「男性育休は短期間が妥当」「上司より先に帰ってはいけない」
なぜ私たちは、職場の暗黙のルール「多元的無知」に縛られるのか
東京大学大学院 人文社会系研究科 教授
村本 由紀子さん

「男性の育児休業は1週間くらいが妥当」「部下は上司より先に帰ってはいけない」――。こうした職場の「暗黙のルール」に心当たりはないでしょうか。多くの人が「おかしい」と感じているにもかかわらず、「周りはみな、それを良しとしている」と誤解し、暗黙のルールが維持されてしまう現象を「多元的無知」といいます。東京大学大学院 人文社会系研究科 教授の村本由紀子さんは、多元的無知は組織イノベーションの停滞や従業員の意欲低下につながりうると話します。この問題を解決するために、人事部門は何をすべきかをうかがいました。
- 村本 由紀子さん
- 東京大学大学院 人文社会系研究科 教授
むらもと・ゆきこ/1999年東京大学文学部卒業,同大学院人文社会系研究科修了。博士(社会心理学)。京都大学助手、岡山大学准教授、横浜国立大学准教授・教授、2011年に東京大学大学院人文社会系研究科准教授,2018年より同教授。専門は社会心理学。著書に『多元的無知:不人気な規範の維持メカニズム』(共著、東京大学出版会)、『社会心理学』(共著、有斐閣)、翻訳書に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』(ダイヤモンド社)など。
多元的無知は、「観察」と「誤推測」から生まれる
村本さんが研究されている「多元的無知」とは何かを教えてください。
集団の中で一人ひとりが周りの人の考えを誤認してしまうことで、本来は支持されていない暗黙の規範が維持されている状態を「多元的無知」といいます。自分はそのルールを肯定していないにもかかわらず、「周囲は納得して受け入れているのだろう」と互いに誤解している状態を指します。誤解に基づいて取った行動を、周りが本心からのものだと勘違いして踏襲することで、暗黙のルールが維持されてしまうのです。
多元的無知に関する有名な研究の一つに、アメリカの学生寮における飲酒行動を調査したものがあります。当時、男子学生の過度な飲酒が問題視されていましたが、彼らの多くは飲酒を控えたいと思っているにもかかわらず、「周囲の友人たちは自分よりお酒が好きで、自分も飲まないと嫌われてしまう」と思い込んで飲酒していたのです。
職場においても多元的無知は発生します。例えば、近年、男性の育児休業取得は一般的になりつつありますが、「期間」に関しては多元的無知が生じがちです。私たちが男性を対象に「男性の育児休業取得」について調査したところ、平均的な回答者は「1年以内の育児休業の取得は問題ない」と考えていましたが、一方で多くの人が「自分以外の人たちは、育児休業の期間は5日間~1ヵ月以内が妥当だと感じているだろう」とも回答していました。
本人は「長期間取得しても良い」と考えていても、「周囲の人は短期間しか許容してくれないだろう」とネガティブに推測してしまい、男性の育児休業の取得期間が短くなってしまうケースは少なくありません。他にも、「上司や同僚の多くが残業していたら先に帰るわけにはいかない」といった暗黙のルールも、多元的無知によって生じている可能性があります。
多元的無知はどのように生まれるのでしょうか。
多元的無知の背景には、他者の行動を観察する中で生じる二つの「誤推測」があります。
まず、「他者の選好の誤推測」です。「自分以外のメンバーは、暗黙のルールを自ら進んで受け入れているだろう」と捉えてしまう心理状態を指します。次に、「他者からの評判の誤推測」。「自分がこのルールを破ったら、周囲から孤立したり嫌われたりするのではないか」という不安から生じる思い込みのことです。
人は他者の本音を見ることができません。目に見えるのは相手の行動だけ。そのため、多くの人が暗黙のルールに従って行動している限り、ボタンの掛け違いに気づくのは非常に困難です。
多元的無知を放置していると、職場でどのような問題が起きるのでしょうか。
例えば、市場環境の変化に伴い組織変革が必要な局面なのに、「周囲の人は従来通りの組織の在り方を望んでいるだろう」と互いに誤推測していると、組織の成長は停滞してしまうでしょう。リモートワークや育児休業といった制度を導入しても、形骸化してしまう可能性もあります。重要なイシューに関して多元的無知が起きている場合、それを放置すると、組織の硬直化が進みイノベーションが阻害されるだけでなく、「組織の古い体質は変わらない」と感じた優秀な人材が離職してしまうリスクも考えられます。
多元的無知が職場にもたらすメリットはあるのでしょうか。
従業員個人にとっては「周囲から白い目で見られるリスクを最小限に抑えられる」という利点があります。特に、同調圧力が強く、否定的な評価を受けるとリカバリーが難しい組織では、自分の本音を押し殺してでも「無難な選択」をすることが個人の生存戦略になってしまうことが少なくありません。
しかし、そもそも「否定的な評価を受ける」という認知自体が誤解かもしれないのです。だとすれば、そうした誤推測に基づく行動の連鎖が、結果的に組織から変革のチャンスを奪いかねません。従業員が本来は不要な我慢を強いられ続けるという、負のループを生み出してしまうからです。

人材の流動性が低い組織は、多元的無知が生まれやすい
多元的無知が生じやすい職場の特徴を教えてください。
多元的無知が生まれやすい職場の環境要因として、これまでの研究から示唆される特徴を三つ紹介します。
一つ目は、「人材の流動性による停滞」です。人材の入れ替わりが少ない職場では、一度ネガティブな評価を受けてしまうと挽回が難しく、否定的な評価を受けることに敏感になります。「ポジティブな評価を得る」ことよりも「ネガティブな評価を避ける」ことが優先され、「人と同じ行動をとっておこう」という心理が働きやすくなるのです。日本の職場環境は、欧米に比べて雇用の流動性が低い傾向にあるため、多元的無知の温床になりやすい面があると言えます。
二つ目は「コミュニケーションの欠如」です。多元的無知は、他者の表面的な行動だけを見て「なぜその行動をとったのか」を誤解することから生まれます。気軽に本音を話し合うことができない環境が多元的無知を加速させてしまいます。
三つ目は、「従業員の多様性の欠落」です。同質性の高い属性や価値観のメンバーによって組織が構成されると、「話さなくても伝わる」という思い込みにより対話が省略され、多元的無知が生まれやすくなります。一方、多様性がある組織では「人によって考えが異なるのは当たり前」という意識から自然と対話が生まれ、多元的無知が発生しにくくなります。
組織の規模は多元的無知の生じやすさに関係するのでしょうか。
一概には言えませんが、組織の規模は多元的無知の生じやすさに関係していると考えられます。たとえば、5人から10人程度の小規模な組織であれば、お互いの距離が近いため、相手の本音や内面を知る機会も増えてきます。逆に大規模な組織の場合も、全体を見渡す行動観察は不可能なので、そのレベルでの誤推測の連鎖は起こりにくくなります。しかし、たとえば数十人から100人程度の組織では状況が変わります。「周囲の人がどのような行動をとっているか」を直接に観察することができる一方で、「なぜその行動をとっているのか」を一人ひとりに確認するには人数が多すぎるからです。また、暗黙のルールに従う人数が多くなることで、多元的無知が強固になってしまうという側面もあります。
諦めの連鎖を断ち切り、誰もが自分らしく働ける職場をつくるためには
多元的無知を解消するために、従業員は何をすれば良いのでしょうか。
多元的無知の厄介な点は、当事者に自覚がないことです。多くの人が「本音を隠して周りに合わせている」だけなのに、お互いに「自分以外の全員がルールを肯定している」と捉えています。
「自分だけが周囲と異なる意見を持っている」と錯覚している人に対して、本音を話してもらうのは簡単ではありません。従業員個人の勇気に委ねて解決するのではなく、管理職や人事担当者が多元的無知を解消する「仕組み」をつくることが重要です。
組織のリーダーである管理職は、職場の多元的無知を解消するためにどのような行動をとるべきでしょうか。
管理職が多元的無知について理解することが第一歩です。その上で、部下の行動に対して「心から望んでその行動をとっているとは限らない」という視点を持つと良いでしょう。
例えば有給休暇や育児休業を取得しない部下と個別に話し合う機会を設けて、「本当はどうしたいのか」を問いかけてみる。管理職が積極的に人事制度を活用することも、多元的無知の解消につながります。特に新入社員は、組織のリーダーやベテラン社員を見て社内での立ち回りを学ぶため、管理職が進んで行動することが効果的です。
人事部門は、多元的無知をなくすために何をすべきでしょうか。
人事部門ができることとして、ここでは四つ挙げておきます。
一つ目は、「基準を設定すること」です。例えば、男性の育児休業に関して推奨する適切な取得期間をあらかじめ設定しておけば、周囲の目を気にする必要がなくなります。制度活用時の判断を個人に委ねないことで、従業員は空気を読む必要がなくなるでしょう。ただし万一、企業側が単に取得率向上の実績作りだけを意図して短期間の取得を推奨するようなことがあれば、それは問題ですね。
二つ目は、「最初の一人をロールモデルとして広く共有すること」。誰も行動していない「0」の状態と、一人でも行動した「1」の状態とでは、組織に与えるインパクトが大きく異なります。童話『裸の王様』では、一人の子どもが「王様は裸だ!」と叫んだことで、周囲の大人たちが「思い込み」に気づきます。職場においても、一人の男性が育休を取得したら他の男性が後に続きやすくなった事例があります。まずは、管理職をはじめとした影響力を持つ従業員に声をかけてアクションを起こしてもらい、事例を社内報などで周知することが有効です。
三つ目は、「対話の機会を設けること」です。1対1あるいは小規模なチームで、対話に基づき、現場即応的に意思決定できる機会を設けると良いでしょう。思っていることを直接話し合うことで「勝手な誤解」は生まれにくくなり、互いの判断や行動を承認し合えるようになります。
四つ目は、「多元的無知の背景にある問題を仕組みで解決すること」。例えば、従業員が育児休業を取得することで周囲の負担が増えてしまうという懸念がある場合、フォローしたメンバーに手当を支給するといった制度を整備すべきです。多元的無知の背景にある不安を仕組みで解消することで、従業員は安心してアクションをとれるようになります。
最後に、職場の多元的無知に悩む人事担当者へメッセージをお願いします。
人は「多元的無知」に陥ると、独自性の高い行動をとることを諦めてしまいます。周囲に同調し続けた結果、本心では肯定していない規範を皮肉にも次の世代へ引き継いでしまうのです。だからこそ、人事担当者には「多くの人が自分と同じように考えている」という事実を伝えるための仕組みづくりや、従業員が「自分の行動は否定されない」と思えるような心理的安全性の高い環境づくりが求められます。従業員の誰もが自分らしく前向きに働ける組織を、ぜひ人事の皆さんの手で築いてほしいと考えています。

(取材日:2026年4月30日)
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