経営理念の浸透に手法は要らない?
成否を分ける「組織の文脈」の正体
帝塚山大学 経済経営学部 教授
田中 雅子さん

企業が経営理念やパーパスを掲げても、組織になかなか浸透しないのはなぜか。帝塚山大学の田中雅子さんは、25年にわたるフィールドワークから、浸透の成否を決めるのは理念の内容や施策ではなく、土台となる「組織の文脈」にあると語ります。人間関係や評価制度への不平不満があると、たとえ理念が立派でも社員には響きません。理念の「促進作用」と「抑制作用」が持つ本来の役割をひもといていただいた上で、自社に合った真の理念浸透のあり方についてうかがいました。
- 田中 雅子さん
- 帝塚山大学 経済経営学部 教授
たなか・まさこ/日本マネジメント学会理事。同志社大学大学院総合政策科学研究科博士後期課程修了。博士(政策科学)。専門は経営組織論。主著:『ミッションマネジメントの理論と実践-経営理念の実現に向けて』(中央経済社, 2006年),「経営理念浸透のメカニズムを考える」『PHP松下幸之助塾』(11-12月号, pp.44-48, 2015年), 『経営理念浸透のメカニズム-10年間の調査から見えた「わかちあい」の本質と実践』(中央経済社,2016年),「識者に学ぶ/経営理念浸透のメカニズム」『調査月報No160』(1月号, pp.36-41, 2022年), 「堀場製作所三代目の経営理念浸透プロセス分析-「正統的周辺参加」理論アプローチ」『経営哲学』(第18巻2号, pp.19-36, 2022年, 2022年度_経営哲学学会_学会賞受賞)など。
「経営理念があること」が当たり前の日本
田中さんは経営理念を長年研究されています。この分野に関心を持ったきっかけは何ですか。
私は最初から研究者を目指していたわけではありません。大学卒業後は、大学病院で秘書として働いていました。その経験を生かして、秘書に関する本を執筆したところ、短期大学の秘書学の教員にならないかとお声がけいただきました。思いもしないことでしたが、運と縁を感じ、教員の道に進むことにしました。
実際に着任してみると、教員の大半が学位を持っていたため、肩身の狭い思いをしました。そこで学位取得のために大学院に進学したのです。ただ、もともと研究意欲が高かったわけではなかったので、先行研究や文献を読んでも琴線に触れるものがありませんでした。
進学した2000年当時、日本企業ではミッション・ビジョン・バリューのブームが起きていました。そんな中、ある経営雑誌のエッセイで「失われた10年を取り戻すために、企業はもう一度自らのミッション、つまり使命を見つめ直す必要がある」と書かれていたのを偶然目にしました。
その言葉を読んだとき、涙が出るほどの強い思いを抱きました。期せずして教員になった私にも、この仕事を通じて果たすべき使命があるのではないかと感じたのです。それが、経営理念を研究テーマに選んだ理由です。
当時の理念に関する研究は、その意義や役割を静的な視点から論じるものが多く、「理念浸透」といった動的なテーマを扱ったものはほとんどありませんでした。先行研究がないのなら、企業に出向いてインタビューをしようと思い立ち、それから25年。インタビュー調査は私の研究を支える柱になりました。
日本企業における経営理念の現状をどのようにお考えでしょうか。
日本人は元来、理念を大切なものと捉えてきました。江戸時代から今日に至るまで、どのようにビジネスを展開し、いかに社員や顧客を尊重するのかといった信条が、家訓や理念として掲げられてきたことは、精神性の高さを物語っています。
一方で、海外では状況が異なります。私は、ドイツとイタリアで、2年間かけて理念浸透の調査を行いました。そこで耳にしたのは、「理念のある会社で働くことができて誇らしい」といった、日本では一度も聞いたことのない言葉です。欧米では理念を持つ企業が少なく、方向性や志が明示されること自体が珍しいため、理念の存在が社員の誇りや原動力につながっていました。
対照的に、日本では理念があることは当たり前。就活でも学生は志望企業の理念に目を通しています。ただし、それが社員の原動力として機能しているかと言われると疑問です。理念は掲げられていても、浸透は芳しくないことが日本企業における課題だと考えています。
理念浸透における「外在化・客観化・内在化」の三つのステップ
「理念が浸透している」とは、具体的にどのような状態を指すのでしょうか。
経営学において、経営理念の定義はある程度統一されています。一方で、「理念浸透」の定義は厳密に定まっていません。私は自らの研究を踏まえて、理念浸透とは「経営理念が組織の現実になっている状態」と捉えています。
それを具体的に実現するには、三つの要素が反復・循環することが重要です。
一つ目は「外在化」で、経営者が理念を説明したり、ウェブサイトで公表したりして、社内外に知らせる段階です。二つ目は「客観化」で、理念を会議や朝礼、上司の日常の指導や人事制度に埋め込み、「自社ではこれが当たり前」という状態を作ることです。三つ目は「内在化」で、客観化された理念を、社員が自身の経験や仕事に照らし合わせたときに納得ができ、進んで行動に反映させる、つまり受け入れる段階です。
経営者が表明した理念が、制度や日常の仕事に組み込まれ、社員の判断基準となり、組織の共有された現実として定着している。これが「理念が浸透した状態」です。逆に言えば、理念が浸透していない企業は、「外在化・客観化・内在化」のどこかのプロセスで分断が起こっています。
経営理念が評価などの制度にまでつながっている必要があるのですね。
その通りです。例えば、経営者によるタウンホールミーティングなどのイベントで、組織に一体感を醸成することも必要ですが、理念は日々の仕事を通じて社員が実践することに意味があります。理想は、理念に沿った働き方をした人が正しく報われる評価制度を構築することです。
しかし実際は、理念を体現したとしても数値化するのは難しく、売り上げなどの目に見える成果を出した人が組織で高く評価されがちです。そこで、例えば「理念に沿った働きをした人」をたたえる表彰制度を設けるなど、別の仕組みを作ることも有効でしょう。
また、制度だけでなく、経営者が繰り返し理念を語る姿勢も欠かせません。経営者が熱く語り、自ら実践する姿勢を示すことで、理念に正当性が生まれます。理念が「守るべきもの」として認識されて初めて、社員の日常の判断や行動の基準となり、理念浸透が進んでいくのです。
大企業のように、経営者と社員の関係性が希薄になりがちな場合は、どうすればよいでしょうか。
例えば、理念浸透がうまくいっている大企業の事例として、月に一度「誕生日会」を開催する取り組みが挙げられます。一般社員をそれぞれの誕生月に招いて、経営者と話す場を設けることで、率直な気持ちや要望を直接くみ取っているのです。そのような機会があると、経営者と社員の距離が縮まり、経営者が語る理念への共感にもつながります。
一方で、中小企業のように経営者と社員が日々顔を合わせる環境であっても、経営者が現場と目線を合わせず、コミュニケーションを怠っていれば、社員にとって理念はきれいごととして映るでしょう。組織の規模より関係性がモノをいいます。
経営理念の真の役割、積極性を生む「促進作用」と一線を守る「抑制作用」
理念の浸透は、組織のパフォーマンスにどのような影響を与えるのでしょうか。
結論から言えば、組織のパフォーマンスには、業界全体が置かれている社会環境、競合他社の動向、リーダーとの相性、チームの人間関係など、さまざまな要因が複合的に絡み合っています。理念浸透はその要素の一つにすぎず、両者の関係性を直接結びつけることはできません。

昨今は、理念が組織の万能薬であるように論じられる傾向があり、極端に言えば、「理念浸透が実現すれば利益が上がる」というイメージが独り歩きしています。その背景には、理念が持つ「促進作用」にばかりに光が当たっている現実があります。
促進作用とは、「自社の理念に沿って、こんなことに挑戦してみよう」と背中を押す働きのことです。しかし、理念には、もう一つ重要な役割があります。それが「抑制作用」です。「これをやってしまえば、私たちの会社ではなくなる。だからやってはいけない」と歯止めをかける機能です。
江戸時代の家訓には、「お天道さまに顔向けができない」という自然への畏敬の念や、「三方よし」という社会への配慮がうたわれていました。経営とは人の道を行くことであり、そこには道徳的・倫理的な抑制作用が強く働いていたのです。
ある楽器メーカーの経営者は、「経営理念とは一線を越えないために必要なものだ」とおっしゃっていました。その会社には「おもちゃのような楽器は作らない」という組織文化があります。安価で粗雑な商品を作れば短期的に利益は出るかもしれませんが、「それは本当の楽器ではない」と考えて、あえて作らないのです。
そうした判断が損か得かはわかりません。ただ、利益を上げるのは、戦略やマーケティング、ビジネスモデルの役割です。一方、経営理念は組織が何を大切にし、どこへ向かうのかを指し示す「北極星」の役割を担っています。役割をはき違えて、理念と利益を結び付けることは、抑制作用が視野に入っていないからだと言えるでしょう。
パーパスをはじめ、さまざまな呼称で方向性を示す企業が増えています。こうした動きをどのようにお考えでしょうか。
理念が階層構造に陥ることで、形骸化している企業を目にします。創業者の理念を変えられないまま、代替わりのたびに作成した新しい社是や行動指針が積み重なり、4階層、5階層にもなっている。これでは、何が大切なのかわからなくなってしまいます。時代に合わせた文言の焼き直しは必要ですが、理念をむやみに増やすのではなく、むしろ減らして整理することが求められます。
近年の「パーパスブーム」にも注意が必要です。ブームに乗ってパーパスを作成すると、階層性が増すことにもつながります。また、かつてはミッションが企業の存在意義とされていましたが、今ではパーパスが最上位に置かれ、ミッションはその下位概念になるなど、定義が節操なく揺らいでいます。流行の言葉に踊らされるのではなく、真摯に(しんし)に「経営理念」と向き合うことが重要です。
理念浸透の成否を分ける「組織の文脈」
理念浸透に失敗している企業には、どのような共通点があるのでしょうか。
これまでの研究では、「社員がどうすれば理念を内面化できるか」に焦点があてられてきました。しかし最新の私の調査から明らかになったのは、失敗している企業の多くが、内在化の手前、つまり「客観化(制度への埋め込み)」の段階でつまずいているということでした。
この調査では、同時期に行動指針を作成し、文言や浸透施策も類似している4社を対象に、2年間継続して変化を調べました。結果、同じような条件の企業を選んだにもかかわらず、浸透が確認できたのは1社のみでした。
たとえばある企業では、行動指針にコメントをつけ、経営陣が毎朝SNSで発信していました。ところが現場の社員は朝の忙しい時間に熟読することはおろか、自分の業務に関係のない内容のときは読み飛ばしていました。経営陣がどんなに労力を払っても、理念が情報として流れてくるだけでは功を奏しません。
さらに、浸透を阻害する要因も明らかになりました。ある企業では、組織に対する根強い不平不満が存在していました。一つは、管理職が上層部ばかりを見て現場を理解してくれないという「人間関係」への不満。もう一つは、どれだけ努力しても正しく評価されない「制度」への不満です。こうした不満は負の「感情」を生み、それぞれが相互に影響しながら組織全体に広がっていました。その結果、理念は「現実とかけ離れた建前」として受け止められていたのです。
ところが、これらの関係、制度、感情といった要因は、いつも阻害要因となるわけではありません。会社のなかに横たわる組織文化や歴史、蓄積された関係性や職務特性といった「組織固有の文脈」によって、良い方向にも悪い方向にも作用して、浸透に影響を与えます。
たとえば理念が浸透している企業では、経営者は理念を体現している尊敬できる人として社員に映っていましたが、浸透していない企業では、理念と言動が一致しない信頼できない人と捉えられていました。その結果、同じ手法を取っても、前者では朝礼の唱和は「歯磨きのようなもの」という認識だったのに対して、後者では「余分なことをしている」と受け取られていました。つまり、文脈のなかで、理念が社員にどのように「意味づけられるか」によって、結果は変わってくるのです。
そのような場合、人事担当者はどこから手をつけるべきでしょうか。
もし自社に根深い不平不満があるのなら、理念はいったん横に置いておくべきです。まずは人間関係を改善し、人事制度を整え、社員の声を吸い上げて不満を解消する。そうした「インフラ整備」が先決です。
「経営理念は上位概念だから、浸透させれば組織は必ず良くなる」といった万能論的かつ方法論的なアプローチではなく、まずは「働いてよかったと思える会社づくり」に取り組む。それが結果として、理念を受け入れられる土壌を育むことにつながります。
自社に合った独自の理念浸透のあり方
理念を掲げなくても、組織がうまく回っているケースはあるのでしょうか。
ある地方企業の事例ですが、その企業は浸透に関しては道半ばであるものの、組織としては健全な状態でした。理由をひもとくと、社員に「地域への愛着」「名門企業で働く誇り」「職場の人への愛着」の三つの要素が強く根付いていたのです。
その地域には特別なお祭りがあり、社員は皆、そのお祭りに深くかかわりたいと願っています。経営者はそれを地域の文化として尊重し、喜んで社員を送り出します。社員からすれば、「自分が一番大切にしていることを会社が認めてくれる」という喜びと信頼があり、それが共同体意識を生んでいました。
このように、理念に取って代わる確固たる軸が存在し、組織がうまく回っているのなら、無理に理念を浸透させようとする必要はないかもしれません。
逆に、理念が浸透している企業では、どのような取り組みが行われているのでしょうか。
ある中小企業の経営者は、社員から相談を受けた際、「私に聞くのではなく、経営理念に聞いてほしい」と伝えることがあるそうです。会社のトップに立つのは経営者ではなく理念であり、まずは理念に照らし合わせて判断するよう促しているのです。
さらに、その経営者は、自社の行動指針を手帳にまとめ、社員だけでなく取引先にも配っています。「私たちはこういう価値観で仕事をしているので、それをご理解の上でお付き合いをお願いします」と伝えるためです。
すると取引先がその姿勢に感化され、「良い取り組みをされていますね」という声が巡り巡って社員の耳に届きます。外部からの評価が社員の背筋を伸ばし、誇りへとつながっていく。社内だけで完結させず、外在化からの循環を見事に作り出している素晴らしい取り組みです。
理念浸透に悩む人事担当者や管理職の方々へアドバイスをお願いします。
よく「他社はどのような手法を取っていますか」という質問を受けます。しかし、他社の成功事例をそのまま自社に取り入れても、組織の文脈が異なればうまくいくとは限りません。
理念浸透は理念の内容や施策だけで決まるものではありません。理念が組織の当たり前として受け止められることができる土壌があってこそです。
どのような手法が良いかを探す前に、社員が「まんざら悪くない」と感じる組織づくりに尽力する―。「組織は人である」という原点に立ち返り、まずは社員が、理念をどのような意味をもつものとして受け止めているのかを、見つめ直してはいかがでしょうか。その先に自社固有の文脈が見えてくるはずです。

(取材日:2026年6月23日)
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