を手厚くしなければいけないのかを把握しやすくなります。さらに、賃金の支払い方などを含め、いままでよりもきめ細かく個別最適化できるようになる可能性もあります。その試みは企業全体のDXにもつながっていくものだと思います。
新卒採用の賃上げを行うことで、既存の従業員との間に賃金の逆転現象が起こってしまうケースがみられます。この話をどのように考えればいいのでしょうか。
逆転現象が起こってしまう原因も、外部のロジックと内部のロジックの両方が一つの企業の中にあるからです。新卒で入ってくる従業員は、外部に近い存在です。内部の力学が弱まって外部の力学が強まっているいま、もとから中にいた人が不満を覚えるケースは確かに出てきています。
この構造は、初任給だけの話にとどまりません。たとえば中間管理職の業務をジョブ型雇用に転換し、外部の市場でそのスキルを備えた人材を高い年収で採用するケースがあります。しかし企業の中にはおそらく、高い評価はしづらいけれど組織にとって必要な仕事を一生懸命こなしている人がいます。そういった人たちが評価されずに不満を抱くこともあるでしょう。
そのような状態が長く続くと、既存の従業員のやる気がどんどんむしばまれていきます。人事としては、中にいる人たちのモチベーションを保つ方法を考えなければなりません。
従業員が望む水準の賃上げが難しい企業もあるかと思います。賃上げ以外に労働者をアトラクトする方法はあるのでしょうか。
いくつも考えられると思います。その職場が労働者にとって働きやすい環境であれば、同じ賃金でも魅力が上がります。たとえば分かりやすいのが、在宅勤務がどの程度認められるか。コロナ前に、もっとも在宅勤務が許されていた職種はコンサルタントでした。どれだけ仕事をしたのかをアウトプットで測れるので、在宅でもあまり支障がなかったんですね。
一方で、オフィスに出社しなければ仕事にならない企業もたくさんあります。また在宅勤務でも問題ないけれど、チームビルディングなどのため、特定の日に出社を求める企業もあります。企業の業種や規模、状況によって、在宅勤務を導入するためのコストは異なります。自社が低いコストで在宅勤務を導入できるなら、それは強みになるでしょう。在宅勤務以外にも、コストをかけずに労働者が魅力だと感じる条件をつくることができるはず。そういう条件を考えることも、人事にとって重要な仕事だと思います。
(取材:2023年4月26日)
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。