取材年月:2025年10月 取材場所:日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社会議室
企業に勤める人なら半ば義務的に受ける健康診断。異常が見つからないことが一番ですが、健康診断で所見があった場合、二次検査を受けることで、思わぬ病気が発見されることもあります。慢性疾患の早期発見・早期治療のきっかけとなる健康診断の二次検査ですが、有所見率は年々増加傾向にあるにもかかわらず、有所見者の約3人に1人は二次検査に行かないという実態があります1。一方、二次検査受診率向上のため、受診勧奨票を工夫することで大きく二次検査の受診率を伸ばした企業があります。医薬品を研究・開発する日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社では、二次検査の受診促進を目的として専門家らと共創し、2023年に「ニジケンProject」を発足。「ナッジ」の専門家である行動経済学者の竹林正樹氏と、NXキャッシュ・ロジスティクス株式会社と二次検査の受診勧奨票(以下、「ナッジペーパー」)の効果に関する実証研究を実施しました。その仕組みを取り入れたNXキャッシュ・ロジスティクス株式会社とプロジェクトを発足させた日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社の担当者に、「ニジケンProject」実証研究の狙いと成果について伺いました。

- 大櫃 由貴さん
- 日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社
心・腎・代謝領域マーケティング部 マネージャー

- 竹本 晃也さん
- NXキャッシュ・ロジスティクス株式会社
総務・人財戦略部 課長
約3人に1人が健康診断の異常所見を「既読スルー」
二次検査の受診を促すため「ナッジ」理論を活用
企業の健康経営における、健康診断の課題について教えてください。
大櫃(おおびつ):日本企業は労働安全衛生法で従業員の健康診断が義務化されているため、健康診断の受診率は非常に高くなっています2。厚生労働省の報告では、健康診断での有所見率は1994年から年々上昇し、2019年以降は6割台まで増加しています3。
それにもかかわらず、当社が行った二次検査に関する調査によると、健康診断で異常所見が示されても約3人に1人は二次検査を受診していないという結果が出ました1。
二次検査の受診は従業員個人の判断に委ねられています。多忙を理由にしたり「緊急性がない」と自己判断したりして二次検査通知を「既読スルー」している人が多いのです。
なぜ、二次検査が重要なのでしょうか。
大櫃:例えば高血圧性疾患や慢性腎臓病、2型糖尿病といった慢性疾患は、初期には自覚症状がなく、本人が身体に異常を自覚したときは病状がかなり進行し、合併症を引き起こしているケースが多くあります4,5。こうした事態を防ぐためには、原因やリスク要因を早期に発見し、治療を開始しなければなりません。
企業にとって、自社の従業員が心身共に健康状態を維持し、いきいきと働いていることは重要です。二次検査は、自覚症状がない初期段階でも疾患を早期に発見して治療できる大切な機会で、本人の健康はもちろん、企業の健康経営や国の医療費の抑制にもつながります。

「ニジケンProject」の概要をお聞かせください。
大櫃:「ニジケンProject」は、健康診断で異常が見つかった人が二次検査を受診することで、慢性疾患の早期発見・早期治療を実現し、従業員のウェルビーイングな状態が続くことを目指すプロジェクトです。青森大学 客員教授で「ナッジ理論」を専門とする竹林正樹先生や、各領域の専門家と共創しました。
そこで当社では、二次検査の受診率の向上に寄与するため、竹林先生協力のもと、人が自発的によい選択を促す行動科学の手法「ナッジ理論」を用いた、二次検査の受診を促す「ナッジペーパー」を開発しました。「二次検査を受診しなさい」と強制するのではなく、ナッジを活用することで従業員が自発的に受診しようと思えるような仕組みとなっています。ナッジペーパーを活用した実証実験の結果に基づいた論文も作成中で、さらに企業の健康経営や社会に貢献していけたらと考えています。
竹林正樹氏による解説
つい後回しにしてしまう受診を、ナッジで「今受けよう」へ変える
- 竹林 正樹氏
- 青森大学客員教授
たけばやし・まさき/青森県出身。大学教員の他、(株)キャンサースキャン顧問、横浜市行動デザインチームアドバイザー、政府の日本版ナッジ・ユニットの有識者委員などを通じ、行政や企業のナッジ戦略を支援。ナッジの魅力を穏やかな津軽弁で語りかけるスタイルの講演を年間200回以上実施。
「ナッジ」は元々「ひじでつつく」「そっと後押しする」を意味する英語で、健康支援では心理の特性を踏まえ、強制やインセンティブを用いずに望ましい行動へと促す設計といった文脈で用います。ナッジは行動経済学の中心的理論で、提唱者のR.セイラー博士がノーベル経済学賞を受賞したこともあり、世界で注目されています。
従来は初回通知もリマインド通知も「各自医療機関を探して受診して、報告してください」というものでした。このスタイルで受診率が向上しなかったのは、対象者の心理傾向に合っていなかったのかもしれません。ニジケンProjectでは「受け取った人が受診してみたくなる通知」を開発しました。
具体的には、ナッジのフレームワークEAST(Easy:簡素化、Attractive:魅力化、Social社会的働き掛け、Timely:時間軸の設計)のうち、初回通知はEasyナッジを用いて受診すべき診療科を明示(例:あなたは高血圧で有所見となったので循環器内科を受診してください)し、リマインド通知にはEASTナッジを活用して「大勢が受診済み」と同調心理に訴えるリード文や4コマ漫画などを入れることで、一歩踏み出したくなるような設計にしました。
ナッジペーパーダウンロードはこちら
「手間もコストも不要」な健康施策に期待して実証研究に参加
NXキャッシュ・ロジスティクスで働く従業員の方々にご協力いただき、ナッジペーパーを用いた実証実験を行ったそうですが、同社を選定した理由は何ですか。
大櫃:実証研究の結果を論文にまとめるにあたり、健康経営への意識が高く、ナッジペーパーを送付する二次検査対象者が一定数見込まれる企業を協力先として検討していました。そこでNXキャッシュ・ロジスティクスに研究趣旨をご説明したところ、快くご協力いただけることになりました。
「ニジケンProject」に参加したきっかけと、参加前の健康経営の状況について教えてください。
竹本:NXキャッシュ・ロジスティクスは貴重品の輸送や現金保管など、キャッシュ流通を担う7,000人規模の会社です。従業員の平均年齢は40代で、いわゆるハイリスク層に当たる高年齢のベテランドライバーも多く在籍しています。社会の安心・安全に深く関わるサービスを提供しているため、従業員が健康に留意して働くことは非常に重要だと考えています。
当社は、2023年1月に日本通運の警備輸送事業部を分社化して設立されました。運動習慣のためのウォーキングラリー、睡眠時無呼吸症候群(SAS)のスクリーニング検査受診の補助、生活習慣病から発症した社員事例動画での啓発など折に触れて健康施策を行っていましたが、会社としてもさらに独自の新しい取り組みを行いたいと考えていました。「ニジケンProject」は、従来の受診勧奨票を差し替えるだけでコストがかからず簡便な手法だったので、スムーズに導入できました。
ナッジペーパーを取り入れるまでは、健康診断で異常が見つかった方に向けてどのような運用を行っていたのですか。
竹本:保健師が対面で二次検査の受診を促すほか、支店の担当者や保健師が作成した文面をベースに受診を案内するテキスト文書を各従業員に配布していました。ただし、社内に統一フォーマットがなく、それぞれ独自の内容で配布していました。対応できる人数も少なかったため、従業員一人ひとりに時間をかけて受診を促すことが難しく、課題を感じていました。
保健師や産業医が従業員と年数回行う面談では、健康診断結果から健康状態をヒアリングし、「病気へのリスク」についてアドバイスを行うなど、従業員の健康管理に努めてきました。ただ外勤が多いこともあり、二次検査の受診率が低いという課題を抱えていました。

実証研究の内容と、結果について教えてください。
竹本:2023年に実証実験のお話をいただき、まずは300人規模の組織でテスト運用を行いました。ナッジペーパーを用いる以前の2022年度の二次検査受診率は39%でしたが、ナッジペーパーを用いた2023年度は受診率68%で、29ポイント上昇しました。
そこで2024年度には配布内容を一部改良し、全社での運用を行いました。このとき健康診断を受診した従業員は約6,900人で、そのうち二次検査対象者は約1,500人でした。およそ980人の従業員が二次検査を受診したので、受診率は約65%という計算になります。特にハイリスク層である高年齢の従業員の受診率が高い傾向が見られ、ハイリスク層の意識の変化が見られました。ナッジペーパーでは受診勧奨通知が視覚的にわかりやすいので、行動を起こしやすかったのではないでしょうか。
NXキャッシュ・ロジスティクスから、ナッジペーパーの内容や手続きについての要望は出したのですか。
竹本:実証研究に参加するにあたっては、当社で対応できる人員が限られていることもあり、担当者の手間や負担がかからないようにお願いしました。新システムを導入することで複雑な作業が発生すれば、実施が困難になると考えたのです。全社運用では従業員が二次検査の予約後、支店の担当者に予約通知を提出する仕組みを取り入れたので、以前よりも受診状況が確認しやすくなりました。
大櫃:担当者の負担が大きいことは一番のハードルになると考えました。ナッジペーパーの展開や開発については、使ってもらえなければ意味がないので、実証実験に参加するNXキャッシュ・ロジスティクスの意見を最大限取り入れました。
ナッジペーパーを取り入れることで、現場の健康への意識が醸成
実際にナッジペーパーを運用されての感想はいかがですか。
竹本:今まで従業員宛に配布していたナッジペーパーを差し替えるだけだったので、コストもかからず、担当者の負担も最小限で、取り組みやすかったですね。視認性が高く画像も含んだナッジペーパーは、従来のように文字で通知するよりも目に留まりやすく、受診率は大幅に向上しました。
各支店、課所の管理者の意識向上や行動変容につながるというきっかけになったと感じています。ある課所の担当者は、ナッジを起用した新しい取り組みの実施を知って二次検査受診をこれまで以上に積極的に呼び掛けてくれたそうです。
2025年に、当社は健康経営優良法人に認定されました。これまでの健康経営への取り組みが認定された結果ですが、実証研究に参加したことで社内に健康経営への意識の高まりが醸成されたことも一因だと思います。“従業員の主体的な健康づくり”のサポートとして従業員が自身の健康を顧みるきっかけを提供し、健康意識を高めるために活用していきたいと考えています。
竹林正樹氏による解説
ナッジを活用することで受診率が向上
効果検証は、倫理審査を経たうえで初回通知とリマインド通知それぞれにおいて「オンラインでの予備調査」「小規模でのフィールド調査」「大規模での社会実装」の順番で実験を行っています。一気に行うと、効果が出現しても、それはどちらの通知によるものなのかの識別が難しくなるからです。結果は順次英語論文にして発表していきます。
現在、初回通知の小規模のフィールド調査まで完了し、受診勧奨にナッジを用いることで二次検査受診率が2.4倍向上することが判明しました。
①初回通知のオンライン予備調査
オンライン調査では、従来型の通知よりナッジ型通知の方が、企業の産業保健スタッフや要検査対象者からの評価は高く、不快感も示されなかったため、フィールド調査実施が可能との結論になりました。
Takebayashi M, Mizota Y, Namba M, Kaneda Y, Takebayashi K, Shibutani H, Koyama T. Evaluation of Nudge-Based Notification for Follow-Up Examinations in Health Check-Ups Targeting Occupational Health Staff and Undiagnosed Workers: A Randomized Controlled Trial. Cureus. 2024 Sep 23;16(9):e70032. doi: 10.7759/cureus.70032.
②初回通知のフィールド調査
NXキャッシュ・ロジスティクスで初回通知を試験導入したときの二次検査予約率53.3%は前年同時期のものより約10ポイント高く、特に年齢が高い従業員が予約を行う傾向が見られました。
Takebayashi M, Koyama T, Kaneda Y, Mizota Y, Shibutani H, Namba M. Promoting workers' appointments at follow-up examinations through a nudge-based notification. Environ Occup Health Pract. 2025 Jul 10;7(1):2024-0019. doi: 10.1539/eohp.2024-0019.
③初回通知の対照実験
従来型の初回通知を使った支店に比べ、ニジケンProjectの初回通知を用いた支店では二次検査受診率が2.4倍高くなりました(現在英語論文投稿中)
「ニジケンProject」の今後の展開について教えてください。
大櫃:今回の実証研究は論文にまとめ、研究結果を社会に広く周知する予定です。受診勧奨の通知書を差し替えるだけで二次検査受診率が向上するという結果を、健康経営に取り組んでいる企業や人事担当者に伝えていきたいと考えています。
ナッジペーパー無償配布で、従来の通知から差し替えるだけなので、限られた人員や中小企業でも気軽に取り組めます。手軽で効果が見られたナッジペーパーを今後もより多くの企業に活用していただきたいと思います。

- 弊社調べ、日本全国「二次検査受診に関する意識調査」、2023年7月実施
- 厚生労働省「健康診断有所見者の推移」
- 厚生労働省「定期健康診断結果報告」「令和5年定期健康診断実施結果報告(年次別)」
- Fujiyoshi A, et al; Observational Cohorts in Japan (EPOCH-JAPAN) Research Group. Hypertens Res. 2012; 35: 947-53
- 日本腎臓病協会「CKDの予防と治療」https://j-ka.or.jp/ckd/care.php
作成年月:2025年12月
日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社と専門家と連携し、健康診断で「要精密検査」「要治療」と判定された方の二次検査受診を促進するプロジェクト。心不全、糖尿病、慢性腎臓病など心腎代謝疾患の早期発見・早期治療を推進し、健診結果の“既読スルー”を防ぐことを目指しています。2023年10月17日発足。
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