《論談時評》第3回 貧富の差はどこまで広がった?「格差社会」を読み解く
一度落ちたら二度と這い上がれない社会になっていくのか
はたして、人々が感じるほど格差は拡大しているのか。結論を言えば、分野によっては確かに格差が広がっているとも言えるし、そうではないとも言える。いずれにせよ、問題は「今そこにある格差」ではない。いったん、格差がつたら最後、それは二度と埋められず、むしろ拡大する一方なのではないかという将来に対する不安感。それこそが、この国が抱える格差問題の本質だ。
ジャーナリストの斎藤貴男氏は、作家の林信吾氏との対談をまとめた『ニッポン不公正社会』(平凡社新書、2006年)で、こんなことを語っている。
「社会ダーウィニズムは、自由競争だとか市場原理だとかいって、努力するやつが勝ち組で、しないやつが負け組なんだという見せ方をする。だけど、スタートラインが同じならその理屈は成り立つけど、スタートラインはみんな違うじゃない?有利な人と不利な人がいるよね。その間の調整がなされたうえで競争だというなら一応筋は通るけど、調整なんかしない。今の構造改革もそうだけど、貧しければ貧しいほど税金取られる仕組みにする。もともと有利なのがさらに有利になる。それでヨーイドンで勝ち組、負け組とやったって、こんなものは八百長でしかないわけです」
斎藤氏の指摘は、橘木氏ら一部の経済学者とも一致する。最近の税制改革は、格差をむしろ助長する方向に動いている。2003年の税制改正では、相続税・贈与税の最高税率が70%から50%へ引き下げられ、税率を刻む段階も以前より幅が広くなった。所得税・住民税の最高税率も、1986年には88%だったものが、2005年には50%に引き下げられている。「その結果、租税による不平等度の改善効果は、1986年には4.2%あったが、2001年には0.8%まで低下している」(大竹文雄『経済学的思考のセンス』中公新書)。
小泉首相も竹中平蔵大臣も、不況を脱し、経済のグローバル化を乗り切るためにはまず「富める者」をつくり、その後に、彼らが稼いだ金で「貧しい人々」を助けるしかないのだと言い続けてきた。だからこそ、改革には「痛み」が伴うし、自助努力も必要になる。レーガン政権時代のアメリカも、サッチャー時代のイギリスも、そうして不況から立ち直ったというのが、彼らの主張の根拠になっている。
ただし、忘れてはいけないことがある。アメリカがどんなに格差社会であっても、アメリカ人の多くは、自分たちの社会を「自由」と「公平性」を重んじた社会だと主張するはずだ。かつて、「平等社会」が神話であっても機能していたのと同じように、社会の安定に必要なのは、理想という名の幻想であり、その信憑性である。
日本の未来が、一度落ちたら二度と這い上がれない「格差社会」になるのか、それとも、努力した者が努力した分だけ報われる「格差社会」になるのか。それは、この国に真の理想が存在するかどうかにかかっている。
私たちは今、政治家たちの言葉に、信じるに足る理想を感じることができるだろうか。
text by 村山弘美=ライター