角界(2)
横綱の月給282万円
でも幕下以下は無給という実力主義。
戦後60年。戦争の記憶のない世代が定年を迎え、第一線を退く時代がやってきました。すぐあとに団塊の世代が続くだけに、定年後の第二の人生をどう過ごすかが関心を呼んでいます。会社員なら50代にさしかかってから考えてもいいテーマですが、肉体が資本の力士にとって現役を退く「一次定年」は30歳そこそこ。じっくり考える暇もなく、新しい世界に飛び込まなければならないのですから不安も大きいはずです。今回は、「角界」を引退した後の人生について調べました。 コラムニスト・石田修大
「親方」として角界に残れば65歳定年
この数年、年寄・佐ノ山を襲名した小錦がタレントに、若乃花がアメフトに挑戦してコメンテーターに、曙もK-1の世界へと、横綱、大関の転身が注目を浴びた。一見華麗な身の振り方だが、自ら望んだ道としても、現役時代の実力と人気があっての話。横綱、大関はまだしも、せいぜい幕内、あるいは幕下以下で終わる力士にとって、新たに生きる道は決して広くはない。
格闘技の中で最強とも言われる力士も、土俵を降りて髷を切れば、ただの大男。人気商売のテレビやK-1の世界に招かれる人は限られているし、ちゃんこ番の経験を生かして料理店を開くには資金や経営のセンスが必要。といって他の職業に就くにも、30代という年齢が壁になる。
ところが親方として角界に残れれば定年は65歳。今のところ世間一般の60歳定年よりも長く、30数年は角界で生きていける。好きで入った道で、引き続き後進の指導や協会の仕事に従事できる。力士にとっては理想的な進路なのだが、これが簡単に進める道ではないのだ。
105しか認められていない「年寄株」
角界は「財団法人日本相撲協会」という単一の組織が牛耳っている。構成員は、理事など協会役員を務める親方と、現役の横綱以下の力士、その卵の養成員と行司、床山など。親方はそれぞれの相撲部屋を持つか、部屋に所属し、力士と行司らを抱えて、彼らの養成、部屋の運営に当たる。協会からは親方や力士に給与やちゃんこ代(力士養成費)が支払われる仕組みである。
相撲部屋は現在55あるが、「ケイレツ」で名高い日本企業同様、一門別に5系列に分かれている。出羽海、春日野、北の湖など12部屋を率いる「出羽一門」、二所ノ関、佐渡ケ嶽、花籠など16部屋からなる「二所一門」、立浪、大島、伊勢ヶ浜など11部屋の「立浪・伊勢ヶ浜連合」、高砂、九重など6部屋の「高砂一門」、時津風、井筒など9部屋の「時津風一門」であり、高田川部屋だけが無所属になっている。
現役を退いた力士が相撲協会に残るには、年寄株(年寄名跡)を取得し、親方となって部屋を継承、あるいは新設するか、部屋付き親方になるしかない。ところが親方になれるのは、最大で105人プラスアルファに限られている。というのも、肝腎の年寄株が105しか認められていないからである。
年寄株は江戸中期に相撲興行を独占する株仲間として始まったと言われる。明治に入っても引き継がれ、東西の協会が合流して日本相撲協会を設立した大正14(1925)年の時点で105の年寄株があり、そのまま現在に至っている。
105以外のプラスアルファの部分は、特例として功績のあった力士に一代限り認められる一代年寄であり、現在は元横綱の大鵬、北の湖、貴乃花の3人だけ。このほか横綱は引退後5年間、大関は3年間、四股名のまま年寄として協会に残ることができ、幕内力士も5人に限り1年間、準年寄として四股名で残れる。年寄株取得までのいわば猶予期間だが、期限内に株を手に入れなければ、やはり角界を去るしかない。となれば一般企業の嘱託に近い存在か。
ホテルニューオータニを経営した元幕下力士
年寄株は元々は世襲制で、部屋持ち親方が後継力士を婿に迎え、部屋を引き継がせるのが通例だった。その後売買されるようになり、バブル期には売買価格が3億円以上などと言われた。年寄株が高騰したのは、相撲人気が高まって部屋運営がビジネスになった結果であり、協会の定年(65歳)まで勤める元気な親方が増え、年寄株を手放さなくなったためという。105ある年寄株のうち、現在空いているのは貴乃花の持つ「山響」だけとか。
外国人初の横綱になった曙の場合も引退後、四股名のまま曙親方として東関部屋で指導に当たり、その間に年寄株を手に入れるつもりだったと伝えられる。ところが1億5000万~2億円と言われる価格など条件が折り合わずに断念、平成15年11月に廃業、K-1入りした。本人は格闘技への意欲を強調していたが、現役時代に日本に帰化しており、K-1での連敗ぶりを見るにつけ、協会に残っていたほうがと思わざるを得ない。
結局、圧倒的多数が力士を廃業して新しい道を歩き始めるが、行き先は多種多様。元関脇の鳳凰は間垣部屋のコーチに収まり、大韓山の金基柱は昨年ロッテに入団した韓国プロ野球の元ホームラン王イ・スンヨプの代理人。変わった方面では藤ノ川が教員、森武蔵が真打ち落語家三遊亭歌武蔵になっている。戦前活躍した若港は年寄株を取得、富士ヶ根親方として定年を迎え、第三の人生を両国の幼稚園園長として過ごした。
出世頭は大正期に幕下筆頭まで務めた大谷米太郎だろうか。廃業後、さまざまな事業に手を染め、大谷重工業を基盤に大谷グループの総帥に登り詰めている。ホテル業にも進出し、ホテルニューオータニを経営、蔵前国技館の建設にも協力した。
一方、協会に残った親方たちの後半生は、かつてほど楽ではなくなっているようだ。相撲人気も若貴ブームをしおに下降気味で、新弟子希望者も減少、相撲部屋の運営も改革を迫られている。そんな中、元大関大麒麟率いる押尾川部屋が、3月の春場所後に部屋を閉めるという。「後継者がいない」ためというが、定年を2年残しての閉鎖が、大相撲の前途を示す予兆にならなければいいのだが。
(数字や記録などは2005年1月末現在のものです)
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