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筆耕

コンピュータにはまねできない手書きの存在感。
筆一本で勝負する文字の達人

昨今、もらった年賀状が裏も表も印刷だからと気分を悪くする人はまずいない。それなのに、なぜだろう。宛名だけでも手書きの年賀状が届くと、ちょっと嬉しくなるから不思議なものだ。誰もが一度は目にしたことのある招待状や賞状、卒業証書などの美しいだけではない、重みや温かみのある文字も、手書きの筆でなければ表せない。そうした文字を依頼に応じて書くのが「筆耕」の仕事。人の心を筆で耕す、文字のプロフェッショナルである。

書道は芸術、筆耕は実用。手書きの需要は意外と大きい

文字を書くとき、あなたは何を使って書いているだろうか。本コラムの読者なら、一番多い答えは、“キーボード”かもしれない。コンピュータの爆発的普及により、職場でも家庭でも、紙などに手書きで文字を記す機会は明らかに減った。文化庁が実施した平成24年度の「国語に関する世論調査」によると、ふだん手書きをするという人の割合は、はがきや手紙などの宛名、はがきや手紙などの本文、年賀状の宛名、報告書やレポートなどの文章の四つのケースで、いずれも8年前の調査結果より11~16ポイント減少している。

しかし手書きの文字そのものの価値や必要性が薄れたわけではなく、むしろTPOによっては、手書きのほうが望ましい、あるいは手書きでなければという文字・文章が依然として存在する。たとえば招待状の宛名や各種賞状、席札、熨斗(のし)などだ。そうした書き物全般を依頼者の代理で、毛筆やペンを使って、正しく、美しく、読みやすく書くのが「筆耕」と呼ばれる仕事である。筆耕を生業としている人を「筆耕士」と呼ぶ。

筆耕 イメージphoto

人生の節目を、筆耕の文字が彩っている

一般にはなじみの薄い職業だが、その仕事の成果を一度も見たことがないという人はいないだろう。筆耕の仕事の内容は、それほど幅広いのだ。上記の他に、卒業証書、表彰状、感謝状、案内状、式次第、祝辞、弔辞、目録、胸章、垂れ幕、選挙の為書きなど、整った手書き文字が重宝される業務は大小、多岐にわたる。大手のホテルやデパートには筆耕室と呼ばれる専門の部署が置かれ、冠婚葬祭用の生花を扱う花店などでも筆耕士が花に添える木札に社名や氏名を書き込む仕事を担当している。近年はPCとプリンターなどの普及で、宛名書きはもちろん、立派な賞状なども、職場や家庭で簡単に作成できるようになった。そのため、筆耕の需要は減ったといわれることもあるが、一生の記念になる結婚式の招待状や卒業証書などにはやはり手書きの文字の重みや存在感が欠かせない。式典などで使う記章・胸章は印刷が困難なので、手書きに頼らざるをえないし、式辞の類も社会的地位のある人の場合、プリントアウトというわけにはいかないだろう。手書きの技が活きる場面は、想像以上に多いのである。

その技とはどのようなものなのか。そもそも「筆耕」の語源は「筆耕硯田」(ひっこうけんでん)という言葉の略で、筆で硯(すずり)の田を耕す=筆で生計を立てることを意味する。筆といえば書道を連想するが、同じ筆でも書道と筆耕は似て非なるもの。筆耕に必要なのは筆耕書道、あるいは実用書道と呼ばれる技術で、書家などが追求する芸術書道とは一線を画す。要するに、素直でクセのない、整った楷書体を、適切な書式やレイアウトに則って、丁寧に、しかし一定以上の速度で書けること。これが、筆耕の技能の大前提である。実際、書家や書道の先生が、筆耕の仕事を得ようとしても、書体の違いで不採用になることは珍しくないという。

やりがいは「自分の文字が多くの人の目に触れること」

もちろん書道のたしなみがあれば、毛筆に慣れている分、筆耕士の適性として有利であることは間違いない。現に、活躍している筆耕士の多くは、書道の段位や展覧会などの豊富な入選歴を持っている。しかし実用に資する筆耕書道と、展覧会のための芸術書道では、筆の持ち方から違う。だから、それまでにいくら書道経験があったとしても、初心に帰り、しかるべき教室や講座で専門の訓練を受ける必要があるのだ。新しい知識や技術をゼロから習得しようとする素直さや真摯な学びの姿勢、生真面目さや丁寧さ、根気強さなどが相応に備わっていないと、筆耕士への道は開けないだろう。また、期限までに数百枚から千枚単位の宛名書きを一人で仕上げるなど、実際の業務は重労働だ。繁忙期ともなると、一日中紙に向かわざるをえないことがよくあるので、健康管理も必須のスキルとして求められる。何よりも「文字を書くこと」が好きでなければ務まらないし、それだけでももちろん務まらない。

そんな筆耕の仕事の醍醐味は何といっても、自分の書いた文字が多くの人の目に触れることだろう。冠婚葬祭などの席で、大きな喜びや感動、深い悲しみとともに読まれることも多い。印刷の文字がこれだけ普及するなか、あえて手書きにこだわる依頼主の思いを受けて、大切な場を自らの筆で飾るのだから、文字のプロにとって、これに勝る冥利はない。

身につけたいのは賞状筆耕、全文書けると一枚一万円に

筆耕 イメージphoto

賞状筆耕は、一枚あたりの単価が高い稼ぎ頭

筆耕士は、実力の世界だといわれる。年齢や学齢、経歴は一切関係ない。職業名に「士」の文字がつきながら、必要な資格も特にない。求められる文字を正しく書けることが、筆耕の仕事に就くための唯一の条件だ。ただし、そのためには専門の技術と知識を身につけなければならない。実用書道の教室や筆耕士の養成講座などで訓練を受けるのが一般的な方法である。この仕事の“花形”といわれる賞状筆耕の書き方やルールも、最近は賞状書士や賞状技法士の通信講座で手軽に学べるようだ。民間資格ながら免状も取得できるので、自分の実力の物差しとしてチャレンジするといいだろう。

必要な技術や知識を身につけた後、実際に仕事を得る道は、就職と自営の二つに分かれる。筆耕士として就職を考える場合、おもな仕事先はホテルやデパート、冠婚葬祭関連、神社仏閣などがあげられるが、直接の求人募集は少ない。先述したホテルなどの筆耕室は、じつは筆耕会社と呼ばれる専門の業者や印刷会社などが請け負っているケースがほとんど。そこに就職して、さまざまな筆耕業務を経験しながら、筆耕士としてのキャリアを磨く人が多い。最近は筆耕会社に在籍した後、あるいは最初からでも自営の道を選ぶ筆耕士も増えてきた。その多くが、インターネットを活用し、ホームページで集客、営業、受注を行っている。いきなり本業とはいかなくても、副業として始めるなら、自営でも十分成り立つようだ。

報酬面は仕事の内容によって差があり、比較的対価が大きいのが賞状である。名入れだけの部分筆耕だと一枚あたり50円から数百円程度だが、全文が書けると数千円から一万円ほどに跳ね上がる。賞状筆耕は独特の書式やレイアウトの知識を要する、専門性の高い業務なのだ。一方で、封筒などの宛名書きの場合は、ペン書きだと一枚20〜30円、毛筆書きでも40〜60円程度が相場だといわれる。より低コストで済ませたい発注側の意向が強く、薄利多売に陥りやすいのは否めない。

とはいえ、将来的には、手書きで文字を書く習慣はさらに失われていく可能性が高い。芸術としての書道は守られても、日常的に筆を扱える人や技術そのものは“絶滅危惧種”になってしまうかもしれない。専門職としての筆耕の存在価値は、これからかえって高まってくるのではないだろうか。

※本内容は2015年9月現在のものです。

この仕事のポイント

やりがい自分の書いた文字が多くの人の目に触れること
就く方法実用書道の教室や筆耕士の養成講座などで訓練を受け、必要な技術や知識を身につけた後、専門会社である筆耕会社に就職するか、自営業としてインターネットなどを活用して独立する
必要な適性・能力何よりも「文字を書くこと」が好きなこと。書道のたしなみも有利ではあるが、新しい知識や技術をゼロから習得しようとする素直さや真摯な学びの姿勢、生真面目さや丁寧さ、根気強さが必要
収入賞状の場合、一枚あたり50円~一万円
宛名書きの場合、ペンで一枚20~30円・毛筆で40~60円

企画・編集:『日本の人事部』編集部

Webサイト『日本の人事部』の「インタビューコラム」「人事辞典「HRペディア」」「調査レポート」などの記事の企画・編集を手がけるほか、「HRカンファレンス」「HRアカデミー」「HRコンソーシアム」などの講演の企画を担当し、HRのオピニオンリーダーとのネットワークを構築している。

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