人的資本経営と情報開示を巡る来し方と行く末
―ウェルビーイング時代の経営の根幹「人」へのまなざし―
パーソル総合研究所 シンクタンク本部 主任研究員 井上 亮太郎氏
高度経済成長期を支えた企業経営者の一人、松下幸之助は自著「人事万華鏡」(1977)の中で経営者としての自身の「人の見方・育て方」について語っている。
『事業は人なり』ということがよくいわれる。(中略)事業は人を中心として発展していくものであり、その成否は適切な人を得るかどうかにかかっているといってもいいだろう。(中略)機械であれば、スイッチを入れれば定められた通りの働きをするが、それ以上のことはしない。しかし、いかようにも変化する心を持った人間だから、やり方しだい、考え方しだいで、その持てる力をいくらでも引き出し、発揮させることもできる。そこに人を育て、人を生かしていく妙味があるわけである。—松下幸之助
冒頭の一文からもその一端がうかがえる松下氏の人材観は、いわゆる「日本的経営」の根底にも流れていたであろう日本の文化的特性や価値観に根差したものとも考えられる。
では、改めて本コラムのテーマである「人的資本経営」に目を向けると、その立脚点としては人を「資源」ではなく、価値を創造する「資本」として捉え直そうという人材観のパラダイム転換が提唱されている。来し方の「日本的経営」の代表的な慣行は、時流にそぐわずに見直されてきているが、長期視点に立って人の可変性に期待するという人材観までもわれわれは否定し、棄却してしまったのだろうか。
今日の人的資本経営と情報開示について、機関誌HITO REPORT「動き出す、日本の人的資本経営~組織の持続的成長と個人のウェルビーイングの両立に向けて~」に登場いただいた方々の指摘や背景情報を振り返りつつ、今後の人的資本経営の在り方について考察したい。
人的資本経営とは何か
今日、「人的資本」が注目される背景には、企業価値の主要な決定因子が有形資産から無形資産に移行してきたというグローバルな潮流があった。
わが国の人的資本経営の指針と位置づけられる「人材版伊藤レポート」(経済産業省2020)では、産業構造が大きく変化する中、国を挙げてイノベーションや挑戦を促進するための無形資産への投資、とりわけその根幹に位置づけられる「人」への投資を強化して好循環を生み出す必要があると述べ、今後の変革の方向性が示されている。
経済産業省の定義では、「人的資本経営とは、人材を資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」とあり、従来の「働き方改革」を昇華させ位置づけていることがうかがえる。
人的資本経営についての現状認識
2020年の人材版伊藤レポートの公開に始まり、2022年には、経済産業省「未来人材ビジョン」「人材版伊藤レポート2.0」「SX版伊藤レポート」「価値協創ガイダンス2.0」、内閣官房「人的資本可視化指針」など、政府が産学の衆知を集めて策定したレポートや指針が矢継ぎ早に公開されており、その充実ぶりには目を見張る。課題先進国といわれるわが国において、これ以上立ち止まってはいられないという政府と産業界が共有する危機感と熱意の表れであろう。
さらには、2022年8月25日、日本を代表する約320社(設立総会時点)が参画する人的資本経営コンソーシアム(※1)が経済産業省と金融庁の支援を受けて発起され、設立総会には、多くの経営者らが率先して詰めかけた。情報開示の義務化の影響もあるだろうが、経営者自らがイニシアチブを取るべき経営の問題として認識されたことの表れだと考えたい。
情報開示の本質とは
人的資本の情報開示においては、「価値創造ストーリー」にひもづいたモニタリングすべき指標(KPI)の設定が求められる。アセットマネジメントOneの浅井氏は、「投資家が注目するのは人的資本に投資した結果、何が変わり、企業価値を高められたのかという本質的な変化だ」と述べていた。また、他の投資家は「経営者のMD&A(経営者による財務・経営成績の分析)と共に自社がありたい姿(目標)を実現するための一連の企業価値創造ストーリーと戦略の納得度の高さこそが重要であり、CHROも対話の前面に出る必要がある」と指摘する。
他方で、開示情報の届け先は、投資家だけではない。パーソル総合研究所が実施した企業の情報開示に関する調査(「人的資本情報開示に関する実態調査」)からは、情報開示の関心は優秀人材の獲得や役員層の意識改革などにも向いていた。
開示項目の検討においては、他社の開示項目を互いに観察し、比較可能性ばかりを意識しがちであるが、誰に対して何を伝えたいのかという開示の目的を踏まえ、焦らずに自社らしい独自性についても議論する必要がある。コラム「人的資本情報の開示に向けて」では、開示項目の検討に際して「WHY・WHAT・HOW」の3つのステップを提唱した。このステップは、一貫性をもって取り組まれることが肝要である。
また、パーソル総合研究所が実施した企業の情報開示に関する調査【第2回】(「人的資本情報開示に関する実態調査【第2回】」)からは、給与や福利厚生に次いで「精神的健康(ウェルビーイング)」への関心が高いことが確認されている。情報を届けたい相手によって主たる関心は異なる。開示項目の優先順位などを検討する際の参考にしていただきたい。
人的資本経営はウェルビーイング経営である
人的資本について関連する非財務情報を可視化するだけでは、企業価値は向上しない。人的投資における効果的な経営戦略が存在することを前提とし、可視化された情報に対する投資家らからの良質なフィードバックを通じて、経営戦略をさらに磨き上げていく。一連のプロセスの一環として「可視化」を捉えていくことが肝要である。この好ましい循環をマネジメントすることが人的資本経営の実践と情報開示の関係である。
さらに、一橋大学の伊藤邦雄氏は「人的資本経営が目指すのは、中長期的視点に立った持続的な企業価値の向上であり、その先の最高善としての幸福(ウェルビーイング)である」とも常々語っている(図1参照)。伊藤氏の語る「最高善としての幸福」とは、「精神的な健康」に留まらず、多様な従業員が職業生活を楽しみ、ワクワクし、成長や貢献などから喜びを実感できている持続的な活力ある状態を意味する。人的資本経営とは、まさにウェルビーイング経営だといえる。
本コラムの文頭で触れたように、日本の企業経営の来し方を鑑みれば、今日の人的資本経営の本質は、欧米諸国からの異質で受け入れがたい新たな要求ではない。別の見方をすれば、わが国のバブル経済崩壊後に台頭したグローバル・スタンダードの潮流(行き過ぎた株主至上主義やショートターミズムなど)に翻弄され、海外の経営トレンドや逆輸入されたマネジメントの諸概念に感化され、ともすれば目を伏せてきた日本的な経営哲学や人材観のルネサンス(renaissance)である。
ただし、今日的なルネサンスとは、回顧的なノスタルジーとしての概念にとどまらない。産業革命に匹敵する大変革期にある今日にあっては、時流に溺れず、これまでの慣習にとらわれず、各社各様に描くウェルビーイング時代の経営の在り方が求められる。
人的資本経営と情報開示の実践においては、迷いや戸惑い、懸念する声も少なくない。しかし、関心が高まるも各社手探りする今だからこそ、ガイドラインや他社動向に安易に振り回されることなく社内での議論を尽くし、自社としての軸を固めたい。この機を逃さず、新時代の経営の在り方をわが国から国際社会に向けて発信していけることを切に願う。
末筆ながら、本誌が、多くの人が働くことを通じて喜びや楽しみを感じ、すべての人の笑顔につながる人的資本経営とその情報開示について議論するきっかけとなれば幸いである。
※1 https://www.meti.go.jp/press/2022/07/20220725003/20220725003.html
パーソル総合研究所は、パーソルグループのシンクタンク・コンサルティングファームとして、調査・研究、組織人事コンサルティング、タレントマネジメントシステム提供、社員研修などを行っています。経営・人事の課題解決に資するよう、データに基づいた実証的な提言・ソリューションを提供し、人と組織の成長をサポートしています。
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