「米と野菜がつくれる暮らし」を求めてIターン!
過疎化したふるさとへUターンしたり、都会暮らしを清算して第三のふるさとへJターンやIターンしたりする動きが活発化してきた。働き盛りの人たちの中にも、地方へ移り住む人たちが少しずつ増えている。住民の半数が高齢者、そこに200人ほどの移住者が暮らす長野県下伊那郡大鹿村は、地方と都会との人材交流の実験の場だ。神奈川県出身のサラリーマンが村の委託を受けて運営している農園を訪ねた。
(取材・執筆=山田秋治 写真=神沼理)
太古の大断層とアルプスの展望が自慢の「日本で最も美しい村」
九州から四国、紀伊半島を横断し、愛知から長野を北上、その後、関東平野へと、日本列島の西半分を南北に分ける大断層がある。「中央構造線」と呼ばれるこの大断層は、日本列島がまだアジア大陸の一部だったころにでき、大部分が地中深くにあるため、目にできる場所は限られている。
その大断層が天竜川沿いに北上する途中、長野県南部の下伊那郡大鹿村に何カ所か、断層が地表に露出している場所がある。村では断層の上に中央構造線博物館を建て、村内で採取された貴重な岩石や、断層の露頭をはぎ取った標本を展示している。
大鹿村は中央構造線上の延長1000キロに達する日本最長の谷を走る秋葉街道(国道152号線)沿いにある。秋葉街道と平行に天竜川上流の小渋川が流れ、このあたりの標高は880メートルほどだが、南アルプスと伊那山脈の2000~3000メートル級の山が両側から迫り、見上げる空がいかにも狭く感じられる。急峻なV字型の谷に沿って広がる山村。左右の山腹にへばりつくように田んぼや畑、農家が見える。急斜面にある牧場の牛は自然に足腰が鍛えられ、おいしい乳が出るのだという。
大鹿村は2005年10月、北海道・美瑛町、岐阜県・白川村など人口1万人以下、人口密度が1平方キロメートルあたり50人以下の6町村と、「日本で最も美しい村」連合を組んだばかり。村の自慢といえば、太古の大断層に加えアルプスの展望、桜や青いケシの花、紅葉など四季折々の山村の景観、強塩泉の温泉、清流の小渋川、230年ほど昔から伝わる国の選択無形民俗文化財・大鹿歌舞伎といったところか。失礼な言い方だが、そのほとんどが山村の自然や暮らしそのものであり、それ以外には何もない、貧しく美しい村ともいえる。
「Iターン」の青年が過疎の村の再建に一役買って出た
そんな中で、村が力を入れる拠点施設の一つが、山腹の中峯地区にある「山の食堂・するぎ農園」。運営しているのは風間光太郎さん(36歳)と紀子さん夫妻である。風間さんは大鹿村の出身ではなく、神奈川県秦野市で鋳物会社に勤めるサラリーマンだった。車関係の鋳物をつくる会社だったが、かねて考えていた「米と野菜がつくれる暮らし」を求めて、新たな定住の地を探し始めた。
サラリーマン時代に1年間、飯田に勤務したこともあって南信州にはなじみがあり、知人の知人が大鹿村にいた縁もあって、2003年5月、家族そろって村に移住した。「大鹿にはよそから来て暮らしている人が結構多いと聞いたし、来てみればロケーションもよく、親切な村の人にさほど手入れをしなくても住めそうな家を紹介してもらえたので、ここに決めたんです」と言う。何もない村の自然のすばらしさと、村人の温かさに惹かれたのだろう。
風間さんが移住した当時、するぎ農園は営業を停止していた。農業従事者の高齢化、後継者不足で遊休農地が広がる一方だったため、1995年、村が地域起こしの一環として約1億3000万円をかけて建設した施設で、約2ヘクタールの体験農園と郷土料理などを楽しむ交流体験館・するぎ館を中心とし、林業や農業体験を通じて、村を訪れる人たちと地域住民が交流する農園村だった。囲炉裏や縁側を配した建物は村内大河原にある重要文化財松下家を模した本棟造り。地元の婦人や観光客の活用を期待して、鳴り物入りでオープンに漕ぎつけた。
開園当初は多くの観光客でにぎわったが、中央自動車道松川インターから大鹿村までの道は幅員も狭く、カーブが多いため、東京からは約4時間、長野市からでも2時間半を要し、アクセスのいい場所ではない。このため同様な施設を擁する周辺自治体に観光客を奪われ、村の新たな目玉施設だったするぎ農園は、次第に観光客の足も遠のき、2002年に営業を休止せざるを得なくなった。
移住後まもなく、風間さんは、立派な施設がありながら、するぎ農園が使われておらず、新たな運営者を募集していることを聞き、農園の仕事を引き継ぎたいと、応募した。村では村民が営むことを条件にしていたが、風間さん一家が住民票も村に移し、定住の意志を示していたため、委託することを決めた。
厨房、和室、土間のある体験館をはじめ、周辺には水車小屋、物見櫓があり、さらにそば畑、ブルーベリー畑も地元農家などから借りて、2004年5月、夫婦二人でするぎ農園を再開させた。Iターンの青年が、過疎の村の再建に一役買って出たかたちである。
中央構造線。手前中央の窪みが構造線の露出部分で、写真のほぼ中央を上に続いている
優遇策をとっているわけではないのに外部から移り住む人が後を絶たない
大鹿村の人口は2005年3月末現在で1361人。うち65歳以上の高齢者は660人で、高齢化率は48.5%、ほぼ2人に1人が高齢者である。村の99%は林野であり、この20年ほど高齢化と人口減少で急速に過疎化が進行している。このため村では1989年、村政100周年事業として都会の母親を招いて村の生活を体験してもらう「お母さんの山村留学」を始めた。1996年までに約40戸の農家が1148人を受け入れ、都会の人たちに農家での宿泊・体験を提供するグリーンツーリズムを実践してきた。
1997年には7戸の農家が正式に宿泊業の許可を取り、本格的に農家民宿を開始、小規模ながら都会の人たちとの交流事業を着実に推し進め、観光立村を目指している。するぎ農園もそうした活動の一環として運営されてきた。そんな村の姿勢も影響してか、特別積極的にUターン、Iターンの優遇策をとっているわけではないのだが、村には外部から移り住む人が後を絶たず、今では200人ほどが定住しているという。
秋葉街道沿いの大鹿村は、昔から多くの人たちが行き来する村だった。南北朝時代には後醍醐天皇の第八皇子、宗良親王が大鹿村を拠点にし、秋葉街道は南朝方の軍用路だったといい、戦国時代には武田信玄が三河・遠江攻略に使った。さらに、古くから太平洋側と結ぶ塩の道であり、静岡県・春野町にある秋葉神社への参詣道でもあった。
そんな伝統で外から入り込みやすいのか、村には1970年代から様々な人たちが移住し始めた。自然志向集団が立て続けにやってきた時期もあり、連合赤軍が信州に逃げ込んだとの情報もあって、村民が警戒心を抱いたこともあったという。
その後、村は過疎化の一途をたどり、逆にUターン、Jターン、そしてIターンで農山村にやってくる都会の人たちが増え始めた。彼らは一時的に都会から逃げ出した人たちとは違い、村のために積極的に協力する姿勢も強く、村民との交流を深めていった。
標高1500メートルほど、中央アルプスや伊那山脈を望む大池高原は、6月には珍しい青いケシの花が満開になり、周辺には遊歩道やキャンプ場、パラグライダー場などもある村の人気スポットである。ここのレストハウス「おい菜」は東京で居酒屋をやっていた男性が借り受けて、切り盛りしている。甥のツーリングに誘われて村を訪れ、たちまち一目惚れ。奥さんの反対を押し切って移住したというIターン組である。
ほかにも70~80頭の食肉牛を飼育する人もあれば、田畑を耕しながらグアテマラから無農薬コーヒーを輸入する人、森林組合に勤める人などがいる。大西公園の3000本の桜は村の自慢だが、桜をモチーフにした手ぬぐいやグッズを扱う大鹿さくら組の店主もIターンの独身だし、大鹿歌舞伎に携わるため、わざわざ村役場に就職した若い人もいる。村のあちこちでUターン、Iターン組が積極的に立ち働いており、今では村に欠かせない存在になっている人たちも少なくない。
200人ほどの移住者が暮らす大鹿村は地方と都会との人材交流の実験の場
Iターン移住者としては新顔の風間さんは、2005年の夏、牧場経営の先輩移住者から無償で山羊を貸してもらった。乳搾りも体験できるし、観光客が喜ぶだろうからと、先輩の温かい心遣いだった。「都会から移住してきた人たちもそうですが、村の人も農作業のやり方を教えてくれたり、野菜を分けてくれたり、親切にしてもらっています。私も自治会に入れてもらい、神社の祭にも積極的に参加して、村の人たちとの交流を深めようと努力しています」と、風間さんは言う。
高度成長の1960年代、金の卵の中学生たちが集団就職列車で次々に東京や大阪などの大都会に送り込まれた。いわゆる団塊の世代の人たちで、以来、地方から大都会への人の流れは勢いを弱めながらも現在まで続いている。
ふるさとを離れて都会で働き始めた人たちは、結婚し家を持ち、都会を第二のふるさとにして暮らしていく。若い働き手を都会にとられた地方では、両親が高齢化し、都会の子供に引き取られて過疎化が進行する。地方の時代などともてはやされても、若い人を中心に都会へと流れる人の流れは変わらなかった。
そんな流れに抗して、敢えて都会から地方へ戻っていくのがUターンやIターンの人たちだ。Uターンの大先達ともいうべき中国・六朝時代の東晋の詩人、陶淵明は官途につきながら束縛を嫌い、地方県令を最後に41歳で辞職、「帰りなん、いざ。田園まさに蕪れなんとす」と故郷に引きこもってしまった。
日本でもかつての金の卵たちが定年を迎え、過疎化したふるさとへUターンしたり、都会暮らしを清算して第三のふるさとへJターンやIターンする動きが活発化しつつある。加えて風間さんのような働き盛りの人たちのなかにも、地方へ移り住む人たちが少しずつ増えている。隠遁した陶淵明と違って、彼らの多くは新しい地での生活設計に積極的に取り組んでいる。
住民の半数が高齢者であり、そこに200人ほどの移住者が暮らす大鹿村は、地方と都会との人材交流の実験の場といってもよさそうだ。経験とアイデアと意欲をもった人たちが入り込むことで、村に活力をもたらし、新しい方途を見いだす可能性も高まってくる。
昨年から大鹿産のそばでそば打ちもはじめた風間さん夫妻は、まだ採算が合うという状態ではないようで、農園を閉める12月~3月の間は山林の伐採や土木工事などを手伝って凌いでいるという。「ゴールデンウイークには1日60人くらいお客が来てくれました。それほどでなくても、年間を通じてコンスタントに来てくれるようになれば、やっていけるんですが。食堂のほか、そば打ちや豆腐づくり体験、農作業体験にも力を入れていきたいと思っています。村の暮らしは楽しいし、農作物もできますから、なんとかなるでしょう」と楽観的だ。