共感的なふれあいは、心身の痛みを癒す
脳科学から考える共感とウェルビーイング
京都大学 名誉教授
乾 敏郎さん

「効率や成果ばかりが優先され、感情が置き去りにされてしまう」「正論が求められる職場で、本音を話せる相手がいない」。合理性が重視されるビジネスシーンにおいて、孤独感やストレスを抱える従業員は少なくありません。京都大学 名誉教授の乾敏郎さんは、他者への「共感」こそが人間のウェルビーイングを向上させる鍵であると話します。乾さんに、共感のメカニズムや職場におけるコミュニケーションのヒントについてうかがいました。
- 乾 敏郎さん
- 京都大学 名誉教授
専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。
「共感」が人間のウェルビーイングを向上させる
脳科学の観点から、「ウェルビーイング」とはどのような状態を指すのかを教えてください。
まず、1948年に発効された世界保健機関(WHO)憲章では、「健康」について「病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」(日本WHO協会訳)と定義しています。
脳科学の観点から「ウェルビーイング」を考えてみましょう。人間の脳は「不確実」なことにストレスを感じます。逆に言うと、身体の中の環境である「健康」と、身体の外の環境である「社会的なつながり」が「予測通りに動いている」と感じられたときに安心感を覚えるのです。長期的にこの予測の誤差を小さく保てる状態を目指し続けることが、ウェルビーイングへの鍵だと言えます。
また、近年の研究では「心の痛み」と「物理的な痛み」による不快感は、脳の同じ領域で処理されていることが明らかになっています。つまり脳は、精神的な傷も身体的な傷も、同じ「痛み」として認識しているのです。ある実験では、他者との共感的なふれあいが心の痛みだけでなく、物理的な痛みまで軽減させることが明らかになっています。共感的なふれあいには物理的な接触だけでなく、言葉や表情、仕草によって相手への共感を示すことも含まれています。
このことから、WHOの定義する「肉体、精神、そして社会」という三つの要素は、脳の中で密接につながっているといえます。これらがバランスよく満たされることで人間は幸せを感じられるのです。
人間のウェルビーイング向上において重要な点を教えてください。
ウェルビーイングの向上には「共感すること」が重要です。それを証明する二つの観点をお話しします。
一つ目は、複数のカップルを対象に行われた「共感」に関する実験結果です。実験では、まず質問票を使って参加者全員の共感レベルを測定。その後、女性側に痛みの刺激を与え、男性が女性の手を握ることで起こる被験者の変化を観察しました。
すると、全員に同じ強さの刺激を与えたにもかかわらず、共感性の低い男性よりも共感性の高い男性が手を握ったときの方が、女性の痛みは大きく緩和されました。この結果から「親しい人に手を握ってもらうだけでも痛みが軽減される」「共感性が高い人や共感しようと努める人から手を握ってもらうと鎮痛効果が高い」ことが分かったのです。共感性の高さ、あるいは共感するための努力そのものがウェルビーイングにつながることが明らかになりました。
二つ目は、予測誤差を小さくしようとする脳の仕組みです。先ほども触れましたが、脳は過去の経験から「次はこうなるはず」と常に予測し、現実とのズレをゼロに近づけようと奮闘しています。この仕組みを「自由エネルギー原理」と呼びます。人間が安心して幸せに生きるということは、「予測と現実のズレが少なく、安心して先を見通せる状態」です。
職場を例に挙げると「この職場では自分の気持ちを話しても大丈夫だ」と感じられると、脳の予測は安定し人間は本来の力を発揮できるようになります。共感は脳の予測誤差を小さくすることに貢献し、ウェルビーイングへつながるのです。

他者の感情を感じ取る脳のメカニズム
人間はどのように他者に共感するのでしょうか。
他者への共感には、「ミラーニューロン」という神経細胞と、「アロスタシス」という脳のシステムが深く関わっています。
「ミラーニューロン」は、他者の動作を見るだけで、自分が同じ動作をするときと同様に活動します。私たちはミラーニューロンのおかげで他者の動作を自然に模倣することができるのです。
重要なのは、これが感情の理解に深く関わっている点です。たとえば、他者が痛がる様子を見ると、自分の中にも痛みに近い感覚が自動的に生じます。相手のしぐさを自分の身体の中で無意識に再現し、痛みを処理する脳の領域が活性化しているからです。感情を処理する感情中枢とミラーニューロンが連携することによって、理屈を超えて相手の気持ちを自動的にキャッチすることができます。
ミラーニューロンに関して面白い話があります。人が触れ合うとき、異なる個体であるにもかかわらず、呼吸や心拍数といった生理的な反応で「同期」という現象が起こります。同期とは、複数人の脳の動きがほぼ同じように活動すること。先ほどお伝えした複数のカップルを対象に行われた「共感」に関する実験では、カップルが触れ合ったとき、男性の共感性が高く、女性の鎮痛レベルが高いほど、双方の脳波活動の同期は強まっていたと言えます。
同期は、手を握るような直接的な身体接触に限らず、言葉によるコミュニケーションでも起こり得ます。対話を通じてミラーニューロンが働き、お互いの脳の同じ部位が活性化して活動がかみ合っていくことで、他者をより深く理解できるのです。
次に、「アロスタシス」は、未来に起こることを予測して、身体の中の状態を先回りして調整しておくシステムを指します。たとえば、「これから全力疾走しよう」と思っただけで、走っていないのに心拍数や血圧が上がったり、布団の中でそろそろ起きようと考えただけで身体が起き上がる準備を始めて血圧が高くなったりします。次に何をするかを脳が予測し、あらかじめ体の調子を調整してくれるのがアロスタシスです。
アロスタシスは感情の予測にも関係しています。脳はミラーニューロンがキャッチした相手の表情や声のトーンをヒントにして、「相手はこういう気持ちを抱いているのだろう」と予測を立てます。そして、実際の相手の様子と自分の予測とを照らし合わせて、できるだけズレをなくしていくことで相手の感情を正しく理解します。他者の感情を予測的に理解し、自分のことのように感じ取ることを「情動伝染」といいます。
「共感性の高い人」とはどのような人なのでしょうか。また共感性を高める方法があればお聞かせください。
共感には、大きく分けて「情動的共感」と「認知的共感」の二つがあります。
「情動的共感」とは、情動伝染により相手の気持ちを自分のことのように感じ取る共感です。悲しみに暮れている友人の話を聞くうちに自分ももらい泣きしてしまったり、怒られている人を見て自分までいたたまれない気持ちになったりする現象が情動的共感です。
情動的共感を高める方法としては、「いま、この瞬間」に意識を向け、ありのままの自分を受け入れる「マインドフルネス瞑想」が効果的です。8週間続けることで感情を処理する感情中枢の感度が高まり、共感能力が向上することが研究で示されています。中でも、自分の身体の感覚に意識を向けるボディスキャンや、呼吸に集中する呼吸瞑想をすると良いでしょう。また、普段からアートに触れて心を動かす体験を重ねることも、感情を豊かにするために有効だと考えられます。
一方「認知的共感」は、「君の気持ちは理解できる」というように、相手の感情や思考を客観的に理解する共感を指し、心がシンクロする情動的共感とは異なります。いわば、頭の中で相手の立場をシミュレーションする共感であり、人生経験や、「なぜそう思うのだろう」という他者に対する探求心によって培われていきます。

感情に寄り添う力が、組織を強くする
職場において、相手への共感を伝えられるコミュニケーション方法があれば教えてください。
まず、「感情のラベリング」。相手の気持ちを推測し「それは悔しかったですね」「それは不安でしたよね」と言葉にして返す方法です。言葉で感情にラベルをつけることで、「前頭葉」が活性化し、パニックや興奮を引き起こす「扁桃体」の活動が自然と抑えられます。つまり、感情を言葉にして共有することで、相手の心は自然と落ち着きを取り戻し、「分かってもらえた」という心理的安全性を醸成することができるのです。
相手の話に合わせてうなずく、表情で豊かに反応を示す、身体を少し相手の方へ向けるといった非言語的コミュニケーションも効果的です。人間の脳は言葉の意味を理解するよりも早く、相手の態度から安全性を察知するため、これらの仕草は「あなたの話を真剣に聞いています」という強力なメッセージになります。
相手から共感してもらいやすくするためのアプローチとして「ミラーリング」という手法もあります。相手が髪に触れたら自分も自然に髪に触れる、相手が足を組んだら同じように組むといった相手のしぐさをさりげなく模倣する手法です。動作や呼吸を相手のペースに合わせてみると、相手の脳内にあるミラーニューロンが同調し、無意識のうちにこちらに対して深い安心感や親近感を抱くようになります。「自分が笑顔になれば、相手も自然と笑顔になる」という作用も期待できるでしょう。
ミラーリングは、相手との距離を縮める効果的なアプローチとして多くの実験でも有効性が示されています。ただし、相手に「まねされている」と気づかれてしまうと、警戒心を強めてしまいます。あくまでも自然に、かつ相手に気づかれないように行うことが絶対条件です。
従業員同士が感情を分かち合うことができる職場環境に必要なことをお聞かせください。
従業員同士が感情を分かち合える職場を作るためには、誰もが質問しやすい雰囲気を作ることが重要です。そのため、話しかけられたらまず相手の気持ちを受け止める言葉をかけると良いでしょう。雑談できる機会を日常的に設けることも、感情を共有し心理的な距離を縮めます。
マネジメントにおいては、「最近のタスクの進捗はどうか」という論理的な問いかけだけでなく、「どのような気持ちで仕事に向き合っているのか」「仕事のどのあたりに難しさを感じているのか」「最近どんなことを感じているのか」といった、本人の感情や主観にフォーカスした質問を投げかけることが効果的です。
上司が自分のことを分かろうとしてくれているというシグナルを受け取るだけで、部下の脳内では不確実性による不安が解消されます。こうした共感によって職場の心理的安全性は醸成され、社員は自律的に仕事に取り組むことができます。
従業員が感情を分かち合える職場づくりをするために、人事部門がすべきことを教えてください。
人事部門は主に三つの施策に取り組むと良いでしょう。
一つ目は、1on1ミーティングはできる限り「対面」かつ「定期的」に行うこと。対面でのコミュニケーションは、相手の表情や声のトーン、息づかいといった非言語情報を受け取ることができるため、オンラインよりも自然に双方の感情を共有することができます。
二つ目は、「批判よりも先に共感を示す」というコミュニケーションを浸透させることです。「分かってもらえた」という気持ちが信頼関係の基盤となります。相手の感情を言葉にして返す「感情のラベリング」をはじめとしたコミュニケーションスキルについて学ぶ機会を設けることは非常に有効です。
三つ目は、従業員を対象に、自分や他者に関する感情の気づきを促すためのプログラムを導入することです。マインドフルネス瞑想(めいそう)を取り入れたりアート鑑賞をしたりといった「心を動かす体験」を職場のイベントとして企画することで、従業員の感情を豊かにできます。自分や他者の感情に敏感になることが、対話の質の向上につながるのです。

職場では、「感情」よりも「合理」が重視されがちです。そのような環境で働く人事パーソンの方々に向けてメッセージをお願いします。
職場では、効率や成果といった「合理」がどうしても重視されがちです。しかし、どれほど完璧な論理を並べても、それだけで人の心が動くことはありません。
人間は「自分の気持ちを話しても大丈夫だ」と感じられたときに脳の予測システムが安定し、本来持っているパフォーマンスを最大限に発揮できるようになります。相手の感情に寄り添うことは、表面的な「優しさ」ではありません。相手の脳の不安を和らげ、安心して思考し自発的に動ける状態をつくるための「土台」を築くことです。心理的安全性なくしては質の高い対話や信頼関係は育まれません。
人事部門の皆さんには、職場で働く従業員一人ひとりの心の機微に気づき、それを受け止めてサポートしてほしいと思います。「最近どんなことを感じながら仕事に向き合っていますか」と相手に問いかけて共感してみる。そんな小さな一歩の積み重ねが、職場に揺るぎない心理的安全性を育てていきます。感情に寄り添う力は、最も人間的で、組織を強くする力なのです。
(取材:2026年5月8日)
- 参考になった 6
- 共感できる
- 実践したい 3
- 考えさせられる
- 理解しやすい 2
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