組織のわかりあえない対立を読み解く
ナラティヴ・アプローチで人事が果たしうる支援とは
埼玉大学経済経営系大学院 准教授
宇田川元一さん
対話によって、批判の対象を変化させられる
宇田川先生がナラティヴ・アプローチに着目するようになった理由をお聞かせください。
ひと言で申し上げれば、組織運営における知識と実践の乖離(かいり)を感じたからです。私は2016年まで9年間、九州で過ごしました。その間、国立大学では文部科学省による改革が進められ、所属していた大学でも本部から学部に対して「研究戦略」や「知財戦略」と、いろいろな戦略が申し渡されました。
「お前たち教員は何にも考えないから、本部が考えてやったんだ」という印象を受けたのと同時に権力構造が透けて見えて、正直なところ、すごく不愉快な気分になりました。でもそれだけでなく、ある疑問が湧いたんですね。
経営戦略論を自分は研究しているけれど、こうした知識と実践の溝や、経営戦略という概念自体が持っている見えない権力作用について、どのように考えるかという研究はあまり見たことがなかったのです。
まさに溝ですね。
その通りです。それで溝を扱う研究はないのかと探っているうちに、批判的経営研究(critical management studies)という領域にたどり着きました。ミシェル・フーコーやユルゲン・ハーバーマスなど批判的な哲学者の思想を持ち込みながら、現実の企業活動を批判的に研究することで、マネジメントにおける権力作用や抑圧性を見出していく分野です。私は批判的経営研究にしばらくのめり込み、この分野の先進国でもあるヨーロッパやアメリカの学会にも参加して学んできました。
研究自体は面白く、周りの研究者のシャープな分析も素晴らしいと感じました。しかし、いくら批判しても、溝があるということはわかるけれど、溝に働きかけることにはつながらない。なんというか、無責任に指摘しているだけのように思えて、だんだん虚しさを覚えて、もう少し別のアプローチができないかと模索しました。そこで出会ったのが、ケネス・ガーゲンの『あなたへの社会構成主義』という本でした。社会構成主義は人々のやり取りや関係性によって現実がつくられる、という考え方です。ガーゲンは心理学者の視点からこれを説き、ナラティヴ・アプローチの構築にも大きく関わった人物の一人です。
ガーゲンの本からは、どのような影響を受けたのですか。
ガーゲンは、「私たちは、批判の対象を変化させることができるはずだ。なぜなら私たちの世界は、日々交わす言葉によって創造されている。言葉が変われば、現実も変わってくるはずだ」という趣旨のことを述べていました。また彼は、批判は批判する対象を変革するために本来行われるはずであると指摘していて、「批判的研究が批判に留まるのは、本来の目的を完遂していないのではないだろうか」と述べています。
私は頭をガツンとやられたのと同時に、探し求めていたものを見つけた気がしました。言葉を変えるのに必要となるのが対話です。新しい関係性を構築することで言葉が変わり、その先の未来も変わっていくからです。
批判をしているうちは、自身のナラティヴに囚われているということですね。
はい。そして日本の組織を見たときに、まさにそうした外部からの批判にとどまっているケースが多く、対話を構築する力が弱いと感じたのです。その思いは、東京に戻ってきてから、より強く感じるようになりました。東京のビジネスパーソンは本当によく勉強しています。ビジネススクールは人気だし、毎日のようにセミナーやパネルディスカッションなどのイベントが行われていて、ビジネス系のWebメディアの記事は頻繁(ひんぱん)にSNSでシェアされて議論が白熱することもあります。会社の外で学ぶことは珍しいことではなく、多くの人が何かしらの形で知識やノウハウを吸収しています。
それなのに、組織の悩みやトラブルは尽きることがありません。おそらく知識を実践につなげる術を、みんなわかっていないのです。つなぐというのは、言ってしまえばナラティヴの溝に橋を架けることです。状況を改善したい問題に対してテクニックやノウハウを試みる前に、その当事者たちと対話を成立させなければならないのです。
みんなナラティヴの存在に気づかずに議論しようとして、つまずいています。対立が、一方的なノウハウでは解決できない適応課題であることに気づき、対話の成立を試みれば、もっと違った結果につながるはずです。そうした背景から、ナラティヴ・アプローチの組織論への応用を考えるようになりました。
自分も相手も考えに偏りがある
『他者と働く』の中で、ナラティヴの溝に橋を架けるには、まず溝の存在に気づくことが大切だと説明しています。
本書ではナラティヴの溝に橋を架けるプロセスを、「準備―観察-解釈-介入」の4段階に分けて説明しています。このうち「観察-解釈-介入」は、適応課題という考えの生みの親であるロナルド・ハイフェッツが、適応課題に臨むプロセスとして紹介しているものです。しかし、日本の組織文化の現状を踏まえると、もう少し丁寧なアプローチが必要だと感じました。そこで「準備」という段階を最初に設けたのです。
準備とは、具体的に何をするのでしょうか。
簡単に言うと、「互いにわかり合えてないこと」「相手が観察すべき存在であること」を認めることです。政治哲学者のリチャード・ローティは、中立的な人間など誰も存在しない、と述べています。つまり、自分にも相手にも何かしらの偏りがある。それは育った環境や触れてきた情報によって誰しもが持っているものです。つまり、自分のアイデンティティは偶然の産物に過ぎないのです。
このことから、まずは自分の偏り、つまり自身のナラティヴの存在に気づくこと、続いて自分のナラティヴを一度脇に置き、そのうえで相手のナラティヴの存在を確認する作業が重要だと考えています。
偏りを認めることで、自分の正論を疑うのですね。
正しさというのは、しょせん、ある枠組みの中、つまり、特定のナラティヴにおいてしか通用しません。ビジネススクールに通い、いろんなフレームワークを習得した人からすれば、動きの鈍い上司をやる気がない、わかっていないと歯がゆく思うでしょう。けれども上司のナラティヴに基づけば、動かないことの正当性や合理性があるのかもしれない。
だから自分のナラティヴをいったん脇に置いて、「上司はどう考えているのだろう?」「上司が動かない理由はなぜだろう?」と、周辺も含めた上司の環境や状況に目を向けてみる。そうすることで、自分の考えが受け入れられない理由に気づけるはずです。「自分はコレが大事なのと同様に、相手はアレが大事なんだ」と。リチャード・ローティの考えに基づくと、そこで連帯が生じます。連帯とは、自分が相手の立場だったら同じように考えたり感じたりすることを認めることです。偏り方は異なりますが、偏っていることは自分も相手も同じだからです。
「準備」についてはよくわかりました。では、「観察-解釈-介入」はどうすればよいのでしょう。
「観察」では相手のナラティヴを探ることで、溝の位置や状態を探ります。別な言い方をすれば、適応課題が生じる原因や理由を掘り起こします。次の「解釈」は、相手のナラティヴに飛び込んで、相手から見える景色を確認する作業です。そして「介入」は、実際にナラティヴの溝に橋を架けてみます。
今回『他者と働く』では、あえて解釈や介入の方法にはあまり言及しませんでした。というのも読者の皆さんは、おそらく解釈や介入につながるフレームワークやノウハウはたくさん学んでいるからです。それに加えて、準備と観察をよく行ってみると、もっとできることがあることに気がつけると思うのです。
相手のナラティヴを理解している状態なら、セミナーや講演会などで得られた知見も生きるということでしょうか。
はい。自分と相手の間にどんな溝があるかわからない段階で知見を試しても、物事はうまく進みません。「準備」と「観察」は、手の付けどころがわからない適応課題を読み解く作業ともいえます。それができれば、適応課題は技術的問題になっていきます。「解釈」「介入」の段階になったら、勉強してきたことをうまく使えばいいのです。
そしてもう一つ大事なポイントは、「準備―観察-解釈-介入」のプロセスを何度も回すことです。対話の成立までには、四つの過程を行ったり来たりするものです。例えばいい銃を持っているだけでは、狩りは上手になりません。獲物が姿を現したときに、タイミングよく撃てるようになるためには、試行錯誤の繰り返しが必ず必要です。対話の過程もまったく同じで、何度もナラティヴの溝と相手のナラティヴに触れることで、ようやく橋を架けることができるのです。
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。