人的資本開示によせて
マーサージャパン 組織・人事変革コンサルティング シニアマネージャー 阿久津 純一氏
人的資本開示に向けた要請・注目がますます高まっています。2020年の米SECによるRegulation S-K 1 改定に続き、EUでも2021年にCSRD 2 が承認されるなど企業・上場企業に人的資本を含む非財務情報の開示を求めるルールが海外で広がっていることは、連日の報道の通りです。
また、ISO30414 3 、WEF 4 、GRIスタンダード 5 、IIRCとSASBが統合されたVRF 6 (今年6月にIFRS財団のISSBへ統合)などをはじめ、様々な団体・機関が人的資本を含むESG・サステナビリティの開示に関する基準・ガイドラインを策定しています。
日本でも、2021年の東証CGコード改訂 7 で人的資本の開示が求められているほか、年初の岸田首相の施政方針演説 8 にも盛り込まれ、経産省や金融庁、そして新しい資本主義実現会議の非財務情報可視化研究会 9 などで検討が進んでいます。
本コラムの執筆時点(5月下旬)では、同研究会の第5回会議で人的資本の開示に向けた指針(たたき台)が公表されているほか、金融審議会ディスクロージャーWGの報告(案) 10 でも、有価証券報告書でサステナビリティ(人的資本や多様性も含む)についての記載を求めることが分かっています。
また、こうした人的資本の可視化(開示)と「車の両輪」の関係になる人的投資(人材戦略の実践)のポイントをまとめた「人材版伊藤レポート2.0」(経済産業省、2022)11 が発表されたことは、経営者・実務家の皆様の記憶に新しいことと思います。
こうした動きには様々な背景・要因がありますが、大まかに以下2つの考え方が組み合わさったものと考えられます。
- 人的資本は持続的な競争優位・ひいては企業価値の源泉だから、企業は適切な投資を行い、その現状や方向性を株主や市場に伝え・対話すべきである
- まっとうな働き方(decent work)は人と社会の持続可能性にとって重要であり、株主のみならず様々なステークホルダー(従業員、組合、政府、地域社会などを含め)に対して開示されるべき
いずれの観点からも重要性は論を待たず、だからこそ投資家・政府・社会など多くのステークホルダーからの要請が高まっているわけですが、実際に取り組もうとすると、素朴な疑問がいくつか浮かびます。一つは、そもそも人的資本とは何か。次に、人的資本はどうしたら高まるのか。そして、人的資本はどのように企業の競争優位につながっているのか。本稿では、近年の組織行動学の知見も振り返りながら、この3点について考察します。
人的資本とは何か
まず、人的資本(human capital)とは何か。こうした所謂”ビッグワード”は、えてして同じ語が様々な意味で使われがちなので、認識をすり合わせなくては議論のすれ違いにつながります。実際、Ployhart et al., (2014) 12 は代表的な定義だけでも10個以上あると紹介しているほど、多少の混乱は仕方ないのかもしれません。
しかし、大きな視点として「個人に宿る能力(KSAOs 13 )」の話をしているのか、そうではなく「組織レベルの能力」の話をしているのかは、目線を揃えた方が良さそうです。
なお、Ployhartらは似て非なる複数の定義を提唱しています。個人のHuman Capital(HC)と、そのうち組織が実際に使うことができるHuman Capital Resourcesの区別。さらに、その中でも企業の競争優位・差別化につながるStrategic Human Capital Resourcesを峻別すべきとしています(RBVのVRIOでいうR:希少性やI:模倣不可能性のことを指しているのでしょう)。ずばり当てはまる訳語が見つけられませんが、人的資本 ⊃ (実際使える)人的資本 ⊃(競争優位につながり・実際使える) 人的資本、といった包含関係でしょうか。
企業での具体的な検討に際しては、ビジネスモデルや今後の方向性・勝ち筋の見立てをふまえて、自社にとって大切な「人的資本」(小文字のhuman capital)は何か?をまず言語化し、関係者間で目線合わせすることが、実質的な議論の出発点になるのではないでしょうか。
人的資本はどうしたら高まるのか
次に、人的資本はどうしたら高まるのか。人的資本論の元祖の一人でありノーベル賞受賞者でもあるBeckerの当初の議論 14 では、個人に宿り・賃金を左右する「人的資本」への投資といえば、(A)研修、(B)学校教育、(C)その他の情報収集の3点が主でした。この線でいくと、とにかく研修等のインプットを増やすか、学習歴の長い候補者を採用するか、という話になります。
しかし、前述のStrategic Human Capital Resourcesのような(すなわち、競争優位につながるような)意味で人的資本を捉えるならば、はたしてこうしたインプットの強化だけで上手くいくのでしょうか。
人的資本は他の種類の資本や資産と大きく異なる性質を持っています。そう、人的資本は、ときに気むずかしく、ときに気の良い資本です。特許や機械などの会社が「所有」できるものとは異なり、人的資本は自分の意志で辞めてしまったり 15 、サボタージュをしたり、そこまでゆかずとも体調不良や気持ちの揺れでパフォーマンスが下がるということがままあります。逆に、ふとしたキッカケでやる気に満ちて、ずば抜けた成果をあげることもあります。似たような教育歴や研修歴の社員間でもこうした違いはあるでしょうし、同一人物のなかでも変化の波があります。
こうした、ヒトの良くも悪くも不確実な性質をふまえると、人的資本への投資を考える際には、教育・研修などの学習機会充実による基礎体力づくりのみならず、それらの人的資本が実際に活用・発揮されやすいように、心身ともに健康で「あたたまった」状態(いわゆるウェルビーイングやエンゲージメント)を維持するための取り組みも、広義の人的資本投資として、セットで考える必要がありそうです。
人的資本はどのように企業の競争優位につながるのか
最後に、人的資本はどのように企業の競争優位につながるのか。企業パフォーマンスにつながるような人事戦略/人的資本投資を意図的に行う戦略的人材マネジメント(SHRM)の考え方は1990年代以来ながらく唱えられ、取り組まれてきました。人材版伊藤レポート(前出)で整理されている「人事戦略に求められる3つの視点」のうち、[視点1]経営戦略と人材戦略の連動も、まさにこの系譜にあります。
実証的にも、人的資本の充実と企業の優れたパフォーマンスに関係があることは様々な研究で裏付けられてきました。例えば、Crook et al.,(2011) 16 は66件の実証研究を統合したメタ分析で、人的資本と組織パフォーマンスの正の関係を明らかにしています。また、Unger et al.,(2011)17 は70件の実証研究のメタ分析で、人的資本とアントレプレナーシップの成功の間の正の関係を示しています。
しかしながら、優れた人事戦略や人的資本投資という”インプット”と、組織パフォーマンスという”アウトプット”の間に一体どのような仕組みがあるのか。簡単そうで、よく考えると間の複雑で一般化しづらいこの問題は「ブラックボックス問題」(Charlwood et al., 2017)18 として長らく探求されており、一般化された答えはまだ出ていません(諸説あります)19 。
それでも、個社の具体的なビジネスモデルや、事業の文脈・意図に合わせた独自のストーリーを語ることこそが大事、というのが多くの人的資本開示ガイドラインに共通する要請です 20 。まもなく発表される政府の人的資本開示に関する指針にも、おそらく「独自性の観点と、比較可能性の観点」という表現で盛り込まれることでしょう。
ここで求められている(自社ならではの)「人事戦略ストーリー」の構築は人事部の枠を超えて、経営陣や事業サイドとともに議論すべき重要なポイントです。また、このストーリーの達成状況や問題点をファクト・ベースで明らかにしていくことは日進月歩のHR Technologyやピープル・アナリティクスのプラクティスに期待されるテーマの一つとなるでしょう。
補足
なお、どのように(仕組み)とはやや異なる問いですが、どんな時に(境界条件)人的資本が組織パフォーマンスにつながるのか、については重要なヒントがあります。それは、社会関係資本(social capital)です。
社会関係資本は、人的資本と混同されがちながら、別のコンセプトです 21 。ブルデュー 22 は社会関係資本を「(有形無形の)資本の間にある関係性のネットワーク」と定義しており、人的資本が個人または組織に宿るものだとすれば、その間の情報共有・意見交換・ディスカッションを促すような「つながりや関わり」が社会関係資本です。野中郁次郎名誉教授が「知識創造理論」23 の中で重要性を説いたナレッジマネジメントも、暗黙知(個人に宿る人的資本)を形式知(組織に根づく人的資本)にするための社会関係資本の活用のことと読み替えられます。
最近のユニークな研究例に、世界レベルの自転車競技チームの人的資本と成績を題材にした研究(Wolfson & Mathieu, 2021)24 があります。チームに投資・蓄積された人的資本のストックは、得意種目とうまくマッチ(適材適所)して実際に活用された時にパフォーマンスにつながることや、チーム内のsocial capitalが強いほどその効果が強くなる(人的資本の活用によるパフォーマンス増加幅は、社会関係資本によって加速される)ことなど、興味深い結果が示されました。
人的資本に投資してストックを増やすことのみならず、それが実際に活用されるように、社内外のネットワーキングや知見の交換・発信など社会関係資本に対する働きかけも同様に重要なのではないでしょうか。
Social capitalは数値を外部に開示しやすいテーマではなさそうですが、多くの企業が今まさに取り組んでいるHybrid workingによるコラボレーション促進は、コロナ対応という文脈のみならず、人的資本や社会関係資本といった文脈からも、説明に値するトピック候補でしょう。例えば、NECが統合報告書(中期経営計画のパート)内の「文化と経営基盤の変革」というテーマの中で、thought leadership活動の本格化にふれている箇所は、社会関係資本への取り組みを説明している好例です。
さらに、人的資本の長期的な投資と活用がきわめて重要な製薬業界では、組織内の人的ネットワークを可視化する組織ネットワーク分析(ONA)25 を実践している事例もあると聞きます。ますます注目されている人的資本を実際に活用するためにも、社会関係資本についても積極的な取り組みや説明をしていくことが求められているのではないでしょうか。
おわりに
人的資本の開示に向けた要請の高まりを受けて、本稿では、人的資本とは何か、どうしたら高まるのか、そして、どう効く(競争優位につながる)のかについて考えてきました。冒頭で言及したようなルールやガイドラインが浸透していくことで、人的資本開示プラクティスのベースライン/事実上の最低基準が形成され、会社と資本市場/社会の間の情報の非対称性が下がっていくことは大きな第一歩です。
その一方で、各種の基準・ガイドラインや他社事例をもとに「何をどう開示するか?」というHow論のみに終始してしまうケースや、各種ガイドラインが警告している穴埋め式の対応が助長されてしまうリスクも感じています。
会社が採用候補者に求めるものが履歴書やCV/レジュメの書きぶりだけではないように、いま投資家や社会から求められているものは開示だけではありません。自社にとって、大切にすべき・投資すべき人的資本とは何なのか。それらがどのように自社の競争優位を左右するエンジンまたはリスクになるのか。ガイドラインや他社事例から”ベストプラクティス”を借りてくるのではなく、それらにヒントを得ながらも、あくまで自社の文脈を出発地点とした”ベストフィット”のストーリーを議論するきっかけとして、昨今の人的資本開示要請の動きが活かされるよう願っています。
1 Regulation S-K (item 101(c)) https://www.sec.gov/news/press-release/2020-192
2 Corporate Sustainability Reporting Directive https://ec.europa.eu/info/business-economy-euro/company-reporting-and-auditing/company-reporting/corporate-sustainability-reporting_en#review
3 ISO30414:2018 Guidelines for internal and external human capital reporting https://www.iso.org/standard/69338.html
4 Measuring Stakeholder Capitalism: Towards Common Metrics and Consistent Reporting of Sustainable Value Creation (Pillar 3, People) https://www.weforum.org/reports/measuring-stakeholder-capitalism-towards-common-metrics-and-consistent-reporting-of-sustainable-value-creation/
5 GRIスタンダード(例えば GRI 404:研修と教育 など) https://www.globalreporting.org/how-to-use-the-gri-standards/gri-standards-japanese-translations/
6 Human Capital project https://www.sasb.org/standards/process/active-projects/human-capital/
7 東京証券取引所、コーポレートガバナンス・コード(補充原則2−3①、2−4①、3―1③、4―2②、原則5−2など)https://www.jpx.co.jp/equities/listing/cg/index.html
8 施政方針演説(2022年1月17日)https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2022/0117shiseihoshin.html
9 新しい資本主義実現会議 非財務情報可視化研究会(2022年5月19日、第5回) https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/wgkaisai/index.html
10 金融審議会 ディスクロージャーWG(2022年5月23日、第9回) https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/disclose_wg/siryou/20220523.html
11 経済産業省 (2022) 人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 「人材版伊藤レポート2.0」 https://www.meti.go.jp/press/2022/05/20220513001/20220513001.html
12 Ployhart, Nyberg, Reilly, and Maltarich (2014) Human Capital Is Dead; Long Live Human Capital Resources! Journal of Management, 40(2), 371-98.
13 KSAOs = Knowledge, Skills, Abilities, and Other characteristicsの頭文字をとった略称
14 Becker (1962) Investment in human capital: A theoretical analysis. Journal of political economy, 70(5, Part 2), 9-49.
15 Coff & Raffiee (2015) Toward a theory of perceived firm-specific human capital. Academy of Management Perspectives, 29(3), 326-341.
16 Crook, Todd, Combs, Woehr, and Ketchen Jr (2011) Does human capital matter? A meta-analysis of the relationship between human capital and firm performance. Journal of applied psychology, 96(3), 443.
17 Unger, Rauch, Frese, & Rosenbusch. (2011). Human capital and entrepreneurial success: A meta-analytical review. Journal of business venturing, 26(3), 341-358.
18 Charlwood, Stuart, and Trusson (2017) Human capital metrics and analytics: assessing the evidence of the value and impact of people data. CIPD technical report.
19人的資本に関するより広範な解説・議論については、神戸大学 服部准教授の以下著書の第1章および第8章を是非ご覧ください。服部(2020)組織行動論の考え方・使い方―ー良質のエビデンスを手にするために,有斐閣.
20 人的資本開示に関する国内外の動向や、コーポレートがバンスの観点からとらえた人的資本経営のあり方についてのより広範な論考として、以下の各稿もぜひご参照下さい。
- 井上・亀長(2022)武器としてのコーポレート・ガバナンスー経営陣・委員会事務局の変革指針,中央経済社,第1章・第3章(特に3-3)
- 船引・中村(2021)2021年コーポレートガバナンス・コードおよび投資家と企業の対話ガイドライン改訂に対する対応(第4回 サステナビリティを巡る課題への取り組み),Web労政時報.
- 戸川(2021)人材マネジメントの国際標準化進展とどう向き合うか.https://www.mercer.co.jp/our-thinking/bigpicture/globalization/column-21.html
21 McCracken, Mclvor, Treacy, and Wall (2017) Human capital theory: assessing the evidence for the value and importance of people to organisational success. CIPD technical report.
22 Bourdieu (2011) The forms of capital (1986). Cultural theory: An anthology, 1, 81-93.
23 野中・竹内(1996)知的創造企業,東洋経済新報社.
24 Wolfson & Mathieu (2021) Deploying human capital resources: Accentuating effects of situational alignment and social capital resources. Academy of Management Journal, 64(2), 435-457.
25 組織ネットワーク分析にご興味のある方は、ハイマネージャー社のnoteに寄稿させていただいた拙稿もご笑覧ください https://note.com/kengomori/n/n216aa5fb5da3
組織・人事、福利厚生、年金、資産運用分野でサービスを提供するグローバル・コンサルティング・ファーム。全世界約25,000名のスタッフが130ヵ国以上にわたるクライアント企業に対し総合的なソリューションを展開している。
https://www.mercer.co.jp/
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