ある日を境に、順風満帆のキャリアが一変した
「プロフェッショナル人材」が挑戦できる社会インフラを目指す
株式会社みらいワークス 代表取締役社長
岡本 祥治さん

プロフェッショナル人材事業を主軸に、そのデータベースやノウハウ、ネットワークを活用した、コンサルティング事業、実践型リスキリング事業、オープンイノベーション事業、地方創生事業を提供する、株式会社みらいワークス。同社の代表取締役社長である岡本祥治さんはコンサルティング業界で働き、20代でベンチャー企業の経営企画部長に就任するという順風満帆のキャリアを歩んできましたが、「ある日を境に自身のキャリアの価値が一変した」といいます。起業までの道のりや、日本企業における「プロフェッショナル人材」の活用状況や課題についてお話をうかがいました。
- 岡本 祥治さん
- 株式会社みらいワークス 代表取締役社長
おかもと・ながはる/1976年生まれ。慶應義塾大学理工学部卒。アクセンチュア、ベンチャー企業を経て、47都道府県を旅する過程で「日本を元気にしたい」という思いが強くなり、起業を決意。2012年、みらいワークスを設立し、2017年に東証マザーズ(現・東証グロース)上場を果たす。
自分のキャリアの価値が変化した「ライブドア事件」と、起業までの道のり
慶應義塾大学理工学部を卒業されていますが、どのような大学時代を過ごしていらっしゃいましたか。
必要最低限の単位を取ろうと考えていたので、正直なところあまり勉強した記憶がありません。主な活動は、麻雀とアルバイトでした。大学に入って気づいたのは、私は理系的な思考は得意だけれど研究には向いていない、ということです。
大学卒業後、アンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)に入社されますが、その背景や思いについてお聞かせください。
大学時代、私がいた学科には110人ほどが在籍していましたが、大学院に進まず就職した人は7人しかいませんでした。また、私はどんな仕事が世の中にあるのかわかっていませんでした。あまり就職に関する知識がない中で、短期間で自分が成長できて、さまざまな業界を見ることができる仕事を選ぼうと考えました。それに適しているのはコンサルティング業界だと考え、規模の大きかったアンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)を選んだのです。
コンサルティングの仕事のやりがいや面白さは、どのような点にありましたか。
学生時代は学費を払って勉強していたのに、コンサルティングの仕事では給料をもらいながら勉強もさせてもらえていた。なんていい仕事だろう、と思いました。当時は今と働く環境も違っていて、「深夜まで仕事をしてみんなで焼肉を食べて、明日も頑張ろう」という雰囲気でした。仕事に夢中になっていましたね。
コンサルティングの仕事にのめり込んだのは、課題を解決したり、突き詰めて答えを出したりするプロセス自体に面白さを感じたからです。入社して3年ほどはITコンサルティングを担当していたのですが、システム障害が起きることもありました。こうした障害を解決するプロセスに私は夢中でした。「このITのツールはこんな思想で作られているのではないか」と推測して、どこに原因があるかを突き止めて解決していくのが、ミッションをコンプリートしていくような感覚で面白かったですね。
その後、ベンチャー企業に転職されますが、その背景や思いについてお聞かせください。
あるプロジェクトの打ち上げで焼肉を食べていたときに、たまたま隣のテーブルに大学の先輩がいて、名刺交換をしました。後日、その先輩から「うちの会社を手伝ってくれないか」と誘ってもらったのです。当時、転職は考えていなかったので、アクセンチュアで働きながら、先輩が働くベンチャー企業の経営企画を手伝うことになりました。
副業のようなスタートだったんですね。
はい、それまではコンサルタントとして外部から企業を支援していましたが、経営企画という立場で仕事をすると視野が変わりましたね。コンサルティングファームではIT系を3年経験した後、戦略系の部署に異動することになりました。領域が大きく異なるので、その際に年次を1年落として異動したんです。そのことが理由で、入社5年目に同期が一斉に昇進するタイミングで、自分だけが昇進できなかった。仕方ないと思いながらも自分だけが置いていかれた気持ちになりました。同時期に大学の同級生たちが華々しく活躍していたことも重なって、心機一転したい気持ちになり、ベンチャー企業に転職することにしました。

ベンチャー企業に転職してから、貴社を設立するまでの経緯や思いをお聞かせください。
ベンチャー企業に転職してすぐ、ライブドア事件(2006年にインターネット関連企業「ライブドア」が証券取引法違反の罪に問われた、一連の事件)が起こりました。私の勤めていた企業も騒動に巻き込まれ、主要な取引銀行からの融資が取り下げられるなど、深刻な影響を受けました。騒動が収束し、状況が落ち着いてから転職活動を始めたのです。
「慶應義塾大学理工学部を卒業、アクセンチュアでITと戦略のコンサルティングを5年経験、ベンチャー企業の経営企画室の部長で28歳」と「よく働きそうだな」という印象をもたれる経歴だったと思います。実際にある企業の面接を受けたらとんとん拍子に進み、最終面接で社長と握手をがっちりと交わしました。
しかし、二日ほど経って転職エージェントから「先方が『あの会社で経営企画部長を務めている人を採用することはできない』と言っています」と連絡が来ました。私の勤務先はライブドア騒動に巻き込まれただけだったのですが、世間からはイメージの悪い会社となっていたんです。
そういった事情があったのですね。
28歳にして、いつの間にか自分の経歴がマイナスになっていました。途方に暮れながらも今後の自分について考えようと、私は自分探しを始めました。本を読んだり、さまざまな人と会ったりする中で、多くのフリーランスや起業家の人たちと知り合い、さまざまな働き方の選択肢があることを知りました。
自分のアイデンティティーについてあらためて考えると、母が書道の講師の仕事をしていたこともあり、日本人としての教育を受け、日本人の価値観が根付いていると気づきました。そこで、もっと日本のことを知ろうと思い、自分の目で日本を見ようと思いました。
7回に分けて、全都道府県を回り切り、日本の人・歴史・文化・食の良さを実感しました。ただ同時に、地方経済は廃れていることも目の当たりにします。シャッター商店街がたくさんあり、大きな商業施設だけが栄えているという状況がさまざまな場所で見られたのです。地域経済が資本主義の波に飲み込まれていると感じました。
資本主義に偏り過ぎず、もっと日本の良さを生かしながら経済を発展させていく方法はないのだろうか。そんなことを考えているうちに、自分のやりたいことは「日本を元気にすること」だと思い至ったのです。しかし、「日本を元気にできる会社はどこだろう」と考えても思いつかず、自分が起業するしかないと考えるようになりました。
日本全国の様子をご自身の目で見たことが、起業につながったのですね。
最終的に起業を決意したきっかけは、青森の「ねぶた祭」でした。ねぶた祭では、毎年8月に多数の大型ねぶたが参加し、市街地を運行。最終日には、その年の受賞ねぶたが海上を運行します。私は一つのチームに帯同していたのですが、そのときにリーダーがメンバーに喝を入れている姿を見かけたのです。
「お前ら、この1年間何のために生きてきたんだ? 今日のためだよな!」
1年に一度のねぶた祭りに心血を注いでいる人たちを目の当たりにしたときに、自分はいったい何をやっているんだろうと思い、その翌日に起業を決意しました。今振り返るとあのときの私は、衰退する地方経済に自分を重ね合わせていたんだと思います。地方経済が、学歴社会の中でキャリアを消されてしまった自分と重なった。その後、ベンチャー企業の業務を整理して退職し、正式に起業してから3ヵ月後にはリーマン・ショックが起こるなど、大変ではありました。でも、自分にできることをさまざまな人に聞いて回りながら、フリーランスのような形で一人社長で仕事を進めていきました。
今の貴社のビジネスはどのように生まれていったのでしょうか。
徐々に仕事の依頼は増えていったのですが、自分一人だけの会社だったので、受けられる仕事の量には限界があります。一方で、自分の周囲には仕事がなくて困っているフリーランスや起業家の人も多くいました。そこで、自分に依頼があった仕事をその人たちと一緒に進めるようになったんです。当初、そのような人たちをクライアントに紹介しようと思っていたのですが、クライアントの了承が得られませんでした。そこで、私が業務委託で仕事を受けて、フリーランスや起業家の人たちに再委託することにしたのです。それであれば、私が責任を取ることができます。
仕事を紹介した人たちにはとても喜んでもらえました。コンサルタントとしてサービスを提供して、プロジェクトが成功して感謝されたことはありましたが、その何十倍もの熱量で感謝されました。そこで、2010年に本格的に事業化したのです。
喜ばれたことを事業として展開していったのですね。
これまで友人として付き合ってきた起業家仲間に、これからやっていきたいテーマをあらためてヒアリングしてみたら、大きく三つのテーマを持った人たちがいることがわかりました。
一つ目は大企業の経験を生かして、中小企業やベンチャー起業を支援したい人たちです。SaaSのようなプロダクトを作ったり、コンサルティングを行ったりしていました。二つ目は地方創生。当時はその言葉もなかったのですが、「地域経済を活性化させ、地方を元気にしたい」という考えを持っている人たちです。三つ目は海外とのつながりを強めたい人たち。インバウンド領域で、海外の労働者や旅行者を連れてきたい、日本酒を世界に広げていきたい、といった考えです。
私は驚きました。この三つのテーマはどれも日本を元気にする仕事であり、自分と同じような思いで独立・起業する人たちはこんなに多いのか、と。ただ、こうした人たちは増えないし、やりたいことがあってもできない現実もあることがわかりました。その状態を見て私は、志があって実力もある人たちなのに、個人で何かをやろうと思っても難しいのかと、社会に対して無性に腹が立ったんです。このような人たちが活躍できる社会インフラを作りたいと考えたことが、今の当社の事業につながっています。
プロフェッショナル人材が挑戦し続けられるエコシステムを作る
貴社が掲げる「プロフェッショナル人材が挑戦するエコシステムを創造する」というビジョン、「日本のみらいの為に挑戦する人を増やす」というミッションに込めた思いについてお教えください。
資源に恵まれていない日本にとって、人材は最も大切な資産です。一方で、日本は高齢化が進み、国内の労働人口が減少することが確実視されています。また、日本の経済成長を支えてきた終身雇用や年功序列に代表されるような、企業が労働者を守る制度や文化は終わりを告げようとしています。これからは個人が自らの責任で働き方と生き方を選ぶ時代です。
その中で私たちが注力しているのは、専門性が高く、経験豊富で、即戦力となる「プロフェッショナル人材」の活躍の場を広げることです。プロフェッショナル人材が挑戦できる機会を提供することによって、プロフェッショナル人材が挑戦を繰り返していける環境や状態、つまりエコシステムを創り出しています。これは、日本全国の企業の労働力確保にもつながり、日本の持続的な成長にも貢献すると考えています。

貴社の事業の特長をあらためてお聞かせください。
主軸はプロフェッショナル人材事業です。企業のニーズや課題に応じて、プロフェッショナル人材を、フリーランスや業務委託、副業、正社員など多様な雇用形態でアサインすることで、企業や人材を支援しています。
具体的には、フリーランスのマッチングサービス「フリーコンサルタント.jp」や、副業マッチングサービス「Skill Shift」、クリエイターマッチングサービス「MORAWORKS」などを展開しています。その他には、データベースやノウハウ、ネットワークを活用したコンサルティング、実践型リスキリング、オープンイノベーション、地方創生の事業も展開しています。
人材サービスは、社会的インフラとしての役割を果たすべき
現在の日本企業の「プロフェッショナル人材」の活用状況について、現状と課題をお聞かせください。
大企業の方と話していると、日本企業は社内でプロフェッショナル人材を育成するのも、外部のプロフェッショナル人材を活用するのも苦手だと感じます。その会社でしか通用しないゼネラリストを育ててしまいがちで、どこにいても通用する実力のある人を育てられていません。
そして、ビジネス環境の変化が加速する今、すべての人材を自社で育成することは困難です。経営者にとっても、外部のプロフェッショナル人材の活用は重要な選択肢となっています。プロフェッショナル人材の活用が進んでいくことは、日本企業の経営スピードを上げていくことにもつながります。
貴社を含む、人材サービスの業界の現状や課題をどのように捉えていらっしゃいますか。
人材サービスは良くも悪くも利益が出やすい事業であるため、利益が出ることに集中しがちな側面があります。例えば、転職エージェントの成功報酬は年俸の35%が一般的ですが、人材がどうしてもほしい場合は100%まで出す企業もあります。すると、成功報酬の高い企業にばかり人材を紹介することになり、転職者に本当に良い選択肢を提供できなくなります。
地方に関する取り組みにも同様の傾向があります。例えば、大手の転職エージェントが全国展開していたのに、採算の取れない地方の支店を閉鎖したことがありました。地域によっては大手のエージェントが進出したことで、地場の人材サービス会社が廃業に追い込まれる事態も起きていました。大手がその地域から撤退すると、さらに人材サービス会社が不足してしまうのです。
人材サービスは社会インフラとしての機能を提供している側面もあると私は考えています。人材サービス企業にとって利益が大事なのは間違いありませんが、利益だけを追い求めると、こうした偏りが各所で生み出されてしまうのです。
私たちは地方創生の事業を行っています。事業単体としては利益を出しづらい面もありますが、一例として、私たちは地方での副業を大企業向けのリスキリングプログラムに転換し、別の形でマネタイズする仕組みをつくっています。こうした戦略は、縦割り組織で事業ごとに利益を出す大手企業ではなかなか取りにくいと思っています。
自ら決断すること、生涯続けられる「ライフワーク」をもつことが人生を充実させる
岡本さんがビジネスパーソンとして20代のころに心がけていたこと、現在心がけていることがありましたら、お聞かせください。
20代で非常に多くのことを学びました。まず仕事の報酬は仕事である、ということです。いい仕事をすれば、新しい仕事のチャンスが巡ってきます。上司の仕事を部下が担うことによって、上司はさらに上の仕事をすることができ、お互いに上へと向かっていける。そういったことを意識して仕事をしてきました。また、新人のときは「会議で一言も話さなかったら価値がないので、いかに爪痕を残すかを考えなさい」と先輩に言われました。厳しい環境で仕事をしてきましたが、振り返ってみると大きなプラスになっています。
私が意識していたのは、仕事をゲームのように捉えることでした。ロールプレイングゲームで少しずつ自分が強くなって、強いモンスターを倒せるようになるのと同様に、一つひとつの課題を解決するごとに自分ができることが広がっていく。それが楽しかったですね。
仕事を楽しめない人は、どのように発想を転換すればいいのでしょうか。
何のために仕事をするのか、目的を失っている人が多いのかもしれません。大学を卒業したら働くのが当たり前で、大手のほうが安心だから大手企業を選ぶという人は多いでしょう。しかし、そこには自分の意志がありません。まずは何でもいいから自分の意志で選択することが大事です。自分で選択したことは自分事になり、コミットメントがまるで違うからです。
自分の人生は、親でも責任を取ってくれることはないので、責任を持って人生を選択することを大事にしてほしいと思います。そのほうが人生は充実するのではないでしょうか。
現在、人材サービス・HRソリューション、法人向け業界で働いている若手の皆さまにメッセージをお願いします。
人材サービス業は、働く人に対してさまざまな選択肢を提供することで、より良い人生を提供していく仕事だと考えています。そんなビジネスに携わる上で大事なのは、まず自分自身が幸せな人生を送ることです。私が思う「幸せな人生」とは、「充実している」と感じられる「生活」と「仕事」を得ている状況です。お金を稼ぐための「ライスワーク」と、自己実現につながる「ライフワーク」の両方に携わるべきだと思っています。人材サービスが自分にとってライフワークだという人はとても幸せだし、そうでなくても別のライフワークを作れるといい。
そんな人生を送っていると、人材サービスを利用する方々に対しても、キャリアという観点だけでなく、人生の選択肢を広げる機会を提供できるようになります。そんなスタンスで働く人材サービス業界の方々が増えてくれたらうれしいですね。

(取材:2025年3月7日)
社名 | 株式会社みらいワークス |
---|---|
本社所在地 | 東京都港区虎ノ門4-1-13 Prime Terrace KAMIYACHO 2F |
事業内容 | プロフェッショナル人材事業、コンサルティング事業、実践型リスキリング事業、オープンイノベーション事業、地方創生事業 |
設立 | 2012年3月 |


日本を代表するHRソリューション業界の経営者に、企業理念、現在の取り組みや業界で働く後輩へのメッセージについてインタビューしました。
会員登録をすると、
最新の記事をまとめたメルマガを毎週お届けします!